フリードリヒ二世の手紙

平井敦史

第1話 皇帝からの手紙

「エルサレム王万歳!」

「万歳!」

「万歳!」


 1229年3月18日、エルサレム聖墳墓せいふんぼ教会きょうかい

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世、すでにシチリア王とローマ王の称号を持つ縮れた赤毛の男は、今あらたにエルサレム王の冠を頭上にいただいた。――彼自らの手で。


 本来であれば、キリスト教の司祭らによって祝福されるべき戴冠式たいかんしき。王に冠をかぶせるのも彼らの役目のはずなのだが、この場に彼らの姿はない。

 キリスト教カトリックの最高権威たるローマ教皇きょうこうと激しく対立しているフリードリヒは、教皇から破門を言い渡されており、司祭たちはそんな彼に反発、あるいは教皇の顔色をうかがって、この晴れの舞台にも姿を現さなかったのだ。


 だが、そのような政治的思惑とは無縁な人々は、フリードリヒが築き上げた平和を素直に寿ことほいでいた。すなわち、代々エルサレムに暮らすキリスト教徒たち、あるいは、キリストの墓にもうでんとてはるばる遠くの地からエルサレムを訪れた巡礼者たちである。


「ありがたやありがたや……」


 ぼろぼろの衣服をまとった、巡礼者であろうか。初老にさしかかった男が、フリードリヒに十字を切り、祈りを捧げる。

 あるいは、エルサレムで生まれ育った子供たちが、物見高ものみだかくも異国の皇帝を興味深げに眺め、何やら笑い合っている。


 フリードリヒはこの時三十四歳。馬術や槍術など、武芸のたしなみは人並み以上ではあるものの、偉丈夫いじょうふと呼べるほどの体躯たいくではなく、縮れた赤毛に後退した前髪、近視の目元はしょぼくれて、神聖ローマ皇帝という大層な肩書とは程遠い印象だ。

 あるイスラム教徒ムスリムの史家などは――彼は異国の皇帝に好意的ではなかったようだが――、この時フリードリヒの姿を見た者の証言として、「もし奴隷として売られていたなら、ディルハム銀貨二百枚分の価値もないだろう」と、散々なことを書き残している。


 参考までに、これよりしばらく後、中央アジアキプチャクの草原でモンゴルの捕虜となった一人の少年が、八百ディルハムであがなわれている。ただし、片目に白内障の斑点があることを理由に、すぐ返品されてしまうのだが。


 そんなえない風貌の皇帝であったが、無邪気な子供たちにとってみれば、逆に親しみやすそうに思えたのだろう。恐れげもなくフリードリヒに近寄って来てまとわりつき、汚い手でその服の裾をつかんだりして、きゃっきゃとはしゃいでいる。

 当時のキリスト教世界における世俗の最高権力者は、怒りもせずに子供たちをにこやかに見下ろしていた。



 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、三つの宗教にとってそれぞれ聖地としての意味を持つ古きみやこエルサレム。イスラム勢力の勃興以降、その勢力下に置かれながらも、異なる信仰を持つ人々がそれなりに共存していたのだが、1095年のローマ教皇ウルバヌス二世の呼びかけをきっかけに巻き起こった十字軍運動によって、騒乱の真っただ中に投げ込まれた。


 1099年、第一回十字軍がエルサレムを征服。多くのイスラム教徒、ユダヤ教徒、さらには東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒までも虐殺されて、「膝まで血に浸る」と言われるほどの惨劇が引き起こされる。


 その後、イスラムの英雄サラディンことサラーフアッディーンの活躍により、1187年、エルサレムは再びイスラム教徒の手に渡る。

 そして今、フリードリヒと協定を結び、エルサレムを平和裡へいわりにキリスト教徒の手に引き渡したのが、サラディンの弟の子、アイユーブ朝第五代君主スルタン・アル=カーミルという人物であった。


 当時としてはあり得ぬほどに開明的な考え方を持った、この二人の人物によって成し遂げられた「無血十字軍」。キリスト教徒とイスラム教徒、双方一滴の血も流すことなく結ばれた和平条約。

 宗教戦争の血風けっぷう吹きすさぶ中世の闇に、忽然こつぜんと咲いた奇跡の花は、しかし、この十数年後には無残に手折たおられることとなる。


 だが、まずはこの日に至るまでの道のりから、書き記すこととしよう。



   †††††



「陛下、キリスト教徒フランクの王より書状が届いております」


 寵臣ちょうしんの一人、ファクルッディーン=イブン=アル=シャイフの言葉を聞いて、スルタン・カーミルは顔をしかめた。

 先年、十字軍と称するキリスト教徒の軍勢の侵攻を受け、苦労の末に撃退したことはまだ記憶に新しい。


 ここはエジプト、カイロアル=カーヒラの王宮。そのあるじたるカーミルは、ファクルッディーンが持参した手紙を秘書に受け取らせると、内容を読み上げるよう命じた。


「またぞろ宣戦布告ではあるまいな?」


「そうでないことを祈るばかりです」


 主従が半分軽口、半分本気のやり取りをしていると、秘書は困惑の面持ちを主に向けていた。


「どうした、そなたでも読めぬ言葉で書かれておったのか?」


 スルタンの秘書は、東ローマビザンツ帝国のギリシャ語のみならず、西方キリスト教徒のラテン語にも通じている。その彼でも読めぬとなると、フランクどもが普段話している言葉ででも書いてきおったのか。

 ますます渋面じゅうめんを深める主に、秘書は手紙を差し出しながら言った。


「それが……、聖典の言葉アラビア語で書かれておりますので……」


 読めぬのではなく、異教徒の王が自分たちの言葉でふみしたためてきたことへの困惑だ。

 カーミルが驚いて手紙を受け取ってみると、確かに、流麗な筆遣ふでづかいのアラビア語で書かれている。

 その内容は? 読み進めるカーミル。

 そこに書かれていたのは、宣戦布告でもなく、異教徒に対する弾劾や挑発でもなく、自然科学に関する深い造詣と、これからもふみのやり取りをして知識を交換したいという誘い掛けであった。


 精霊ジンたぶらかされたような表情で、スルタンは寵臣を見やる。


「これは本当にフランクの王の手紙なのか?」


「はい、神聖ローマ皇帝アル=エンボロルからの手紙に相違ございません」


 主から手紙を見せられ、ファクルッディーンも困惑顔だ。


「まあ、相手が仲良くしたいというのなら、その手を振り払うのも大人気おとなげなかろうて」


 相手の思惑に対する警戒心は完全にはぬぐえぬものの、いささか興味を抱いて、カーミルは呟いた。


「それにしても、まさかふみを書かせるためにイスラム教徒ムスリムを召し抱えたりはするまいし、我らとあきないをしている商人にでも書かせたのか? いずれにせよ中々に酔狂な男だな」


 まさか、その手紙をアラビア語で書いたのが神聖ローマ皇帝自身だなどとは、さしも聡明なスルタンにとっても、想像のはるか埒外らちがいであった。


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