第8話 譲れないもの


 ああ、でも……大好きなその声を聴いたなら、近づくだけでは物足りない。凭れて、それから抱きしめて、高い頬に口付けてしまいたくなる。唇じゃないのはなぜかって? だって、わたし、いつもあなたの隣にいたでしょう?


 やっぱりわたし、彼の隣だけは、誰にも譲りたくないみたい。


 海の中にも、並んでお喋りできる素敵な場所はある? 待ち合わせるのにうってつけのランドマークもあればいいなぁ。あなたの話していた美しい光景も並んで見たい。わたしも……あなたの好きなものを好きになれるといいけれど。


 一緒に人間として生きるのはどうかって? それも嬉しい。会う事もままならず、連絡さえできないほどの隔たりが二人の間にないのなら、なんだっていい。


 彼が人間だったら、どんな服が似合うだろう? 水着姿くらいしか想像できないけど、なんだって着こなしてしまいそう。初めて会った日に拾ってくれたわたしの帽子を興味深く眺めていたから、小物までばっちり決めたコーディネートをするのかも。


 足の速さはどのくらい? 泳ぎは得意らしいけど、走るのとは勝手が違う。もし遅くてもいいの。あなたとは並んで歩きたいんだから、わたし。そう、指を絡めて、手をつないで……。話の途中で目が合うたびに、人目を気にしてキスを我慢したりして。


 昔、持っていたハイカカオチョコレートのかけらを口に放り込んだときは驚いていたけれど、甘いものは好きかしら。それなら、古代遺跡の多い西方の大都市にあるパティスリーに連れていきたい。あそこのお菓子はどれも絶品なの。……わたしたちって、仕事や考えの話は沢山してきたのに、食べ物の好みひとつ知らなかったね。


 あなたに会いたくない日なんてこれまで一日もなかったけど、もっともっと会いたくなってきちゃった。まだまだ知らない事ばかりだね、わたしたち。会えない間にも、会って話すうちにも、どんどん変わっていくもんね、お互いに。


 そういえば、彼は画期的な発明品や人間たちが語り継いできた物語に興味津々だった。だから、最新技術のニュースやおばあちゃんから教えてもらった話をすると身を乗り出して聞くの。ヒレをぱたぱたと靡かせながら。


 おかげで水が跳ねて服を濡らす事もよくあったけれど、その様子が小さい子みたいでかわいくて、全然怒る気にならなかった。冬場はちょっと冷えたけど。あなたにも子どもがもしいたら、どんなにかわいいんだろうって、そのたび考えていたの。わたしには生めないし、授かる事もできなくて残念だけど。


 本当に、どうしてこんなに違うのか……。彼に出会えないまま短い人生を俯いて過ごすより、長い長い生涯をできるだけ前を向いて生きるほうがずっといいと思うから、出会った事に後悔なんかしない。わたしが人間社会に詳しくなったのも、なんでも知りたがる彼にわかりやすく説明するためだ。彼がいたから、小さくまとまっていた無機質なわたしの世界は広がった。


 それでも、やっぱり同じ生きものに生まれたかった。種族だけでも同じなら、この恋はもう少しなにかが違っていた気がして。


 だが、わたしは人魚や魚類の姿に憧れた。わざわざ衣類を身に着けずとも華やかなドレープを持つその体に。みすぼらしくて似合わないから、普段から装飾の多いものは着ないけれど、本当は布をふんだんに余らせた、沢山ひだのあるお洋服に憧れた。大好きだった。かのデザイナーの作品に見られるような。

 

 どれもみな、叶えられる事のない願いだとわかっている。だが、夢も見られず希望も抱けない人間に待つのは死しかない。だから、命の限りにわたしは夢を見る。願いを掲げて、今日を歩む。その足取りが重くても、わたしには自由に動く足があるのだから、行きたい場所にはどこへだって赴いてみるの。


 一人でも、あなたの事を考えていたら数時間なんて瞬きの間だね。今日もまた日が暮れる。ここから見ていると、海深くまで潜っていくように見えて羨ましい。


 わたしもそろそろ帰らないと。明日も来ようか。彼が顔を出さないとも限らない。会えるかどうかは、きっとわたし次第。わずかな距離を漕いでいく。


 小船を所定の位置に着けると、港に巨大な船舶を発見した。見慣れない形だ。少なくとも漁船でない事は確かだが、かといって客船とも違う。補給に立ち寄ったなら申し訳ないが、村全体の異様な暗さを見れば、人がいない事はわかってもらえるだろう。隣町は近い。そこまで足を伸ばせば用は済む。わたしの出る幕ではない。


 明日からまた海通いを再開しようか、今度彼に会えたらなにから話そうか……。わたしは久しぶりに明日からの人生に浮き立つ思いで帰途に着いた。大切なものを失っている事も知らぬまま。




 END?





(※『彼女の独白』の続編に相当する『うつろな夜に』は後日公開予定です。)


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