第54話 『人間』
やっぱり生き方がわからなくなってしまった。道標を、理由を、張り合いをなくしてしまったから。数ヶ月か数年が経てば、この喪失感も激しい胸の痛みも少しはましになってしまう。それを知ってしまっているから、これ以上生きていたくなどないのだ。
人間は耐え難い過去を無責任に置き去りにして、今日を渡って明日を生きるものだから。わたしはそれが嫌だ。許せない。この傷が癒えてしまうなんて嘘だ。大切なものであり続けるなら、傷は傷のまま、痛み続けなくては。何年経とうとも、流れる血は止まず、歩いた跡を惨めに刻んでいく人生でなければ認められない。そうしてはじめて『わたしは生きてきた』と胸を張る事ができる気がするの。
欠けて、壊れて、それでも藻掻いて。噎び泣きながら、躓いて。それでも、もう一度立ち上がって、歩くの。わたしたちは地を這うモノじゃない。地に足着けて、一歩一歩踏み下ろす人間だ。傲慢に山を拓いては大地を均し、文明を築き上げていく――――……。『我こそは全能』と思い上がり、他の種を蹂躙し、隷属させる
海を愛して、太陽に焦がれても、届きはしない。成就もしない。だからといって、諦める必要がどこにある? 辿り着くはずのない場所でも、望むならば目指せばいい。みっともなく生き恥を晒しても、誰も見てなんていないんだから、どれだけ無様でも大丈夫。自分が耐えられるか、それだけだ。
傷を数えるのをやめて、患部を見ないようにしていた。手当も治療もしないまま。久しぶりに向き合えば、全身を蝕んでいた。もう手遅れだ。いつからだったかな、わたしがわたしから目を背け出したのは。血染めの道を選んだ。別に間違いだったとは思わない。ただ、応急処置くらいは施してみてもよかったのかもしれない。生きる事を投げ出したくなる前に、信念を曲げてでも、もう少し自分に優しくするべきだった。
夢を見るのが怖かった。幸せであればあるほどに、醒めた反動で傷付くから。……夢を見る気持ちこそが日々を生き抜く希望だと誰より深く識っていたはずなのに。夢と願いがわたしを突き動かしていた。この足を目的地へと運んでくれていた。けれど、これ以上なにも思い描けないの。
もう疲れてしまったから、最後にあの夕陽の真似事でもしてみようか。最初で最期の思いつき。昨日も日没を眺めながら思っていた事。したいなら、してみればいい。いつだってわたしはわたしの思うままに行動してきた。躊躇いはない。
…………聞こえる。聴こえる。誰かの声が。いつか微睡みのなかで微かに届いた旋律が。そのときはじめて聞いたはずなのに、そんな気がしなかったのは、安心するその声のせいだったのだろうか。そのときは、歌詞のとおりに別れの時間までぐっすり眠る事ができた。彼の歌声だと思い込んでいたが、よくよく考えたら女性の声だった気がする。
以前聞いたのとは、歌詞がまるで違う。要約すると『海までおいで』と言っている。これは幻聴なのか。わたしの心が居もいない人物の声を作り上げているのだとしたら? ――――それもいいだろう。次の行動は決まった。従おう、いまも鳴り響くその声に。声の主が誰でも構うものか。わたしは再び海を目指そう。
死に場所を探す。わたしの最期にふさわしいのは、どこだろう。『海』なんてれっきとした目的地のように掲げてはみたけれど、範囲が広すぎる。『おばあちゃんのため』と嘯きながら本当は自分のためだけに作り上げた楽園を出て、わたしはどこへ向かうのか。
でも、もうあそこにはなにもない。元々、わたしのものではなかった。お屋敷だってお洋服だって、厚意で譲ってもらっただけ。素敵な作品に囲まれて思い上がった罰かもしれない。
結局、わたしにはなにも残らなかった。……と思うけれど、こう表現しては語弊があるかもしれない。
海がある。幾多の命を孕む胎。すべてを呑み込む巨大な肚。今日の夕陽もとうに沈んでしまったけれど、永遠に失われたわけではない。六角形に平たい岩、両方ともが健在だ。まだここには世界がある。人間が手を入れずとも続いていく大自然。そのサイクル。
それらは誰のものでもなく、もちろんわたしのものでもないけれど、確実にわたしを構成する一部。わたしの一部は、この世界。この世界の一部は、わたし。一部なんて言い方は不遜なくらい、ちっぽけな存在だとしても。
ああ、そうそう。こんな寒い日に、おばあちゃんから贈られたブローチを彼に褒めてもらった事もあった。雪の結晶のつもりで作った職人さんには少し申し訳ない気もするが、わたしにとってこれは思い出の大岩の形。
彼には最初、珊瑚に見えたみたいだけれど、本当は雪の結晶だと前置きをしたうえで、待ち合わせ場所に指定している岩に見えると言えば、彼はブローチと六角形の大岩を交互に見て、それから…………。
その笑顔に想う。
ごめんなさい。わたしはずっと、あなたにふさわしくなかったかもしれない。絶対に認めたくはないけれど。いつもいつも気後れしていた。遠慮していた。最後の最後で一歩、踏み込んでいけなかった。ただの一度も。住む世界の違いを盾にして、わたしはあなたを遠ざけていたの。誰より大切な、愛しいひとを。
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