第3話

 ***



「花妻先生、俺は別れたくない!」

 放課後、足早に家庭科準備室に向かい、ドアを開けると開口一番に言い放った。

「あのなぁ、そういう話したいなら鍵閉めてからにしろ」

「はぁい」

 言われた通り後ろ手で入り口の鍵を閉め中に入った。

 現在、花妻から許してもらえていることといえば、この部屋で一緒にいることくらいだった。

 鍵なんかかけなくても、放課後に家庭科準備室へやってくる先生も生徒もいないし、どちらかといえば、誰か来た時に鍵が閉まっている方が怪しまれる。

「先生、今日六時まで一緒にいていい?」

 机の横に立つと、花妻は長い前髪を鬱陶しそうにかきあげ、大きなため息を吐く、なにか面倒な仕事をしているらしく、その視線はノートパソコンの画面を睨んだままだった。

「そこで、大人しく勉強するならな。――で、さっきの別れるって何」

 千秋は、準備室内にある広いテーブルにカバンを置いて、言われた通り今日出された宿題を机の上に出す。

「俺さ、味噌汁はちゃんと花妻先生の好みの味になるように頑張るから、別れたくない」

 そう続けると、今度はパソコンから顔を上げ、千秋と目を合わせた。

「はぁ? 料理の味くらいで別れるかよ。お前、マジで俺の授業ちゃんと聞いてるのか? 食事で大切なことなんも学べてないし」

「だって、塩辛い味噌汁だと付き合えないって言ったじゃん」

「曲解するなぁ。食事では、精神的な満足も必要ですって俺、板書したと思うけど」

「え、じゃあ、好きな人が作ったものは、なんでも美味しい?」

「いや、それも論理の飛躍だな。まずいもんは、誰が作ってもまずいだろ」

 花妻は目を細めて笑った。いつも険しい顔ばかりしている花妻は、時折こんなふうにふわりと氷が溶けたような顔をする。その笑顔は、千秋だけが知っている特別な気がした。

「で、だ。俺も千秋に訊きたいことあるんだけど、田島と何話してたの? よく聞こえなかったけど、体の関係がどうたらって、お前俺の授業中にワイ談するとは良い度胸だな」

「先生、地獄耳過ぎない?」

「先生の特技だよ。で、何? 言えよ」

「だから、その、俺は田島とキスフレについて話してただけで」

「何だそれ、若者語?」

「いや、先生も若者じゃん。俺さ、先生とキスフレンドになりたいなって……ほら、キスフレなら先生とやっても友達だからセーフみたいな?」

 やましいことがあるから、無意識に早口で喋っていた。椅子に座って腕を組んだまま聞いている花妻の目はすわっている。

「なに別れたいって話か? 土下座までして付き合ってくれって言ったくせに、先生あっさりと捨てられちゃったなぁ?」

「ち、違うって! 俺は、ほら、ちゃんと付き合ってる証明が欲しいっていうか、だって今のままだと自信なくなるし、俺はただの生徒だし、こうやって、放課後一緒にいられるのは嬉しいし、特別なんだって分かるけど」

「一緒にいるだけじゃ足りないって?」

「……うん。だって、それに、ほら! キスってこう、癒し効果あるっていうし、俺も勉強で疲れたら先生とチューしたいなーって思うし、先生は俺にそんなこと感じない? 子供とは無理? 高校生だから?」

 まとまらない言葉を一気に吐き出して訴えていた。花妻の顔はさらに険しくなる。

「回りくどい、一言で言え」

「……先生とキスがしたい」

「最初から、普通にそう言えよ。で、千秋は俺のキスで癒されたくて? じゃあ俺にはどんなメリットあると思う?」

 メリットと言われるとわからなくなる。ドキドキしたり幸せを感じたりするのは、千秋だけで、もしかしたら花妻にはメリットなんてないのかもしれない。

「元気に、なる……?」

 花妻の顔を見ながら恐る恐る訊ねた。

「確かに元気になるかもな。つまり、まとめるとお前は、欲求不満ってことか? なら余計に俺とキスなんてしない方が良いと思うけど」

 じっと、切れ長の目で見つめられて、心臓が深く波打った。しない方がいいと花妻に言われて、自分だけキスしたいみたいで、少し傷ついていた。

「だって――したい。先生と一回しかキスしてないし、毎日、先生に触れたいし、キスしたいよ」

 千秋は、まっすぐに花妻の目を見て、切な思いを伝えていた。そんな必死な姿を見て、花妻は、少し困っているように見えた。

「……ま、お前もバカじゃないから、一回すれば分かるか。いいよ、キスフレがどういうことか教えてやるよ」

「え、いいの」

「あぁ、キスだけなら、な?」

 あんなに、お互いのためにこの関係は秘密にしよう、先生と生徒でいようと言っていたのに、切羽詰まってお願いしたらあっさりと許されて拍子抜けした。

 田島が言うように、花妻は千秋からキスしたいと言うのを待ってたのだろうか。

 花妻は席を立ち、おもむろにカーテンを引いた。西日が差し込んでいた明るい部屋が途端に薄暗くなる。

 初めて花妻とキスした時、この部屋のカーテンは開けっ放しで明るかった。床に膝をつく千秋と同じ目線で、軽く唇同士がくっついただけのキス。一瞬の出来事だったが、頭に焼き付いて今も離れない。

 けれど、今日はなぜか、外から見えないようにカーテンを引いた。それが「今から、悪いことをします」という合図みたいで、千秋の心臓は痛いくらいに鳴っていた。

 千秋は、今まで、悪いことなんて一度もしたことがない。花妻を好きになったことだって、恋人同士になったことだって、悪いことじゃないと思っている。なのに、今はその後ろめたい行為に惹かれていた。

「お前、興奮しすぎ。まだカーテン閉めただけじゃん」

 千秋の脈を確かめるみたいに花妻の手のひらがすべり首筋に触れた。その恋人みたいな触れ方だけでバカみたいに喜んでいる。花妻の長いまつ毛が伏せられて、千秋が目を閉じる間も無く、唇と唇が重なっていた。

 視線が交差し、戸惑う千秋をおいてけぼりにして、行為は先に進んだ。

 花妻は千秋の唇をゆっくりと確かめるように舌でこじ開け、口内に侵入してきた粘膜が小さく音を立てて絡み合った。

 初めて花妻の内側を知った。

 まるで、花妻がいつも授業中に千秋へ教えてくれるように、淡々と自分の中に溶けていく。

 甘くて、苦い。

(それから? もっと知りたい)

 唇に軽く触れるだけじゃ知ることもなかった、千秋の中にある欲が次から次へと溢れてきて、その隠したい羞恥を花妻の視線は、無防備にさらけだそうとする。

 首筋に触れた花妻の手の温度だけでもいっぱいいっぱいだったのに、内側の温度を知ったら、頭の回線がパンクした。

 我慢なんてできなかった。

 もっと先が欲しくて、もっと深く触れて欲しくて、その気持ちは「キスだけの関係」で満たされる気がしなかった。

 キスフレンドなんて、千秋にとって毒でしかなく、二度も三度も続けてしまえば、もう「先生と生徒」でいられなくなることは明白だった。

 自分から欲しがったのに、苦しくてたまらなくて、花妻から身体を離し、ずるずるとその場に座り込んでいた。頭の先から足の先まで全部が熱かった。

「好きな人とキスするって、こういうことだよ。千秋は俺とキスフレになって毎日こんなことできるの? 俺は無理だなぁ、身が持たない」

 少なくても、千秋は生徒のままでいられる気がしない。理性が悲鳴をあげる。

「ねぇ、千秋。先生は先生のまま、千秋を生徒として、この学校を卒業させたいんだよね」

 千秋は、下を向いたままで頷いた。その気持ちは同じだった。恋愛の対象として花妻のことが好きだが、先生の花妻だって同じように好きだ。尊敬すべき人だと思っている。

「だから、俺はキスだけの関係なんて、無理。絶対足りなくなる」

 花妻とのキスは、想像してたような、ドキドキするとか幸せになるだけじゃなかった。頭の中が一瞬でぐずぐずになってしまった。

「千秋、若いし? 色々したいのはわかるけど、でも、ちゃんと線引かないとお互いツライだろ? 分かった?」

 先生の声で嗜めるように言われて悔しかった。経験値が違う。子供で余裕がない。全てがもどかしい。

「バカにするなよ」

「してないよ。俺だって、一緒」

「嘘だ、全然一緒じゃない」

 先生と生徒で、大人と子供。何一つ一緒のところなんてないと思った。

「嘘じゃないよ。先生なのに、お前があんな可愛い顔してねだるからさ、全然我慢できなかったじゃん。今、すげぇ反省してるし」

 そう情けない声で言われて、驚いて顔を上げれば、花妻は先生らしくないバツの悪い顔をしていた。全然一緒のところなんてないと思ったのに、その顔を見ると、急に自分とそう変わらない男の気がして不思議と安心していた。

「もしかして、先生って、すげー俺のこと好きなの?」

「――知らなかったんですか?」

 人を小馬鹿にするように笑う顔は、教室でいつも見る先生の顔だった。

「花妻先生、俺、先生のこと好き、好きだよ。大好きだから」

「はいはい、君の気持ちは、最初からちゃんと伝わってますよ。俺好みの味噌汁作ってくれるんだろ?」

「塩辛いのでいい?」

「嫌です」

 花妻は、努めて飄々と話し、いつもの雰囲気に戻そうとしてくれているが、それでも、千秋はすぐに切り替えられる気がしなかった。花妻のキスを知ってしまったから、近くに欲しいものがあるから。今は花妻のことしか考えられないし、花妻の全部が欲しい。我慢するけど。

「ねぇ先生。今日は、俺、帰るよ」

「先生も、お前のこと襲いそうだから、今日はさっさと帰ってくれると嬉しいな」

 本気だよって、それが伝わってきた。千秋も同じ気持ちを伝えたかった。

「先生、襲ってもいいよ。卒業したら」

「――卒業したらな」

 そう返した花妻のことを見ないで、慌ててテーブルの上の勉強道具をカバンの中に押し込んで走って外に出る。

 部屋を出る時に、花妻がタバコを口にくわえたのが目の端に映り、そのタバコのことが、なんだかひどく羨ましかった。

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