white room

moco

一話

「は、どういうこと?」


 目の前の圭人けいとが、テーブルの上に置いてある紙を見て眉をしかめた。


「何か書いてあるの?見せて」

「いや読まくていい」

「え?わ、破っていいの?」

「いい。ふざけたこと書いてあったから」

「ふざけたことって?」

「お前は気にしなくていいよ」


 破いた紙をポイッと投げると、圭人は側にあったベッドに寝転んだ。眉をしかめたまま目を閉じた圭人からゆっくり視線を壁に移すと、そのままぐるりと部屋の中を見渡す。


 壁一面真っ白な六畳ほどの部屋。ドアはあるけど、さっき開けようとしたら外側から鍵がかかっているようだった。あるのは白いテーブルとベッドだけ。





「──えっと、それで、ここはどこだろう」













 今日は夜まで降らない予報だったのに──。

 補習を終えて窓の外を見ると、大きな雨粒がグラウンドを濡らしていた。バス停まで走っても制服はきっとずぶ濡れになってしまう。今日に限って補習になるし、本当ついてない。肩を落としたまま、空を見上げて走り出そうとした時だった。


「傘入れてやろうか」


 聞きなれた声に足を止めた。


「圭人!」

「お前天気予報見てないの」

「み、見たよ。でも雨は夜からって」

「備えというものを知らないのか」


 バス停までの道。特に会話をすることもなく隣を歩く横顔に、静かに胸を高鳴らせていた。バスケ部に顔を出していたらこんな時間になったなんてさっき言っていたけど、本当は待っていてくれたんだよね……?

 そういうところがすごく好きなんだって素直に伝えられたらいいのに。不器用で優しい圭人を知る度にいつも小さく胸の奥は震えているのに、今の関係が壊れるのが怖くていつまで経ってもその気持ちを口にすることはできないままでいる。


 本当はもう何年も前からずっと圭人のことが好きなのに──。


「明日も雨かな」

「明日は傘持ってこいよ」

「うん、ごめんね迷惑かけて」

「別に。ついでだから」

「……ありがとう」

「眠い。ついたら起こして」

「うん、分かった」


 バスの席で窓にもたれて目を閉じた圭人とそう言葉を交わしたとこまでは覚えてる。それで、その後なんだか私も急に眠くなって──。


 目が覚めると圭人と二人でこの部屋に閉じ込められていた。




「ねぇ圭人、どうやってここから出るの……」

「分からない」

「こ、殺されたりしないよね?」

「俺に聞くなよ」

「だ、だって、じゃぁ誰に聞けばいいの?」


 動揺する私とは違って、圭人は落ち着いた様子でベッドで目を閉じたまま口だけを動かしている。


「携帯は圏外だし、今はどうすることもできないだろ」

「そうだけど!でも……っ」

「誰かいる気配はないし危険な感じは今のところないから。体力消費しないために俺は寝る」


 それ以上返す言葉が見つからず床に座り込むと、圭人は本当に眠ってしまったのか部屋は途端にシンと静まり返ってしまった。たしかに誰かが近くにいる気配はない。でもじゃあ何のためにここに?どうやってここに来たの?夢でも見ているかのような景色に、ほんの少し背筋がぞくりとする。気を紛らわそうにも何も思いつかないし、一体今が何時なのかすら分からない。

 心細くなって圭人に声をかけようとすると、ベッドの上に無造作に置かれたそれと目が合った。そうだ、携帯……!部屋に時計はないけれど、時刻を知れるアイテムがあることを思い出して慌ててカバンから携帯を取り出した。二十時過ぎ……。バスに乗った時刻から二時間ほど経っているのか。お腹すいたな──。

 変わり映えのしない景色を眺めていると、ふとさっき圭人が破り捨てた丸まった紙が視界に入り込んだ。そういえば、あれ何が書いてあったんだろう。もしかしたらここから出る手がかりがあるかもしれない。すぐに拾い集めて広げると、細かく破られた紙の切れ端をパズルのように合わせていく。えっと、なになに……。


『目の前にいる相手とミッションを成功させれば報酬を与える』

『①目を見て愛を囁けば水を与える』

『②キスをすれば食事を与える』

『③体の関係を持てばドアが開く』



「体の……関係……?」


 思わず紙に書いてあった文字を言葉にすると、目の前にあった紙の切れ端が宙を舞った。


「あ……」

「おい!読むなって言っただろ」


 さっきまで寝ていたはずの圭人は、テーブルに広げていたそれを全て床に落とすとまたベッドへと戻った。


「気にするな。趣味の悪いだれかの悪戯だろ」

「で……でも、もしこれが本当だったらどうするの」


 圭人から返事が返ってこなくなって、心臓から嫌な音が聞こえてくる。体の関係って……体の関係ってそういうことだよね。ドアを開けるためには、圭人とそういうことをするって……こと?


「だから気にするなって」


 体を起こして髪の毛を乱暴に掻くと、圭人は大袈裟にため息をついた。


「じゃあどうやったら出られるの?」

「それは俺にも分かんないってば」

「ここに書いてあることが本当だったら、ドアはずっと開かないってことだよね……?」


 二人で静かなドアに視線を移すと、部屋の中はまた何とも言えない空気に包まれた。


「……いや、こんな馬鹿なことあるわけない」

「でも……」

「じゃぁ試してみるか?」

「え……」


 圭人は床に散らばった紙に視線を落として、私の目の前に座った。その途端、一度落ち着きを戻しかけた心臓がまたものすごい速さで動き始める。


「試す?あ……いや、待って圭人。あの……」

「何焦ってんだよ」

「だ、だって、試すって一体なにす……」

「一番目のやつ。それっぽいこと試しに言ってみればいいんだろ」

「え……」

「愛を囁くだっけ。これなら試しにできるだろ」


 ゴクンと小さく息を呑むと、目の前の圭人がふっと吹き出した。


「何その顔。何だと思ったのお前」

「あ……いや、違っ!だ、だって試すっていうからつい……」

「エロいこと考えたのか」

「か、考えてないよ!」


 圭人はしばらく肩を揺らした後、気を取り直すかのように一度咳払いをして私に視線を戻した。


「まあ、何もしないよりはマシだな。やってみるか」

「う……うん」

「…………」

「…………」

「…………」

「………圭人?」


 目の前の圭人は黒目をキョロキョロと左右に動かして、息苦しそうに何度も酸素を吸い込んでいる。


「悪い……。俺なんて言えばいいの」

「えっと……愛を囁くんじゃ」

「愛を囁くって例えば?」

「す、好きだよ、とか。愛してるよ、とかかな」

「それを俺が言うのか」

「わ……私が言おうか」

「いや、俺が言ってみる」

「う、うん」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「け、圭人。すごい汗だよ」

「うるさい黙って」

「無理なら私が……」

「いい。ちょっと待てって」


 困ったように何度も視線を彷徨わせる圭人の姿に、胸の奥がもどかしくなる。もしかして今、チャンスなのかもしれない。

 今なら──言えるかもしれない。



「……っ、好き」

「え?」

「圭人、好き……愛してるよ」


 目を丸くした圭人から視線を外さずにそう告げると、ガタンッと後ろで大きな音がする。


「な、何の音……」

「水だ」


 ドアの前にはどこから湧いたのか、一本のペットボトルが転がっている。


「やっぱりここに書いてあることは本当なの……」


 水を手にした圭人はキャップを開けるとゆっくりと口をつけた。


「毒とかは入ってなさそう。とりあえず飲め」

「うん……ありがとう」


 緊張と不安で気付かない間に喉が渇いていたのか、二人で分け合うとあっという間に小さなペットボトルは空になってしまった。そしてまた、部屋は静寂に包まれた。


「……なんか、暑い」

「確かに。今日は雨も降ってるしいつもより蒸し暑いな」


 さっきまであまり感じていなかったけれど、水分をとったせいかじとりと汗が滲む。あれから何時間経ったんだろう──。



「また……水が飲みたい」

「あぁ、もう一度やってみよう。水分はとった方がいい」


 もう一度圭人と向き合って、さっきと同じ台詞を口にしようとすると大きな手に遮られた。


「……?」

「今度は俺が言う」

「圭人そういうの苦手でしょ。分かってるから大丈夫だよ」

「いや、でもあぁいうのは本当に好きな男に言ってやるやつだから」




 本当に好きな男──?




 私の好きな人は昔からずっと圭人だけだよ。圭人にとって私は小学校の時からの腐れ縁程度の存在かもしれないけど……圭人と同じ高校に行きたくて必死に勉強したり、圭人の部活の帰りに合うように帰る準備をしたり、私はいつも圭人の背中を追いかけていたんだから。


「それなら圭人だって、大切な女の子に言ってあげるべきだよ」

「俺はいいんだよ別に」

「なんで圭人はよくて私はだめなの」

「なんか、ほら。女のそういうのって、大事だろ。安易に他の男に言うもんじゃない」


 圭人らしくないその言葉に思わず頬が緩むと、それに気付いた圭人が白い肌を赤く染めて恨めしそうに私を睨んだ。

 そういうところだよ。他人のことになんていつも興味ない素振りなのに、いつだって私のことを優先的に考えてくれる。こんな状況なのに、なんでそんなことを気にするの。だから私はいつまで経っても圭人のことを諦められないんだよ──。



「圭人……好きだよ」


 ガコン。


 ドアの前に水が転がると、圭人は慌てて私に視線を戻した。


「おい」

「ごめんつい……」

「お前俺の話聞いてたのか」

「うん、でもいいの。私が圭人に言いたかったから」

「……え?」

「それより圭人、水飲もう。足りないならもう一度……」


 転がったボトルに手を伸ばすと、その上に圭人の指が重なる。顔を覗き込まれて視線が絡まると、圭人の唇が小さく動いた。


「好きだ」

「え……?」


 ガコン。


 目の前にもう一本転がった水を圭人がキャッチすると、あっという間にその水が喉の奥に流し込まれていく。


「お前も早く飲め」

「え……あ、うん」



 今、圭人、好きだって──。

 

 水を飲むためだって分かってる。私にもう一度言わせないためだって分かってる。でも──。

 目の前で聞いた低くて甘い圭人の声に胸の奥が締め付けられる。ドクドクと鼓動する心臓を隠すように、何度もボトルに口をつけながら残りわずかな水を飲み干した。
















「……咲希さき大丈夫か」

「うん。少し眠った方がいいのかな」

「代わる。横になれ」


 いつ出られるんだろう。数時間前まではいつか──みたいな理由のない何かがあった。でも数時間、また数時間経つほどにじわじわと追い詰められていくような恐怖が押し寄せる。本当に出られないかもしれない。水だけじゃ満たせないものが、少しずつ体力を奪っていく。

 ついさっきまで圭人がいたベッドに横たわると、圭人の匂いと温もりが残っていて、今の自分にほんの少しの安らぎを与えてくれた。


「眠れそうか」

「うん……目閉じてみる」


 水を飲むことはできる。でも、その先に進まないとご飯を食べることも、ここから出ることもできないかもしれない。どうしよう、どうしたらいいの。

 このままじゃ私たちは──。


「圭人……」

「どうした、眠れない?」

「……眠れない」

「水、残ってたかな」


 ほんの少しだけ底に残っていた水で唇を濡らすと、余計に胃の中が刺激されるような気がした。


「ねぇ圭人」

「なに」

「キス……する?」


 圭人は何も言わずに私の飲み干したボトルをテーブルに置くと、小さなため息をついた。


「……いや、それはやめよう」

「私とはだめ……?」


 ただご飯を我慢するだけならまだ耐えられる。でもこの異様な空間と、不安と恐怖と焦りが正常な感覚を狂わせていって何かをしていないとおかしくなりそう。ご飯を食べながら、他愛のない会話をして安心したい。


「だめとかじゃなくて」

「私が圭人の好きな人じゃないから?私とはできない?」

「そういうことじゃないって。たとえご飯が食べられてもここからは出られない。そうなったら俺たち結局──」


 圭人の額には汗が浮かんで、呼吸も荒く乱れている。そうだ、自分のことで精一杯だったけど圭人だって同じ状態なんだ。見えない恐怖と焦る気持ち。一秒でも早くここを出たいけれど、お互いを思いやる気持ちで必死に本能を抑え込んでいる。


「ごめん……圭人。勝手なことばかり言って」

「いや分かってる。何か満たさないと狂いそうだよな……俺も、ご飯を食べさせてやりたい」


 はっ、と短い息を吐くと、圭人は私の髪の毛に指を伸ばした。


「悪い。俺がしっかりしないといけないのに」

「何言って……圭人がずっと冷静でいてくれるから私は落ち着いていられるんだよ」

「俺、冷静なんかじゃないよ」


 不意に圭人の顔が近づいてきて、息を止めた。


「だめだって分かってるのに、キスしたい」




 キスしたい──。


 これが、何かを食べたいという意味なのか


 それとも別の意味なのか


 どっちなんだろうと、甘く痺れた頭が答えを導き出すよりも先に圭人の唇が私の唇を優しく塞いだ。



 ガコン。


 ドアの方から音がする。


 でも──。


「ん……っ、圭……」


 触れ合った唇は、もっと深く重なった。

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