第6話 腹ドン

 ……アレ?

 アレってアレのこと?

 思い浮かぶアレってアレしかないけど、アレをやりたいって言ってるの?


「久々に会って……我慢しなきゃって思ってたんだけど……。なんかちょっと無理みたい。ダ、ダメかな?」


 顔を上げ、潤んだ瞳で言ってくるワルミちゃん。


 ダメではない。

 断じてダメではない。

 ただアレは無邪気な子どもの頃だからできた、黒歴史のようなものだと思っていた。

 お互い成長した今はじゃれあいでは済まなくなるかもしれない。

 そう考えればやめた方がいいと思うのだが……。


「……分かった。しようか」


 結局俺は欲望に負けた。

 部屋の中央に立ち、ワルミちゃんを見る。


「……上、脱いで欲しい」


 マジですか!? 

 と、内心思ったが素直に従う。

 彼女の前で上半身裸になった。


 ワルミちゃんは部屋のカーテンをゆっくりと閉めると、目を伏せたまま俺の前に戻ってきた。


 薄暗い部屋の中、彼女は俺の身体を眩しそうに眺めている。

 少し呼吸も荒くなっているようだ。

 彼女の緊張と興奮がこちらにまで伝わってくるようで、悪い気はしない。


 ワルミちゃんは自身の右こぶしを握りしめている。

 そして。


 彼女は俺のお腹に、右拳をポンと当ててきた。


「ドンッ!」


 俺はほどよいボリュームで声を発した。

 我ながら軽やかで心地よい『ドン』が出せたと思う。


 ワルミちゃんは俺の反応を見て口元を綻ばせた。

 そして目にはギラギラとした輝きがある。

 興奮を隠せていない様子に俺の胸も高鳴った。

 やはりワルミちゃんは変わっていない。


 彼女は唾を飲み込みながら、今度は2回、俺のお腹に拳を当ててきた。


「ドンッ、ドンッ!」


 当然俺が発するドンは2回になる。


 ……もし俺たちの行為を見ている人がいたら、『なるほど、この2人は頭がおかしいのだ』と誤解されそうなのでそろそろ説明しておきたい。


 これは子どもの頃、彼女とよくやった遊びなのだ。

 おそらくまともな人間がこの遊びを見ても、その面白さは理解できないだろう。


 正直に言うとやってる俺にだってよく分からない。

 子どもの頃だったので、2人の間ではこれでも成立したのだとしか言いようがない。

 ワルミちゃんが俺のお腹に拳を軽く当て、俺はドンと言う、ただそれだけのシンプルな遊び。

 それが「腹ドン」。


 彼女と楽しむ上での注意点は1つだけだ。


 自分の意思を出してはいけない。

 俺はお腹に触れるとドンという音の出る、単なる楽器として振舞う。

 それが大事なことなのだ。


 この遊びを始めた当初は俺も楽器としての限界に挑戦しようとしていた。

 お腹に拳を当てられたときも「ジャーン!」とシンバルのような音を出してみたり、「しゅぽー!」と汽笛のような音を発してみたりした。


 けれど反応は最悪だった。

 ワルミちゃんは気が削がれたように無表情となり、その日は俺と会話をしてくれないのだ。


 当時はよく分からなかったが今なら彼女の気持ちも少し分かる。

 ワルミちゃんは俺を支配したかったのだろう。


 彼女が決めたルールに、俺はただ従う。

 そんな俺を見てワルミちゃんの独占欲だの所有欲だのが満たされたのだと思う。

 そうやって俺の身も心も支配下に置きたかったわけだ。


 俺は彼女が求めるままに、自分の意思を持たない楽器として振舞った。


 ……当然それには下心もある。


 俺が従順であればあるほど、ワルミちゃんは興奮するようなのだ。

 俺が「ドン」を重ねるごとに、こちらをうっとりと見つめ、呼吸は荒くなり、手で俺の肩の辺りを撫でてくる。

 そこからさらに興奮が高まると、ワルミちゃんは俺にご褒美をくれる。


 ――キスというご褒美を。


 とはいえ子どもの頃だから大したキスではない。

 口にするわけでもなければ、頬にするわけでもない。


 首筋だ。

 ワルミちゃんは興奮が抑えられなくなると俺に抱きつき、首筋にキスをしてくるのだ。


 もしかすると彼女としては、うまく誤魔化せているつもりなのかもしれない。

 たしかに傍からみれば軽く甘えているようにしか見えないだろう。

 たまたま口が首筋に当たっている、その程度としか思わないはずだ。


 けれど俺からしてみればそれは明らかに感情のこもったキスだった。

 口でも頬でもなく首筋だからこそ、彼女の理性とそれを上回る欲望を感じたのだ。

 抑えようとしても抑えきれない彼女の邪な感情が、その震える唇を通して確かに伝わってきたのだ。


 そして現在。

 俺はご褒美を心待ちにしつつ、その期待を表に出すことはしない。

 ひたすらドンのを奏でる。


 久々ではあったが、とうの昔に俺はこの遊びに最適化された存在になっていたようで、あの頃の感覚を取り戻すのは容易だった。

 彼女の拳が俺のお腹に触れた瞬間、俺の脳ミソは高速回転する。

 これは『ドン、ドンドン、ドン』のリズムだ、と頭で考えたときには既に「ドン、ドンドン、ドン」と口から出ているのだ。


 彼女はだんだんと難易度を上げていくが、ある一点を越えると逆に単純なリズムに戻していく。


 それはもうすぐ終わりが近いことを伝える、俺への合図。


 俺は無感情にドンドン言いながら、心の中は期待で震えていた。


 もうすぐだ。

 もうすぐで、ご褒美の時間なのだ。


 そして――。

 ついに、待望の瞬間……!


 彼女は俺のお腹に一回だけ、とても優しく、触れるように拳を当ててくる。


 俺は……。


 反応しない。

 …………。


「……ねえ。どうしてドンって言わないの?」


 ワルミちゃんが甘えるように言ってくる。

 それでも俺は返事をしない。


 これは正当な手順なのだ。

 ただただ、無言。


 彼女は俺を挑発的な目で見てくる。


「私に逆らうんだ? これは、お仕置きしないといけないね」


 俺は無感情にまっすぐ前を見る。

 ここで俺が欲望を見せればご褒美がお預けになる可能性は高い。

 今の俺は楽器なのだ。

 壊れて音の出ない楽器。


 彼女はしばらく俺の顔を眺めていたが、ようやく満足したらしい。

 だんだんと彼女の顔が近づいてくる。


「……?」


 少し違和感があったが、言葉にはならない。

 今の俺は楽器なのだから当然だ。


 彼女の顔はさらに近づき、ついに待望の……。


「!?」


 キスの感触は、首筋には無かった。


 口だ。

 彼女は俺の口にキスをしてきている!


「んぐう!? んぐぐ!」


 思わず離れようとしたが、彼女は両手で抱きしめてきた。

 そのままキスを続けてくる。

 俺の両手は最初、助けを求めるように虚空をさまよったが……やがて彼女の髪に触れ……肩へと下がっていき……結局最後は彼女の背中に落ち着いた。


 ……それから何分たったのだろう。

 彼女と何十回もキスをした気がするし、息継ぎをしながらの途轍もなく長い1回のキスをした、そんな気もする。


 とにかく言えることは1つだ。


 俺には、刺激が、強すぎる。


 キスが終わると同時にその場にへたり込んでしまった。

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