ソーダ味のあの子

ひゐ(宵々屋)

前編

「忘れちゃった? もう子供じゃないね」


 夏の濁ったような暑さを流しながら、夕立の激しい雨音が、窓と屋根を叩いていた。心地のいい音で勉強が捗る。大学受験まで、もう一年を切っている。


「ほら、忘れてる、私の言った通り」


 雨音に混じって、幼い女の子の声が聞こえた。

 はっとして僕が顔を上げれば、窓を叩く雨は、爽やかな水色に染まっていた。


 まるで、ソーダ味の雨。

 ――かつて出会った、あの子の色。


『忘れないよ』

『いいや、忘れるよ、賭けてあげる。君は私のこと忘れるって』


 僕は、あの子との賭けに負けた。

 水色のあの子の言う通りだった。


『君はそのうち、子供じゃなくなるんだもの』


 雨音に消えそうだったあの子の声を、思い出す。



 * * *



 幼い頃の、ある雨の日だった。

 僕はどうしてもお菓子が買いたくて、家を出た。慣れない長靴に、幼い僕にはまだ大きいビニール傘。進みにくいものの、僕の目指す駄菓子屋は近所にあった。近所にあるはずだった。


 近道になる路地を進んでいたことだけは、憶えている。

 抜けて、どうしてか、見知らぬ場所にいた。

 古びた家々が並ぶ、全く見たことのない場所だった。僕は迷子になってしまったのだ。


 来た道を戻ればいいと、僕はとっさに思った。けれど、振り返ればそこには苔むしたブロック塀しかなく、僕は焦って走り出してしまった。知っている場所に、出なくてはいけなかった。

 でも、いくら進んでも、知っている場所には出られなかった。それどころか僕は、同じ場所をぐるぐる回っていることに気が付いた。


 幼い僕は、自分の住んでいる場所を言うことができた。だから大人に助けを求めることにした。


「あの……」


 ところが、雨が降る中、傘もささずに道行く人々は異様に背が高く、僕の声に気付いてくれなかった。うねうねと、過ぎ去っていく。

 いま考えれば、あれは間違いなく人間以外の何かだった。けれど、幼い僕は気付けなかった――それはむしろ、幸いだったかもしれない。


 幼い僕は、ついに泣きたくなったものの、ぐっと堪えた。こんなことで泣いちゃだめだと思ったのを、憶えている。迷子になったぐらいで泣くなんて、みっともないじゃないか、と。


 喉の渇きに気付いた僕は、コンビニに入った。駄菓子屋に行く予定だったのだ、お金は持っている。何か飲み物を買おうと考えた。


 奇妙なコンビニだった。並んでいるお菓子は、どれも僕が見たことないもので、文字は……平仮名やカタカナのはずだが、何か変だった。読めないものもあるし、読めたとしても「あーもどちょこ」とか「びすけと」とか、ほかにも「ぽぽてちっぷすちしおあじ」とか「どらいみみ」とかあった気がする。駄菓子屋にあるような、瓶や透明なプラスチックに入った食べ物もあって「めきゃんで」「ちょう」とか書いてあった気がする。


 でも僕が欲しいのは、食べ物ではなく、飲み物だった。

 ドリンクのケースの中には、色とりどりのペットボトルが並んでいた。それで僕は、少し楽しくなった。「じゃりじゃり」「とかげじる」「うみあじ」……。


「飲まない方がいいよ」


 悩んでいると声が聞こえた。


「帰れなくなるよ」


 ドリンクケースの隣、アイスケースから。

 ――僕と同じくらいの歳の女の子が、アイスに混じって冷えていた。


 白いワンピースを着たその子の髪は、水色だった。目も水色、睫毛も水色。

 僕は知っていた――「そういうこと」をした大人の人達がニュースになっていることを。


「それ、すごくいけないことなんだよ! お店の人に怒られるよ!」


 ニュースで、大人の人がすごく怒っていたのを思い出す。


なんだよ、人が入っちゃいけないんだ! お店の人に、言うからね!」

「私、売り物だから」



 と、水色の子は自分のおでこを指さした。シールが貼ってある。


『そだあじ 十んえ』


「……でも、そこ、はいっちゃいけないんだよ!」

「って言われても、売り物だから出られないんだって……」


 そこで僕はピンと来た。


「買えば出てくれる?」


 とにかく僕は、その子が「悪いこと」をしているので、それを止めたかった。

 十円くらいなら僕でも持っている。

 ところが、アイスケースの開け方がわからなかった。どうやってこの子をレジまで持って行けばいいのだろう。


「……本当に買ってくれる?」


 悩んでいると、アイスケースの女の子が首を傾げた。


「買ったらおまえ、そこから出る?」

「……すみませーん、店主さーん!」


 不意に女の子が声を上げた。

 レジを見れば、カウンターの向こうに黒くてにょきにょきした影がいて――次の瞬間には、僕の隣に立っていた。僕の隣に立って、動かない。


「お金お金」


 女の子に言われて、僕は慌てて財布から十円玉を出す。黒い影から赤ちゃんのような手が出て、その十円玉をとっていった……僕はこの時、変な「人」だなぁと思っていた。


 代金を受け取って、黒い影がぐぐぐとアイスケースのガラスを押せば、ようやく開いた。心地のいい冷気が足下を這って、あの水色の女の子が飛び出してきた。


「いやぁ窮屈だったな!」


 ぺたりと着地したその足は裸足だった。



 * * *



 どうしてコンビニに入ったのか、僕は目的を忘れてしまっていた。水色の女の子を連れて外に出る。


「もうあんなことしちゃ、だめだからね!」


 外はまだ雨が降っていて、歩き出せばあの女の子がついてきた。


「どうしてついてくるの?」

「いま君の所有物だから」

「しょゆうぶつ?」

「君、私のこと買ったでしょ? だからいま私は君のものってこと……食べる?」

「おまえ、アイスじゃないじゃん……」

「ソーダ味だよ」


 確かに彼女の水色は、ソーダ味のアイスの色だった。そして彼女が近くにいると、ひんやりする。

 でも、僕はいま迷子で、どうにかうちに帰らなくてはいけなかった。遊んでいる場合じゃなかった。


「知らないよ……僕、うちに帰らなきゃ。ばいばい」

「ばいばいって?」

「おまえもおうち帰りなよ」

「……おうち帰っていいってことは、自由にしていいってこと?」

「おまえ、わけわかんない」


 本当に変な子だったが、僕は自然と、彼女を傘の中に入れていた。そのままにしておくと、濡れてしまってかわいそうだった。

 彼女は水色の目できっと僕を見た。


「ちゃんと言って。『お前は自由だ』」

「……? 『お前は自由だ』」


 わけもわからず言葉を繰り返したとたん、女の子は傘の外に飛び出した。


「やったー! 自由だ! あーもーパパママごめん心配させちゃって……うっかり捕まってアイスにされちゃったよぉ……」


 全身で雨を受ける女の子は、くるくると回って踊っていた。しかしはっと、思い出したように僕に振り返ったのだった。


「あ、君、そういえば『人間』でしょ?」

「なに言ってんの?」

「迷い込んだんでしょ、自由にしてくれたお礼に、出口まで案内したげる」

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