凡人(No.5)

ユザ

『五年ぶりの再戦! 有終の美を飾ってキックボクシング卒業へ』

 時刻はとっくに21時を回っていた。

 あと残り三時間ほどで今年一年が終わろうとしている。

 毎年、大晦日に開催されている格闘技イベント『DIEMAJIN──大魔人──』において今年のメインイベントを飾っていたのは、先日、キックボクシングからボクシングへの転身を発表していた神楽坂空海かぐらざかくうかい炎也えんやの五年ぶりの再戦だった。しかも神楽坂空海にとってはこれがプロキックボクサーとして戦うラストマッチだったため、会場のチケットは即完だったらしい。

 もうしばらくすれば二人も満を持して入場してくるだろう。薄暗い店内の壁際で煌々と映し出されているプロジェクターには、つい先ほどまで行われていた前座試合のリプレイが何回も流されていたが、その映像には僕もいい加減見飽きていた。何回そのリプレイを流したところで試合結果が変わるわけでもない。店内を埋め尽くしていた僕以外の客たちもきっと同様のことを思っていたに違いなかった。その証拠に今のうちにトイレや喫煙を済ませておこうとする人が続出していたのだから。

 僕はその流れに沿って一度店の外で一服した後、席に戻ってスポーツ紙を斜め読みしながらその時が来るのをじっと待っていた。そしてその間に同僚の大坪雅人おおつぼまさと林元気はやしげんきがトイレで席を外すと、僕は自分用のジントニックと三人でつまむ用に五種のチーズ盛り合わせを店員に頼んだ。

 それからしばらく経ち、店員がジントニックをテーブルに持ってきたタイミングで僕はちょうど読んでいた神楽坂空海の記事を適当なところで切り上げ、グラスに口をつけながら顔を上げた。プロジェクターではたった今から何度目かのリプレイが流れ始めていたところだった──

 開始早々、元柔道家が勢いを持って前に出ていくと、その反動を利用して片足タックルに入った元力士がテイクダウン(レスリングや総合格闘技において立っている相手をグラウンドに倒すこと)をとった。しかし、元柔道家は倒されながらも元力士の右腕を掴み、アームロック(相手の腕を捻転または伸展させることによって肘や肩を極める関節技の一種)を狙いながらすかさずスイープ(自分の体と相手の体を上下に入れ替える柔術)して上下を入れ替えると、そのまま腕と両足で相手の首をとらえて締め上げた。これにはさすがの元力士もたまらずタップし、わずか一分十七秒で決着がついてしまった。

 解説者を務めていた元キックボクサーが説明していたことをざっくりまとめると、つまりはそういう試合展開だった。実況の男性アナウンサーはさっきからずっと同じような相槌を打っている。メインイベントの前座とはいえ、出場していた元柔道家と元力士はどちらも転身する以前はそれぞれの畑で頂点に君臨していた注目選手だったのだ。まさかこんな短時間で決着がつくとは誰も予想していなかった。だからこそテレビ局側も慌てて時間を埋めるように延々とリプレイを垂れ流しているのだろう。せめて地上波放送のなかった午前中の試合や次のメインイベントの煽りVTRでも流してくれればいいのに──とは思ったが、わざわざ口に出すまでもない。きっと今頃、裏で放送してる紅白歌合戦やお笑い番組に視聴者を奪われていることなど想像に難くなかった。

「なあっ」

 トイレから戻ってきた雅人は正面に座り、ニヤニヤと不敵な笑みをその顔に貼り付けてこう続けた。「次の試合、どっちが勝つか賭けないか?」

 もともと目尻の下がった垂れ目をしているせいか、普段から周りに穏やかな印象を与えていた雅人は酔うとさらに表情筋の全てを弛緩させたように恵比寿顔になり、顔全体を真っ赤に染める。とはいえ酒に弱いというわけではない。そうは見えても意外と最後まで生き残っていることの方が多かった。

「えー、ほんとにやんのかよ」

 おそらくトイレに行っている間も二人きりで同じ会話をしていたのだろう。遅れて席に戻ってきた元気は雅人の隣に腰を下ろし、口元を歪めながらそう言った。高さを切り揃えられていたその長い前髪でほとんど目が隠れていた彼は自然と店内の薄暗闇にも溶け込み、いつにも増してミステリアスな雰囲気を醸し出していた。

「せっかくだからいいじゃん。負けた奴がここの飲み代を奢るってことで」雅人はそう言ってテーブルをトントンと叩いた。「もちろんかけるもやるだろ?」

「おう。ぜんぜん構わないけど」と僕は言う。

「よっしゃー。じゃあ俺はやっぱり神楽坂だなっ」

 言い出しっぺの雅人は真っ先にメインイベントの主役の名前を挙げた。

「えー、ずるっ」とすかさず雅人にケチをつけた元気は口を尖らせている。「そこはジャンケンでしょ。挙手制なら普通はみんな神楽坂に賭けるって」

「だったら元気も神楽坂に賭ければいいじゃんか」と雅人は言った。

「いやいや、みんな神楽坂に賭けたら意味ないでしょ」元気はそう言ってこちらに視線を移し、隣の雅人を親指で指した。「ねえ翔、こいつってこんなに馬鹿だったっけ?」

「おいおい、本人の前でド直球に言うことねえだろ」と雅人は苦笑いを浮かべた。「じゃあわかったよ。俺が炎也に賭けてやる。そんで二人が神楽坂に賭けろよ。それなら文句ないだろ?」

「マジかっ。やった。今日の飲み代確実に浮いたじゃんっ」

 両手を挙げて喜ぶ元気はこちらにハイタッチを求めた。

 僕は反射的に元気のそれに応えていたが、その直後に「あのさ」と二人にある提案をしていた。「もし、二人とも神楽坂に賭けてもいいよって言ったら、どうする?」

「どういうこと?」と雅人は眉をひそめる。「やっぱりみんなで神楽坂を応援するってこと?」

 僕はそれにかぶりを振って答える。「二人が神楽坂に賭けていいからさ、もし炎也が勝ったらその時は二次会の飲み代も二人が出してくれよ」

「おおっ。それナイスアイディア」と元気は言う。「それくらいのメリットがないと炎也に賭けるリスクに見合わないからねっ」

「いいじゃん、いいじゃん。なんか面白そうだし」と雅人も快く僕の提案を受け入れてくれた。「ハイリスク・ハイリターンってか?」

「まあ、ちょっと炎也に賭けてみたくなったんだよ」と僕は言った。

 五年前に十八歳でプロデビューを果たし、あっという間にキックボクシング界で最強の称号を与えられた神楽坂空海の通算戦績は39戦39勝0敗。そのうちKOで勝利を収めた試合は31回、と圧倒的な強さを誇っていた彼は『百獣の王』という異名で称され、世間から絶大なる人気を獲得していた。

 対して、十四年前に弱冠二十歳でプロデビューを果たした炎也がこれまでに積み重ねてきた通算戦績は87戦46勝41敗とほとんど勝率五割。しかし、直近五年間だけでいえば35戦28敗と大きく負け越していた。五年間で挙げた白星はたったの七回だけ。どうしてそれだけ弱くなってしまった選手が今もなお現役で続けられているのかを不思議がっている格闘技ファンも少なくなかった。

 しかし、そんな彼も以前はその果敢に打ち合うファイトスタイルで団体王者のタイトルを手にしていたことから、ローマ神話で軍神の名を持つマーズ(MARS)になぞらえて『火星人』という愛称で親しまれていた。そんなタイトルホルダーだった火星人があっけなく地に堕とされてしまったのが今から五年前のこと。デビューしたばかりでまだ無名だった神楽坂空海は、試合開始わずか一分ほどで王者だった彼を完膚なきまでに負かしてしまったのだ。

 当時、まだ社会人になりたてだった僕もその試合を仕事終わりにテレビの前で観戦していたが、それはまさに天才が生まれた瞬間だった。

「──全く負ける気がしないね」

 プロジェクターに映し出されていた炎也はカメラ目線でそう言い切っていた。どうやら、ようやく飽き飽きしていた前座試合のリプレイも終わり、いよいよメインイベントの煽りVTRが始まったようだ。煙草やトイレで席を離れていた客もいつの間にか自分の席につき、店内にいる全員が固唾を飲んでその映像を見守っていた。

「そもそも俺は神楽坂なんか眼中にないんだよ。たとえお前が百獣の王だろうとちょっと歯の尖った猫だろうと、そこんとこ俺にとっちゃあどうでもいいことなんだよ。俺を打ち負かせるのは俺しかいねえ。それを忘れんな。いつだって最後にリング上で笑ってるのは俺なんだよ。だから──」

 まだ炎也のインタビューが流れている途中だったが、店内では舌打ちが飛び交い始めた。隣のテーブルからは「弱いくせに」とか「身の程知らず」とか「弱者は大口叩くな」とか、次々に悪口が聞こえてくる。

 いまや、炎也は格闘技ファンから嫌われている存在だった。

 振り返ってみると、五年前のあの試合が二人のファイターにとっての大きな分岐点だったのかもしれない。あれ以降、一躍時ときの人となってかつてないスピードで頂上へと駆け上がっていく神楽坂空海をよそに、炎也はわかりやすく深くて暗いスランプにはまってしまった。世界王者としての防衛戦に敗れ、格下の新人ファイターに敗れ、その後も負けがどんどん積み重なっていき、気付けば20戦連敗という不名誉な記録も打ち立てていた。それでも彼は試合前の記者会見や煽りVTRになると、毎回欠かさずお得意のビッグマウスを披露した。

 当時の炎也ファンたちは負け続けてもなお大口を叩いているその姿に幻滅し、場内に響いていたはずの声援はいつの間にかブーイングに変わり、やがて続々と彼のもとを離れていった。未だに彼のファンを続けているという人は僕の周りではまず聞いたことがない。むしろ、実力のない弱者のビッグマウスは惨めなだけだと一蹴する者もいたくらいだった。

「おっ、そろそろ入場してくんじゃん」と雅人が小声で言った。

 ちょうどその時になって五種のチーズ盛り合わせがテーブルに運ばれてくると、僕ら三人は一斉にその皿に手を伸ばし始めた。

「このチーズ美味いねっ」

 元気は顔をこちらに向けてそう言うと、すぐにまたプロジェクターに視線を移し、その後は黙々とチーズを咀嚼し始めた。

 やがて煽りVTRが終わると、炎也と神楽坂空海はそれぞれ順番に大音量に鳴り響く音楽に背中を押し出されるように会場の真ん中にある四角いリングへと入場し始めた。神楽坂空海が穿いている黒いファイトパンツには、前面と後面ともにスポンサーの名前が所狭しと載っていたのに対し、赤髪にまぶたの傷痕がトレードマークの炎也は、おそらく普段から通い詰めているであろう整骨院の名前がひとつだけ載っていただけで、ほとんど無地の赤いファイトパンツをそのまま穿いていた。

 どちらの方が応援されているかなんて誰でも一目でわかることだった。最後まで圧倒的な力の差を見せつけ、百獣の王らしくキックボクシングを卒業させたかったのかもしれない。区切りの良い40戦目で、しかも大晦日にラストマッチを持ってきたのもあらかじめ計算されていたことなのかもしれない。僕にはまるで炎也の姿がある種の接待のような、神楽坂空海を気持ち良くボクシング界に送り出すためだけに運営側が用意した演出の一部にしか見えなかった。

 会場内では早くも画面越しに聞こえてくるほどの神楽坂コールが始まっていた。たった五年の間でここまでファンから愛されている格闘家も滅多にいない。それはやがて遠く離れたここ新宿にも伝染し、店内のあちこちから神楽坂コールとともに手拍子が聞こえ始めた。解説を務めていた元キックボクサーも「今日はどれくらいで仕留めてくれますかねえ」と明らかに神楽坂空海に肩入れしたような発言をしていた。

 やがて試合開始のゴングが鳴り響く。

 すると次の瞬間、神楽坂はいきなり思い切りのいい右ストレートを炎也の顔面に食らわせた。会場内のボルテージは一気に上がり、実況を務めている男性アナウンサーもマイクを付けていることなど忘れて隣のゲストが両手で耳を塞ぐほどの大声を叫んでいた。そしてここ遠く離れた新宿の店内でも地響きがするくらいに大きな歓声と拍手が沸き起こり、誰もが百獣の王の勇姿をその目に焼き付けていた──

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