第31話 生きたい理由


「死にたい理由に興味はねえのに、生きたい理由は気にするのか? ……まあいいか。拒否権もなさそうだし。話し終わってからの苦情は受け付けねえからな」


「はい。そこは約束しますよ」


 癖毛の男は人魚との会話の最中に見つけた答えを一語一語嚙み締めるように声に乗せていきます。


「…………『生きてる人間にしか罪を償う事はできないから』、だ」


「へぇ、そうですか? さっきまでは死んで償おうとしてたのに……。ひょっとして、死ぬのが怖くなっちゃいました?」


 人魚の男は意地悪そうに片眉を上げて冷笑しましたが、もう額面どおりに受け取る癖毛の男ではありません。何度も自分の本音を引き出すために憎まれ役を買って出てくれている彼に感謝しながら言葉を継ぎます。


「ああ、きっとそれもある。死んだ先にはなにもない。生きていた頃の功績も。これは憶測に過ぎねえが……悲惨な記憶だらけだとしても、幸せな思い出まで持ってかれるのは惜しいじゃねえか。誰だってきっとそう思ってる。だから人は死を恐れるんだろうし、自害する事が贖罪になると考えるんだろう。俺もそう思ってた。…………けど、それは悲観に寄りすぎた極端な物の見方だ」


「……そう思った理由はなんですか?」


 笑みを消し、鋭く切り込む人魚。訊かずとも見当はついていましたが、彼の目的は真面目すぎる癖毛の男の本音を引き出す事であり、思考を読んで得意げになる事ではありません。


「死ねば生前に犯した罪もなくなるだろ。実際には消えねえんだろうけどな。くよくよ悩む脳みそがなくなるんだから、少なくとも自分にとってはないものって事になる。俺の場合は『全部なくなれば、いつまでも渦巻いてる罪悪感も消えてちょうどいい』と思った……。だから死にたかったし、命を絶とうとしてたんだ。情けない話だけどな」


 癖毛の男は数分前までの自分を恥じていましたが、断じて否定しようとはしません。彼は生きにくいほどに内省的な性分でした。その割には打たれ弱いところもありましたが、厄介な事に本人はまったく気付いていません。そんな状態のままですべて抱え込もうとすれば、彼がそう遠くないうちに精神を病んでしまうのではないかと懸念した人魚の男は、癖毛の男に己の弱さを自覚させるために苦心惨憺していました。


「なるほど。死んでなにもかもなくしてしまうよりも、この先も独りで全部の罪を背負って生きなければならないほうがつらかったって事ですか」


「ああ。あいつだけでも生きてたら、あそこまで思い詰める事もなかったかもしれねえが……そんな事言ったら『生き残っただけじゃ不満かよ?』なんてどやされそうだな」


 癖毛の男は自分の右腕をちらりと見て、小さく笑います。当然、そこには傷のひとつも見当たりませんでした。


「そうですね。きっとそう言ったと思います。…………僕、あなたに謝らないと。言い過ぎました。ごめんなさい。いちいち指摘しなくても、あなたは勝手に自分を責めてしまう事に結構前から気が付いてたのに……」


 人魚の男は、およそ初対面の人間への対応とは思えぬ手厳しい言い回しを選んできた事を詫びました。彼は、一度決めた事は徹底的にやり抜く性格でしたが、自分自身を見つめ直させるためとはいえ、少々度が過ぎていたと反省したのです。癖毛の男には、わかりやすくしゅんとした人魚がひと回りほど縮んでしまったかのように見えました。


「そんな風に謝らないでほしい。俺にはお前の視点が必要だった。でなきゃ、ずっとくよくよ堂々巡りして、死にたい死にたいって亡霊みたいに彷徨ってただろうさ。そこが海だったか陸だったかは見当もつかねえが、生きる理由を見失った人間より悲惨なものはこの世にない……」


 いつのまにか地べたに胡坐をかいていた癖毛の男は、左膝を立てながら言います。


「うーん……それはどうかなぁ。あなたも他の大勢と同じように『死ぬ事で逃げたい、解放されたい』って思ってたのは本当なんでしょうけど、それって『生きてる限りは背負い続けてしまう真面目さ』に苦しんでたからじゃないですか? それなのに、『死んで重荷を下ろす事も許せない』って思い込んでジレンマに陥ってた……みたいな。ほんと勝手なイメージですけど。だから、全然情けなくなんかないと思うんです。罪を悔いるどころか、綺麗さっぱり忘れたり、自分のしでかした事の重大さに気付かずに他人を傷付けてのうのうと生きてたりする人間で溢れかえってるのに……」


 人魚の男は先ほどまでの様子とは打って変わって冷ややかな目で吐き捨てます。侮蔑と嫌悪を帯びた声音に、癖毛の男は身が竦む思いがしました。直接その非難を向けられているわけではないとわかっているはずなのに、なぜか咎められている気分になってしまったのです。


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