第3話 『わたし』と二人のひと


 ただ、大勢の人の命の果てを見送るのは決して楽な事ではなかった。


 人口が目に見える形で減っていくのだ。一日に聞く声の種類が減り、合わせる顔が少なくなっていく。最後のほうには、仕事量と給金とが明らかに釣り合わなくなっていた。


 いまになってみると、そういった精神的負荷を加味した金額の設定がなされていたのではないかと思う。ありのままを話すなら、わたしはそこまで腹を括れていなかった。


 できていた覚悟といえば、おばあちゃんとの別離だけだ。血の繋がりなどなくても、彼女はわたしが家族だと思えるただ一人のひとだった。


 ほとんどの事は、おばあちゃんが教えてくれた。生き抜くための知恵も、心躍る物語の数々も。仕事終わりに、おばあちゃんの話を聞きに行くのが楽しみだった。おばあちゃんは、わたしの話を聞きたがっていたみたいだったけれど、わたしには、他の人に語れるほどの上等な出来事も話術もなかった。


 最初の頃こそ元気にしていたおばあちゃんだが、気持ちの若い彼女も寄る年波には勝てないようで、だんだんと話す事も困難になっていった。おばあちゃんはお喋りが得意で、大好きなのに。


 神様がもしいるのなら、なんて残酷な事をなさるのか。これ以上は、彼女からなにも奪っていかないでほしいと願った。足がうまく動かせないのだから、口くらいは死ぬまで自由に動かせたっていいでしょう?


 でも、嘆いたところで事態が好転するわけではない。できる事を探すほうが建設的だ。以前のわたしではできなかった発想の転換。彼に出会って、前向きな考えに触れ続けたいまのわたしだからこそ導き出せた答え。


 幸い、おばあちゃんの耳の聞こえは、同じくらいの年齢の人たちよりも大幅にいいらしかった。……それなら、今度はわたしが話をする番だ。話題がないだの、話す事が苦手だのと逃げている場合ではない。


 わたしは、ぎこちなくではあるものの、自分の話をするようになった。自分の……というよりは恋の話を。そして、恋人である彼の話を。人前で話す機会が多く、ひとを楽しませる方法に長けている彼をお手本に。


 わたしの人生には、本当に二人のひとしか存在しないのだとそのとき思い知らされた。比率は均等ではない。わたしという人間の大部分を占めているのが彼。なにもかもが正反対の、偉大な人魚。彼はわたしの北極星。この海のずっと深く、どこかにある彼の祖国でも、あなたは人魚たちひとびとを導く光なのでしょう。


 おばあちゃんはわたしの拙い雑談を熱心に聞いて、質問をしてくれるから……少しずつ、話す事への苦手意識が払拭されていった。気付けば、自分の感情をきちんと言語化できるまでに成長したのも、おばあちゃんのおかげだ。


 恩人である彼女と過ごせる残りの時間について考えるのは、なるべく避けていた。彼女のいない未来については、そうなってから考えればいい。どうせ避けられはしないのだ。思い悩むより、ともに過ごせる時間いまを大切にしたかった。


 紅茶を飲み頃に淹れるのもだいぶ上達した。おばあちゃんが飲み終える頃には冷え切ってしまうけれど。……昔は、一杯の紅茶を飲むのにそこまで時間をかけていなかったのは、思い違いではないだろう。頭から追いやっても、死の影は濃くなる一方だ。


 だから、死別の覚悟ができていたというよりは、緩やかに、しかし確実に衰弱していくおばあちゃんの様子を見るにつけ、腹を括らざるを得ない状況になった……というべきなのかもしれない。


 覚悟というよりは諦念と呼ぶべきだ。けれども、わたしにとってそれは覚悟だった。ただ、そうはいっても、実際におばあちゃんが目の前で亡くなったときはなかなかに堪えた。


 ……にも拘らず、自分がここまで脆い人間だという自覚を持っていなかったわたしには、その後数ヶ月、いや数年にわたったメンタルの不調と彼女との死別を結び付ける事は容易ではなかった。


 なぜなら、大切な人との別れという一大イベントを、わたしはそのときはじめて経験したから。


 もちろん、恋人である彼も大切なひとだ。でも、彼は存命だし、彼とわたしは家族ではない。


 どれほど願っても、二人が家族になる未来など万に一つもない。種族の違いか、会う頻度か。現実的な理性か……。なにがそうさせていたのかはいまだに解明できていないが、わたしが彼を家族と認識する事は一度もなかった。

 

 それでも、彼は彼で、わたしにとってはあまりに特別な存在だった。


 だが、彼の事はまたあとで語ろう。いまはおばあちゃんの話の途中だ。


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