第18話 魔の海域にて


 航行を続けてしばらく、一人の船員が甲板に来て大きな声で言いました。


「なぁ、みんな聞いてくれ! あいつ、コンパスがおかしいって言うんだ」


 ぞろぞろと集まってくる乗組員たち。


「どうしたどうした」


「おかしいってどういう事だよ?」


「あぁ?」


 上背のあるキャプテンは、後ろからコンパスを覗き込みました。伸ばした髭が、計器の異常を訴えた船員のぴかぴかした後頭部に垂れています。


「なんともねぇじゃねぇか、よく見てみろ。これのどこが変だって?」


「えっ…………? ほんとだ。おかしいな……。さっき急にどこも指さなくなったから、てっきり壊れちまったもんだと」


 船員が視線を戻すと、コンパスは何事もなかったかのように真北を指し示していました。


「人騒がせだなー」


「まあ壊れてなくてよかったと思おう」


「見間違いじゃねぇの?」


 首を傾げるその船員をよそに、他の面々はそれぞれ持ち場に戻っていきました。しかし、彼の脳裏には振れ続ける針が焼き付いて離れません。その異常な様子が自分たちの未来を暗示しているように思えてならなかったのです。


「一応……注意しとくか」


 数分後、彼の不安は的中する事になります。




 一行を乗せたガレオン船は、別の海域に突入したところで足止めを食らっていました。


「おい……二時の方向って言ってたよなあ。え? どうなってる!」


 先ほどまでの和やかな雰囲気はどこへやら、強面のキャプテンの怒声が響きます。


「指示も聞いてましたし、そっちに舵切ってます!」


「船体が言う事聞かないんすよ!!」


「バカ言え! 貸してみろ。俺がやる!」


 船員たちの悲痛な叫びも意に介さず、船長は強引に舵輪を奪います。


「なぁ、オレたちゃココで終いか…………?」


「不吉な事言うなよ! テメーはなんでいつもそう後ろ向きなんだって!!」


「こんな状況だ。誰も前向きになんて考えらんねぇよ。おい、コンパスはどうだ? 相変わらずか?」


「……ダメだ。やっぱりどこも指しちゃくれねぇ」


 コンパスの針は再び、進む先を見失って振れていました。


「壊れちまったってのか? 近くに島もねぇ、こんな海のド真ん中で?」


 悪い事はそればかりではありません。今度は仮眠を取っていた船員が起き出してきたかと思うと、あくびを噛み殺しながら言いました。


「おい。なんかやけに揺れると思わないか?」


 ひとたび眠りに落ちると十発殴られなければ起きないほど寝汚い彼の登場に、船員たちは戦慄しました。彼らも薄々感じてはいたものの、異常な揺れを指摘する者はいなかったのです。


「いつもこんなもんだろ?」


「いいや、ここまでじゃねえよ……。地震か?」


「…………まずいな」


「久々に高値の付きそうなお宝が手に入ったってのに、巻き込まれちゃかなわねぇ! コイツを売っ払えばいくらになる……。お前ら、なんとしてでも切り抜けろ!!」


 キャプテンは船員たちではなく、あくまでも寄港した無人の村から持ち出した財宝の心配をしています。


「無茶言わないでくださいよ!」


「ああ、逃げ場なんてどこにもねぇだろ」


 一人の船員が諦めて寝転んだ瞬間、ありえない事が起きました。船が重石をつけられたように下に下に沈んでいくのです。


 船が沈み始める直前、数名の船員たちは、海面に沢山の巨大な気泡が発生する不気味な光景を目の当たりにしていました。彼らは幻の海洋生物が真下で待ち構えているのではないかと抱き合って震えていましたが、警戒していた突き上げはいつまでたっても訪れません。それどころか、船は海中に吸い込まれていきます。


 ここは世界各地に存在する魔の海域のひとつ。消息を絶つ船は数知れず。海底をくまなく探索しても、乗船していたはずの人々はおろか、船の残骸も見つかりません。天候の急変により転覆に至ったのだと仮定しても、そこを通ったはずの船舶が忽然と姿を消すというのは異常事態です。


 海坊主に丸呑みされたとか、レヴィアタンに襲われただとか、人々はたびたび起きる奇妙な事件を根拠のない都市伝説と結び付けて語りましたが、いずれの言説も真相に迫るものではありませんでした。彼らに牙を剥いたのは、伝説上の怪物などではなかったのです。


「なんだ!? なにが起こってる!」


「わかりませんよ!!」

 

「すげえ力で船ごと海底に引っ張られてるな……」


「このままじゃみんな御陀仏だ……」


 凶悪なキャプテン率いる海賊団も、自然現象の前では形無しです。彼らはなすすべもなく、運命を受け入れるほかありませんでした。


 水圧は船の至るところを破壊していきます。船内はなだれ込んできた海水に浸食され、仲間同士で相談する事もできず……もしできたとしても、貴重な酸素を無駄遣いすべきではありません。泳いで上を目指そうにも、水の流れには逆らえぬまま、あれよあれよという間に乗組員全員が生存不可能な状態に追い込まれました。あとは溺れるときを待つのみです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る