第33話 アイデンティティとモラトリアム


「できる事より先に、したい事が浮かんできたんですね」

 

「ああ、どういうわけか。罪滅ぼしにはならねえし、ただの自己満足だ。そんな事はわかってるさ。……だとしても、奪う側じゃなくて与える事ができる側になったら、俺は前を向ける……。これからも胸張って『海賊』を名乗れると思ったんだ」


「…………やっぱりあなたは、誰よりも海賊らしくない海賊ですね」

 

 と、人魚の男は相好を崩しました。癖毛の男は垂らした前髪の隙間から輝く瞳を覗かせて、滑らかに語り続けます。

 

「ああ! 全員がいかにもな海賊やってる必要なんて、考えてみりゃどこにもないんだ。気ままに世界各地を渡り歩くだけの奴が一人いたって構わねえだろうさ」


「はい、みんな他人の事なんかちゃんと見てませんし。でも……それだったら、旅人とか探検家とかに転身しちゃえばいいんじゃないですか?」


 人魚の男は素朴な疑問を口にします。顎に人差し指を当てて首を傾けた彼は、美術館から逃亡を図った展示品のような愛らしさを極めていました。


「そういう道も一度は考えた。あとは貿易商なんかも。俺はもう、とっくに海の上がいちばん落ち着く体になってたらしい……。なんであれ、旅をやめるのだけは嫌だった」


「長期休暇の取りやすい仕事に就いて、趣味で各地を飛び回るのも……陸にいる時間が長すぎますか」


 人魚の男はしみじみと呟き、癖毛の男もまた自分の話にきちんと耳を傾けてくれている人魚に目を細めて肯定します。


「どんな肩書きの奴にでも旅はできる。だが、初めて自分の人生の舵を取れるようになったきっかけは、海賊になった事だった。俺にとっては特別なものなんだよ……『海賊』ってやつは」


 襲撃も誘拐も起こらず、一生農家として生きていった場合の――――かつては『最も幸福だと思い込んでいた人生』について――――癖毛の男は夢想します。『自由』のなんたるかを考える事もせず、自分の『不自由』さに気付かずに、善良な身内に囲まれて、のんびりと生家で送っていたであろう一生を。


 きっとひとつの幸福の形ではありました。いまもその憧れは心の奥底に燻っています。彼にとっての『地上で最も幸福な人生』は農夫の暮らしでした。辿ってきた道を思えば当然の事かもしれません。彼が知っているのは、幼い頃に叩き込まれていた農民の生き方の他には、商品であり労働力として見做された奴隷のサバイバル術のみでした。

 

 けれど、定められた運命の枠をはみ出し、相棒とともに『自由』を得た現在の彼は、一日一日を耐え抜く事だけで命をすり減らしていた頃の自分はおろか、もっと昔、故郷で平和に暮らしていた頃の自分にも二度と戻れはしません。終わりなき航海を続ける船での暮らしは、このうえなく彼の性に合っていました。地上で一度は見失った幸福を、彼は再び海上で掴んだのです。


「世間からしたら嫌われ者の悪党連中でもな……俺にとって海賊ってのは『自由』の象徴なんだ。代名詞でもある。俺はまだその肩書きに縋っていたい。海賊である事にアイデンティティを置きすぎてるんだ……。それを取っ払っても自由に生きていけるって言い切れるだけの自信がまだねえのさ。長ったらしく話しちまったが、少なくとも海賊を辞めても揺るがない自分になるまでは、俺は海賊でいたいって事だな」


「……そっか。そういう事でしたか。やっと理解できた気がします、海賊らしくないあなたが『海賊』と『海賊である事』の両方にこだわる理由が。こだわりっていうか、これはもう思い入れって言ったほうがいいかもなぁ……」 


 人魚の男は、ほうっと息をいて言いました。癖毛の男は『思い入れ』という言葉を嚙み締めます。


「俺もそう思うよ。ところで、ひとつ頼みがあるんだが……」


「……はい。なんでしょう?」


 人魚の男は癖毛の男の次の台詞を予測したのか、柔らかな表情で尋ねます。


「やっぱりこの船、貰っていいか?」


 癖毛の男は照れくさそうに、しかしはっきりと要件を切り出しました。人魚の男は笑みを深め、水中から出した右の手を彼に向かって差し出します。


「反対するはずないでしょ。あなたにとっては絶対なくちゃならない移動手段、僕にとっては大事な大事な最高傑作ですもん。……一から作ったものじゃありませんけどね。それでも、手を入れた部分が多いからには愛着も湧いちゃいます。僕が直してきたなかで、いまのところ一番補強がうまくいってる船なのも事実ですし」

 

「ありがとう。こいつには俺の足としての働きもしてもらうが、『償い』をするにも欠かせないものになるはずだ」


 癖毛の男が自身の右手を人魚の右手に添わせると、二人は互いの手をきゅっと握り合います。その光景は、さながら陸と海を繋ぐ橋が掛けられたかのようでした。人魚の手は濡れていましたが、そのぬくもりは確かなもので、彼も住む場所や呼吸法が少し違っているだけの同胞なのだと癖毛の男は実感しました。

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