完全版

本編

 アコースティック・ギターと声のみの平坦な歌が流れる店内。そこにはヨーグルトソースのナタ・デ・ココと、キャラメルマキアート、そしてダークブラウンの小さな円形のテーブルを挟んで、男女二人が座っていた。ブレザー制服の女子の方は元気に唇を動かしている。

「ねぇねぇ聞いて? 好きな人がさ、すれ違いざまに目を合わせて挨拶してくれたんだよ! ……いや、その、私の友達がね? 友達の話だからね!」

「はいはい。分かったよ」

「絶対分かってないじゃーん!」

 名古屋市の、とある小洒落たカフェで成木なるき草介そうすけは友達の恋愛相談を受けていた。

 オレンジ色の照明が照らす、木目の効いた壁と道路側に付けられた巨大なガラス窓が囲む店内は、東京の表参道だと言っても百人全員が騙される程に名古屋の「だがね・みゃー」シティーとは程遠い落ち着いた雰囲気だった。だがここが表参道だったら、窓から見える景色も名古屋とは違って、街路樹が地球温暖化対策と言わんばかりに植えられていたり、はす向かいの服屋も流行りの最先端のその先を行ったアイテムばかりを売っているはずだ。が、こんないい雰囲気のカフェは近くに無いので、愛知県立あいちけんりつ西野御原にしのみはら高校に通っているカップルないしはカップルの芽たちは、もれなくここへと足を運ぶ。そしてそれは付き合っているということを公式発表するも同じだった。

 しかし二人はカップルではない。

「その人がもうすぐ誕生日なんだけど、なにをあげたらいいかなーって」

「なるほど」

「いや私の友達がね」

「分かってるって」

 成木は「うーん」と声を出しながら長考する。

 誕プレか……。プレゼントなんて家族と親友のあいつくらいにしかあげないし、ちゃんとしたものをあげた経験なんてまるでないからな。

 うーむ、難しい。

「難しい」

「そんなこと言わずにさ! なんか好きなものとか無いの!?」

「俺に聞かれても知らないよ」

 取り敢えずその日は、「心を込めてあげればなんでも喜んでくれるんじゃない?」などというありきたりな言葉を残して帰った。


「よーよーお前充実してんなぁー!?」

 平良へら心真しんまは成木の首が捥げる程の勢いで肩を組んできた。彼女は成木の唯一の親友とも言うべき存在で、ピアノのようなタッチパネルを叩く音ゲーのチュウニズムで高め合う仲だ。背は女子列の前から八番目で、度のきついコンタクトを両目にはめている。チュウニズム用の手袋を忍ばせた右肩の鞄はさらに、昨日出す筈の課題と再提出が入ってパンパンになっている。成木はいつものごとく荷福を背負い投げし、思い出したように聞き返す。

「充実してるって、そんな相手どこに居んだよ」

「お前、昨日荷福さんと一緒にカフェにいただろ!」

 成木は蔑みな「うげっ」という顔をする。荷福さんーー荷福にふ詠子えいこは、シースルーの前髪に、後れ毛を掻き上げた時に覗く少し広い耳と、その笑顔の効果が何倍にもなりそうな大きな口、にこやかさを強調するように膨れた頬骨という、男の中に少なからず根強い人気を誇る、「喋れる系カワ女子」である。

「お前カフェに人の恋バナ聞きに行くのやめろよ。趣味悪りぃぞ」

「オタクたるものこの学校の関係を把握しなければならないのだ!」

「腕貸せ」

 背負い投げ!

「そうはさせない! 必殺手首返し!」

 そう言うと平良はくるんと手首を捻って成木の手を振り払い、みぞおちめがけて二本指で突いた。

「うぐっ」……という声と共に倒れたのは平良だった。成木の腹筋は、想像以上に硬かったのだ。

「俺の七十八勝目だな」

「私は既に百十一勝してるけどな」

 ホームルーム五分前を告げるチャイムが鳴り、二人がいた昇降口も教室に吸われる人の流れができる。その川があまりにもギチギチなので、先生が時間通りに教室に入れないこともしばしばある。だが成木のクラスである二年C組の担任、御堂地みどうち音氏ねしは小柄で有名で、その質量の小ささを活かした、人の川の上を渡る秘技、「ヒトサーフィン」によって一度も遅れたことがない。今日もまた、後ろの扉の上についている小窓から時間ぴったりに入ってくる。

「出席とるぞー。新井あらいー」

「へーい」

鹿島かしまー」

「いーっす」

飯田いいだー」

「ほーい」

 御堂地は席順に出席をとり、一時間目の物理が始まる。教科担任はそのままで御堂地である。チャイムが鳴り、御堂地が授業を始めようと白いチョークを持つと、それはぼろっと崩れて上半分が床に落ちた。チョークの体長からするとかなりの高さからの落下であったが、幸い半分に割れた程度で、粉々には砕けずに済んだ。御堂地はチョークを拾おうと屈み、そして立とうとした。

 すると、「あだっ!」――御堂地はチョーク受けに頭をぶつけた。

「先生かーいー」

 鹿島が皆を煽り立てるように大きな声で言う。

「俺を可愛いって言うな!」

 御堂地は反抗したが、火の着いたガソリン共を一吹きで消せるはずもなく、それは酸素供給となってしまった。

「先生モルモットみたーい」

「あいつらよりかは背が高いですしーだ」

「そう言うところがかーいーんだよー」

「お前の通知表の点数をドクロマークにしてやるぞ、覚悟しておけ!」

 わはっはーと教室全体に笑い声が響く。成木は眠気に誘われあくびを二度する。いつもこんな調子で、ろくに授業が進まずに終わる。一昨日なんか、水の密度は「ロー」で表すぞ。って言われて、記号の書き方講座をやっただけで終わった。どうやら、下に伸びている線の微妙な湾曲を妖艶に書くことが重要らしい。

「やっべ。あと時間五分じゃねぇか。まぁいいや、今日はもう終わろう。……いいかー、宿題は今日の復習だー」

 無駄授業の記録更新だ。新井の「どこやりゃいいんだよー!」という声はチャイムに被さり、すでに、御堂地は消えていた。成木はスマホを取り出し、次の授業に備える。

 ざわざわと騒がしくなるが、新井の声はよく響く。

「次イングリッシュトークじゃねぇかよー」

「俺マイケル苦手なんだよなー。日本語喋れよって思うわ」

「俺さ、この前マイケルが教頭に日本語で話しかけてるの見たわ」

「まじかよー!」

 チャイムが鳴る。


 チャイムが鳴る。

「っかー! やっと学校終わったぜー!」

「カラオケ行こーぜカラオケ」

「ポテチ持ってくわー」

「んじゃ俺はポテフ箱で持ってくわ」

「アホか。粉末になってまうわ」

「のびーるのびーるぐぐーんとのびーる」

「シゴトハカドルゥ-!」

 新井と飯田のバカな会話を背に成木は帰路を急ぐ。ママチャリは僅か八ミリメートルの段差で悲鳴を上げ、ギアチェンジが成功するのはその瞬間のみ。だが帰りの成木とママチャリにそんなことは関係ない。なぜなら学校から成木の家までは下りの一直線だからだ。最初の大通りさえ越えられれば、後は閑静な住宅街に入るので、そこからはよほど高速に、不注意に坂をかけ降りなければ地球に激突する心配もないし、一漕ぎもせずに家に着ける。

 でも成木だって男子だ。無意味にウィリー、ジャンプやドリフトをしてみたくなる。

 だが成木だって帰宅部だ。もどきは出来てもその後は舵が明後日の方向へ向く。

 ――どんがらがっしゃーん。成木とママチャリはアスファルトに寝転ぶ。幸い回りには誰もおらず、視線の矢は成木に突き刺さらない。成木は、「あーあ、面倒くさいな」と思いながら片手で立てようとしたママチャリは重く、黒い石による八つ裂きで血まみれになった右手を庇うように左手と右の前腕でママチャリを支えて転がしていく。

 しばらく歩き、かろうじで自動販売機が生きている古いタバコ屋から二つ行ったところが成木の家だ。

「ただいまー」

 母は仕事に出掛けているため、成木の声はただエコーするのみ。そのまま流動的にスクールバッグを置いて外出用のポーチを掬い、もう一度外に出る。その時間、僅か五秒。

「ああ」

 絆創膏を忘れていた。

 再び外に出ると、ちょうど荷福がタバコ屋を通りすぎるところだった。

「あれ、どうしたの荷福さん? 帰りこっちだったっけ」

 荷福は「しまった」と言わんばかりの顔で少し硬直した後、喋り出す。

「いや、えーと、たまにはいーかなー、なんて……って、その傷どうしたの!? いたそー」

「さっき自転車でこけちゃって。でも大丈夫、絆創膏貼ったから」

「だめ、いつ雑菌入るかなんて分からないんだから! えーと、はいこれ、傷治しの塗り薬。手出して」

 荷福は右人差し指を口の前でピンと立てながら言った。成木は言われるがままに右手を出す。すると荷福はその手に塗り薬を出して、両手で包み込むようにしっかりと塗った。

 成木は「ありがと」と、語尾を短くお礼を言う。

「なんだ照れてもいいのに」

 夕陽が二人を赤く照らしていた。

 しばらくして、成木は宇宙から届く光の時報によって本来の目的を思い出した。

「あ、ごめん、行くところがあるんだった」

「こちらこそ、ごめんね引き留めちゃって」

 上り坂をママチャリで軽快に。


 成木は一般的には不快と呼ばれ、つんざく雷鳴にも似た音を鳴らしながら自転車を急激に横にして止めた。成木は慣性で巨大SEGA店舗の壁にぶつかり、その凹凸が左肩に容赦なく突き刺さる。しかもカッコつけて最高速度から横向きブレーキを掛けたもんだから、その痛みは君の想像の十倍にもなる。成木はその苦痛に狼狽しながらも、一歩ずつ歩みを進めて店に入った。

「ツイてないな」

 自動ドアを開けるのに苦戦、三十秒。

 階段にガラ悪大学生が居て迂回、四十五秒。

 エレベーターが止まらなくて待機、三分十五秒。

 やっとの思いでついたと思ったら、清掃直後のつるつるの床に気づかずにアニメのように滑った。その一部始終を、先にチュウニズムをやって待っていた平良がヘラヘラしながら見ていた。

「こんなに遅くなって、やっと来たと思ったらこけるって、お前何か呪われたか?」

「遅くなってすまん。家を出たら荷福さんとばったり合って、ちょっと喋ってたんだよ」

 すると平良のヘラヘラがゲラゲラに変わる。

「やっぱお前、そーじゃねぇか!」

「だから付き合ってないし好きでもないから!」

「じゃあいっつもカフェで何を話してんだよ」

 成木は迷う、荷福の恋バナだからな……と。

「プライバシーだからだめだ」

「ますます怪しいじゃねぇか」

 少し平良は黙って、チュウニズムの画面を見た。

「まあ、とりあえずはこれくらいにしといてやろう。そんなことより、お前が遅かったせいで今日の分のペアプレイイベントが出来てねぇんだよ。はよ立て」

「すまん、腰が抜けて立てん。手貸してくれ」

 成木は平良の手伝いのおかげて立つことが出来たが、もう一つ重要なことに気づく。それは、自転車を止めた際にぶつけた左肩が、まだ治っていないと言うことだった。音ゲーにおいて片腕不利というのはどうしようもなく致命的である。成木は平良に重ねて詫びたが、平良は、「うるせぇ知るか」と強引にチュウニズムに百円を入れさせる。成木も、「遅刻したのも怪我をしたのも俺のせいだし、しゃあないか」となすがままに。

 チュウニズムが百円を感知し、「何で遊……ペアプレイ!」と鳴る。時短魔の平良お馴染みだ。隣の成木を見ると、さっきまでとは明らかに雰囲気が違っていた。

「これは、ゾーンに入ったな」

 平良はいつものごとく「HANSEN! 雙はプリクラ」を選択し、最高難易度を選ぶ。テンポ百八の四つ打ちの後、曲が流れ始める。そして、ノーツが奥から手前へと様々に流れていった。

 二人は懸命にそれらをタッチしていく。人生の時間を使っているのだから、命を懸けると書いても過言ではないだろう。特に、二人にとっては。


「いやーしかし、さすがに片手が使えないのはキツかったか」

 百円分である三曲が終わり、成木が右手首を振りながら言った。

「ログボも手に入れたことだし、今日はこのくらいにしとくか。成木、ちょっと話でもしよう」

 成木は眉間にシワを寄せ、分かりやすく訝しげに言う。

「どうした、改まって。またカップル限定イベントでもあるのか?」

「ちげーよ。分かるだろ、ほら」

 平良は成木を小突く。だが成木は一層シワを寄せる。

「うーん?」

「分っかんねぇの!? こんなに見せつけておいて!?」

 成木は笑っちゃうほどにさらにシワを寄せて、「答えは?」と無言で聞く。

「お前の恋バナだよ!」

「俺の恋バナ!? だから好きな人なんかいねーんだけど?」

「じゃあなんで荷福さんはよくカフェにお前を誘うんだよ?」

 成木は人差し指と親指に顎を置いて少しの間考える。

「それは……なんでだ?」

「ズバリ言ってやろう、荷福さんはお前のことが好きだからだ!」

 成木は、これ以上何を言おうが結果がこれになるだろうと察して、諦めの一言を放つ。

「はぁ、あのな、荷福さんは俺に『友達の』と称して恋愛相談をしているんだよ。そんな、好きな人に恋愛相談するわけがないだろ」

「なるほど……それなら違うか……」

 会話は一瞬途切れたが、それは平良の熟考によるもののようで、一つの疑問によって会話は再開された。

「ちなみに、なんでお前は荷福さんとカフェに行くんだ? あ、ははーん、やっぱ、お前、荷福さんのこと好きなんだろ!」

 成木は「まったく……」といった具合に首を降る。

「ちげーよ」

「それじゃあ、荷福さんの好きな人のことが好きだ……とか? いや、それはないか、同性だし」

 平良の絞り出したような問いの後の言葉と共に、成木の唇は微かに、そう、微かに動いた。

 「そうか……」と。


「うおっしゃああい!! 見ろ成木! ってあれいねぇ」

 いつも机に突っ伏している成木の姿はなく、成木は廊下の方からゆっくりとパンをぶら下げて来た。

「なんだなんだうるさいな」

「トリプルチーズ納豆ゲロゴーヤチャンプルーパンを手に入れたぞ!」

「……ゲロ?」

「え? まじやんゲロじゃん」

 平良は巧妙に隠されたゲロの存在に気がついていなかった。まったく、何故数量限定なのかを考えれば分かるものを。

 平良は伝説のパンのイメージがぶち壊れて半ば心壊だ。

「んじゃいただき」

 それをいいことに成木は平良の持つ伝説のパンを大きく齧った。疑心暗鬼だった顔がみるみるうちに笑顔に変わった。

「おーい、これうまいぞ食べろ」

「は!? お前いつの間に食べてんだよ、こっちにも寄越せ……あれ、今日はお前も購買なのか」

「あーうん、今日は、ね」

 平良は全長二メートルにもなろうかという長さを全て口の中に入れていた。

 平良の腹はスフォルツァンドで鳴った。


「成木ー、起きろー。……二、一、渇!!」

「あがっ!!」

 時は購買ダッシュ後、物理基礎の授業。地は西御校、御堂地の私物であるバイブルコーナークラッシュ用のドグラ・マグラが、夢の世界へ旅行していた成木を襲う。バイブルコーナークラッシュまでのカウントダウンは回数を増すごとに短くなっていく。きっと、次回はコンマ三秒だろう。

 それにしても、前回は三日前だと言うのに……こやつ、なかなかの手練れである。

 さて、キーンコーンカーンコーンと、永遠に聞き慣れた音が授業の終わりを知らせる。

「というわけで、今日はもう終了だ。宿題はやっとけよー」

 新井はとたんに「マイケル・マイケル・マイコー・フォー!」と歯切れよく歌い、両手をグリコサインのように上げながら後ろのロッカーへと歩く。今日はテンションが高いようだ。と、成木は思う。きっと、次が、ペチャクチャ喋っていてもなにも言わないで有名なマイケルの授業だからだろう。とも。

 も一つ成木は思う。マイケルは口に出さないだけで、通知表ではしっかりと点を下げている。と。

 なんてことを漠然と考えながら机に突っ伏している成木の脇をすれ違い様に平良がくすぐる。

「ひゃっ」

 平良はこの声に性癖をおぼえるのだ。


 教室が一気に騒がしくなる。どうやら帰りのSTが終わったようだ。

 新井と飯田はまたもバカな会話を。

「シロノワール食べにいこーぜー」

「そーいやシロノワールって、何が白で何がノワールなん?」

「上のソフトクリームが白でぇ」

「おん」

「下のデニッシュがノワール。ノワールはフランス語で黒だってよ」

「ほえー。ほんま?」

「ほんま」

 成木は戦慄する。全くバカでなく、本当の事実を話していることに。

 ふと時計の方に目をやると、廊下に居る荷福さんと目が合った。少し微笑む。きっと、またカフェに誘いに来たのだろう。

 そう思い成木は席を立つが、どうしたことだろう。なんと平良が荷福に話しかけに行ったのだ。荷福は1.2秒驚き顔をして、4.7秒話を聞く。8.9秒考え顔をしてから、3.3秒で微笑みながら平良と共にドア枠の陰に消えた。

 成木は無駄に恥ずかしくなって顔を突っ伏して寝たが、それはそれで恥ずかしく、0.27秒で顔を上げて、帰りの荷物を詰めた鞄を肩にかけた。

 ママチャリの走行音は引き笑いを見せて。


 あたたかみに満ちた木の店内。橙色の照明はいつも変わらず、少し大人な甘さを演出している。

「平良さんが私を誘うなんて、珍しいね。私に聞きたいことでもあるの?」

 サラッと左耳にポニーテールのおくれ毛を掛けながら、フレッシュを入れただけのビターなアイスコーヒーを、右手で軽く支えたストローで飲む。その仕草に平良は唾を飲み込みながら思う、「えっろ」と。

 そうやって平良が見とれていると、荷福さんはとっくにストローから口を離していて、不思議そうにこちらを見ていた。

 平良はあわてながらも、あたかもこの間が無く、ごく自然に会話が続いているようなトーンで話す。

「ああ、荷福さんはよく、成木とこのカフェに居るでしょ? なんでなのかなー、って思って」

 みるみるうちに荷福の顔は赤くなってゆく。その時、丁度ストローをまた口に咥えてうつむいていたから、詳細には顔が見えなかった。コーヒーの水面は全く下がっていない。

「いやー、自分でも考えてはみたんだけどさ? 全然分からなくて……。成木に『友達の』って言って恋バナをしてるらしいから、あいつことを好きっていうのはないだろうし……」

 痛いところを突かれた驚きと、それから必然的に考えられることからとんと外れていた平良の言葉に荷福は「ふぇ?」などという、本当に素っ頓狂な声が漏れ出た。それで平良も気の抜けた声が出る。

「え、違うの? あいつことが好きじゃなく……ないってこと? つまり……あっ!」

 また荷福の顔は赤くなる。今度は少し顔を上げていた時で、平良が「ハチャメチャにしたい」と心の底から思うような荷福の紅潮がばっちり拝めた。平良は一生分くらい見舐め回してから、大袈裟に胸を張って、自己利益九割の提案をする。

「だーいじょうぶ、あいつにも誰にも言わないから! この私が荷福さんの本気の恋バナを受け止めてさしあげましょう!」

 ヒートアップして、ついつい机に身を乗り出した平良に、「お待たせ致しました」と冷静沈着な声で割り込んだ店員は、メロンクリームソーダを机に置いた。平良は恥ずかしくなって、しばらく机に手を置いたままで硬直していたが、やがてふかふかな椅子に無音で座った。ソーダを飲むと、元気が戻ったようで、またしても身を乗り出してしまった平良を店員が睨み、少し萎縮する。

「それで、あいつのどこが好きなの?」

「優しくて、聞き上手だけど、聞くだけじゃなくて、なんかこう……話してて楽しいんだよね。ほんと、なんであんなに優しいんだろうねー」

「あー、ほんとにほんとに……」

 成木の優しさは、他人について何の興味もないことに由来することを知っている平良は苦笑した。

「んじゃあさ! もし付き合うことになったらあいつとなにをしたいの? キス? やっぱキス!?」

「いやいやー! 清純に……ね? ま、例えばジブリパークとかに行ってみたいかなー」

「なるほどー。んで、夕陽が照らす帰り道で、『ばいばい』の代わりに『うち、今日親いないから……』って言うんですね! 分かりま、すぅ……」

 店員は少しわざとらしく大きな声で咳き込む。平良の語勢が竜頭蛇尾となった。

「いや言わないよ!! 清純に……うん。でもたしかに、学校終わりに二人でどこか行くっていうの良くない?」

「良いね~。ただ、あいつのことだからな……荷福さんより、もしかしたらチュウニズムをとるかもしれないよ?」

 平良は人差し指を立てて、始めの村の村人Dのように忠告する。

「うーん、やっぱりそう思う? だからさ、成木くんを音ゲーよりも私に夢中になるように頑張るよ!」

 オンラインゲームのラグによるフリーズくらいの、ほんの瞬間、平良は止まっていた。

「えーと、それはつまり、チュウニズムを辞めさせるってこと?」

「うん。そゆことだね」

「なるほど、ね……」

 荷福は「あっ!」と唐突に声を出した。目線は、平良の向こうの時計に向いていた。

「塾の時間だ! ごめんこれコーヒーの分!」

 荷福はそそくさとカフェを後にし、机にあるのは金額ぴったりの小銭とメロンクリームソーダのみ。天井に付いていた大径のファンに生ぬるく煽られて溶けたソフトクリームは、コミカルな発色のソーダの底に落ちていく。三次元的な墨流しがファンの影に何回も揺られる。

 俯いて、瞬きを忘れた平良の顔は、一定の影にまみれていた。

 平良は刻々と時間を後にし、脳裏にあるのは成木草介とそれからーー。


 次の日の学校終わり、カフェにいたのは荷福と成木だった。成木は荷福のキャラメルマキアートを見て、「いつも同じで、飽きないのかな」と思う。成木はコーヒーゼリー、それもフレッシュを多めにかけたゼロ円課金カスタムを頬張りながら、何か言いたげな荷福の顔を見つめる。

「荷福さん、どこか調子悪かったりする? いつもより無口だけど」

「ああ、いや、大丈夫。今日、天気がいいね……」

「う、うん。そうだね……?」

 それからまた沈黙が流れる。店員はそんな二人を注視する。カランと、誰かがグラスの氷をかき混ぜた音が十分に響くほどにカフェは静かな雰囲気を保っていた。なにかはしていようと、成木はフレッシュの色で牛乳寒天のようになったゼリーを一口食べて、無駄に多く咀嚼する。小さく俯き続けていた荷福は、やっと頭を上げた。緊張でいつもの朗らかな笑顔がなくなった顔が対比で映え、艶々な唇に少し言葉をのせる。

「成木くん。これ、誕生日プレゼント!」

 そう言って荷福は小さめな紙袋を差し出した。それにはベテラン書道家もビックリの筆記体のアルファベットが書かれていた。成木は読めず知らずだったが、きっとそこら辺で簡単に買ってきたものではないだろうと思った。「ありがとう!」成木は心からそう伝えた。

「開けてみても良い?」

「うん。気に入ってもらえるか、分からないけど」

「大丈夫。既に心は伝わってるから」

「それなら良かった」

 成木は破かないように丁寧にマスキングテープを剥がして、中に入った心を取り出す。

「ミサン……ガ?」

 そう言って成木は右手首に着けようとしたが、荷福が制止する。

「ああ、違うの。それはヘアゴムだよ。成木くんって髪が長いことが多いでしょ、それでまとめてみたらどうかな。って。そうだ! 私が結んであげる」

 まるで最初から結ぶことが目的であったかのように、恐ろしい早さの思い付きで、成木に有無を言わさない。

 成木はその意思の固さに反抗は見せず、流れに身を任せる。店員はまだ二人を凝視していたため、バイトリーダーらしき人物に小突かれた。キャラメルマキアートの氷が一回り小さくなる頃、荷福は「出来た」と声を漏らした。店が急に賑わってきたせいで、店員は見ることができず、こんなところ辞めてしまおうと決意した。

 フフフと微笑みながら荷福は成木に小さな鏡を渡す。オーソドックスな一つ結びだった。うなじの髪までしっかりと纏められていて、前髪はセンター分けになっていた。

「セセ、センター分け!?」

 成木はうろたえる。だが程よく長いテールを、成木は気に入ったようで、「ありがとう!」と、伝えた。

「気に入ってもらえて良かった。それね、私とお揃いなんだ」

 荷福は、首をくるっと曲げてポニーテールの付け根を見せる。成木は踊る髪にどきっとする。テールがまずエアリーに浮き上がり、次に触覚と共にスライドする。最後にワルツの足取りで揺れが静まっていく、そんな髪に。

「それで成木くん。今日は、あなたに伝えたいことがあるの」

「なに?」

 成木は浮かれ気味に軽く返事した。

「実は、今まで友達の恋愛相談って言ってたけど、全部私のことなの」

「うん」

 荷福の雰囲気が変わった気がして、はっとして成木、瞳孔を見る。それに気づいて荷福は目線を下に向けたけど、ゆっくり前を見た。ある種ライオンの目。

「それで、友達の……いや……」

 この期に及んで尻すぼみか。

「いや……?」

「私の好きな人は、成木くんなの!」

 ラグ的に一拍置かれて。

「え……えぇ!?」

 やっとリアクションが出たが、ただひたすらに驚愕するだけだった。

 全く予想していなかったんだよ。こんなかわいい人に好かれていたなんて、頭によぎっても否定していた。でも……。と、成木は迷う。

『俺が好きなのは……荷福さんの好きな人……』

『うれしいけど……、気持ちには答えられない』

『けど、この関係を終わらせたくない……』

 しばらく沈黙が続いた後、成木は決意を決める。

 荷福さん……ごめん。

「ご……」

「」

 荷福は文字に起こすのに適さない声を漏らす。二分間、荷福と成木の間には分厚い真空の壁ができていた。成木が断る言葉はおろかゼリーも口にできずにいると、荷福は耐えきれずに口を開いた。

「今はまだ返事は大丈夫」

「うん」

「今はまだ返事は大丈夫だから、いつか、答えてね」

「……はい」

 二人はカフェを後にし、T字路で別れた。一人帰路につく成木は、あの曖昧な返事を悔やんだ。だが、すぐに「あそこで告白をきっぱり断ったら、俺の好きな人の情報が入ってこなくなってしまうではないか」と思考を塗り替えで自己擁護した。

 ――ここまでいって、成木ははじめて気づいた。

「俺が好きなのって……俺だ……」

 成木はスマホを取る。

「つまりは、俺は好きな人にいつも見られてるってことだから、とりあえず見た目から良くしなきゃな」

 散髪屋、いや理容室を予約した。


「やぁやぁ、迷える子羊さん」

「へあああっ!」

 次の日、背後からぬるっと平良にそうささやいたのは、給食を食べ終えたばかりの御堂地だ。御堂地は食べるのが遅いくせに大食いなもんだから、いつも昼放課開始のチャイムと共に片付けを終える。

「って、先生? てっきり変質者かと……」

「誰がかわいいって?」

「言ってません」

 平良が怖い顔をしたので、御堂地は元々の低身長に加えてさらに萎縮し縮こまる。それでも、御堂地の勘によると、平良の悩みは彼自身にとって相当面白いものらしく、これまた変質者ライクにニヤニヤしながら話を本題へ進める。

「なんですかキモい」

「どうとでも言いたまえ。通知表で下げとくから。それより平良よ。悩み事があるなら相談しておくれよ。そうだな、放課後に少し時間を開けておくよ」

 平良が「ちょ、通知表下げるって!?」と言う間も与えず、御堂地は肩を叩いて消えていった。平良は手に顎をのせて人影が消えた空虚を見つめる。

「うーん、荷福さんは成木のチュウニズムを辞めせようとしている……。というか、そもそも荷福さんの恋路がどうなるかわからない……」

 次第に脳内のホワイトボードは成木の名前で一杯になっていった。

「どうした平良。無駄にシリアスしちゃって」

 軽い声で話しかけて来たのは成木で、ちゃっかり平良をサソリ固めに持ち込もうとしている。彼女はそれを最小限の力でいなし、脳内の錠前が一つ開けられた音がした。

「何だお前、今日やけに強いな。そうだ、これからシリリアスって呼ぼう」

「ガブリアスじゃねぇか」

「今日はすなあらしでも降るんかな」

「んなもん降ってきてたまるかよ」

 も一つ錠前が開けられた。

「てか見ろよこれ。お前が荷福さんとどっか行ってた間に、『ティアマト』をフルコンしたんだ!」

 またも一つ。

「今度この成木様が教えてやろうじゃあないか」

 も一つ。

 平良が口を僅かに開き、口角が微妙に上がると、チャイムが鳴った。平良はうつぶせて臨寝体勢に入り、次は口をかっぴらいて、呟く。

「期待しようか」


 帰りのSTが終わり、続々と生徒らが帰路につく頃、平良はやっと付箋を貼って返されたノートと手袋を鞄に入れ始め、いつもはヒトサーフィンですぐに消える御堂地もなにもせずに突っ立っている。帰る準備が整って、鞄を持ち上げた平良と御堂地は教卓越しに目が合う。御堂地は無駄に含みを持たせた間をおいてから、口を小さく動かす。

「やっぱりな。じゃあ、そこの新井の席にでも座れ」

 二人は対面して座り、臨時面談が開始される。

「平良よ。これはたまたまだが、一昨日カフェに行ったんだ」

「はい」

 趣味が悪い。と思ったが、自分も同じようなもんだと思い出して、平良は少し噛み合わない返事をした。

「そこで、偶然、偶然な、おまえと荷福の会話が聞こえてきたんだ」

 もうわかったから、と平良は本題に進むことを促す。

「ああ。つまるところ平良は成木を手放したくないんだろ?」

「まあそんなところですね」

「そんな簡単に肯定されると、調子狂うな」

 御堂地は平良の瞳孔を今一度見るが、一切の動揺が感じられなかった。また、例えるならば、太陽黒点だと思った。裏声混じりに小さく咳き込んでから、御堂地はペテンの薄笑いを顔に張り付けて一大提案を開始する。

「さあ平良よ。時に心理学は嗜むかい?」

「ギャップ効果を使って通知表を上げてますが」

 などとほざくオール二の貴婦人。御堂地の耳は都合よく畳まれた。

「そんなことより今日はな、一つすごい心理技法を教えてやろうと思っているんだ。それを荷福に教えてやれば、成木は絶対に荷福のやりたいようにはならないだろう」

 平良はゴクリと唾を飲む。目はいつになく真剣になり、様々な仮定を頭の中で駆け巡らせているよう。

「その心理技法、すごいとはどのように?」

「ミラーリング。相手の言葉をそっくりそのまま返したり、肯定することで、相手は自分に好意をもつというものだ」

 嘘っぱち。でも、これは虚空から作り出したものではなく、真実を虚で塗りたくったものだった。まさに、騙りペテンの手口である。

 しかし訝しげな平良を見て、御堂地は畳み掛ける。

「考えてみろ。成木がおまえのところから離れて、どんどん消えていって、高め合う仲間も遊ぶ友達もおまえからいなくなる。それでもいいのか?」

「嫌……」

「そうだろ。ならばやることは一つ。荷福を、成木の言葉を反芻するだけの肯定機械にすることだ」

「いや……」

「成木の言葉を反芻する肯定機械にすることだけだ」

「……」

 平良に言葉の余地を与えず、マシンガンが容赦なく平良のなにかを穴まみれにしていく。

「ああそうだ、昨日荷福が成木に告白していたぞ。答えは渋いようだったな」

 次の場面は、平良との二度目のカフェテリア。


「えーと、荷福さん? だいじょぶ? 心ここに非ずだけど」

「成木くんに告白したの」

「ええっ!?」と対策考案済だからこそできるオーバーリアクションをする。次は、「成木は、どう言ったの?」だ。

「あまり良いリアクションじゃなかった。焦って、答えはまだいいって言っちゃったけど、どうなんだろう……」

 想定と全く同じ言葉が帰ってきた。平良は吹き出しそうになるのを抑える。これは早速本題に入っても良さそうだ。

「荷福さん、ミラーリングって、知ってる?」

「ミラーリング?」

「うん。相手の言葉をそっくりのそのまま返したり、肯定するっていう心理学のやつ。そうすると相手は好意をもつようになって、相手を『この人と話していると楽しい』っていう感情にできるの」

 間髪容れずに畳み掛ける。

「そしたら、成木が振り向いてくれるかもでしょ?」

「確かに、なるほど」

 そうして荷福を機械にしていくうち、日が暮れていった。平良のみが注文したストロベリーパフェは既に生気を失い、ホイップクリームもただの甘さの権化と化していた。平良はそんなスイーツにかぶりついた。きっと、味のバランスは崩れていただろうが、平良は満面の笑みだった。荷福は笑い返す。

 明日の土曜日、成木と会うよう荷福に言い、平良は家に帰った。


 ある風の日、いつも以上に轟音を見せびらかしながら坂を駆け降りるママチャリ。ひょこっと現れた軽車両のために握りしめたブレーキ音も加わり、その音は寝ているものも最後の晩餐を食べ始める程だった。崩れた前髪を直しつつ、カフェへ。

 ドアに付いたベルが控えめに鳴るのと同時に、成木は流行りの十五秒間だけよく知られている曲が流れる店内に足を踏み入れた。

「成木くん、雰囲気変わったね」

 両耳ピアスにセンター分けの先っぽを遊ばせナチュラルラルメイク。そんな成木に荷福は圧倒され、あんぐり口を開けたまま。ストロー内に充填されていたレモネードが逆流した。平静を装おうとまた親指を含めた三本の指でストローをひょいと口に運ぶが、急に酸味をきつく感じた。

「早速だけどさ、荷福さん、その、告白への回答だけど」

「うん」

 荷福は俯く。

「荷福さんの気持ちには、応えられない」

「うん」

 一拍おいて、あの店員が店長となったカフェで成木は宣言する。

「俺さ、俺のことを、好きになったんだ」

「うん」

「だから、荷福さんとは付き合えない」

「うん」

「それで、俺は俺に振り向いてもらうために頑張るから、いつも通りにまた荷福さんとカフェに行って、荷福さんから見た俺と会わせて欲しい」

「うん」

 成木はカフェを出た。

 荷福は硬直を続けていた。肯定で、私は成木君を失った。植木鉢をはみ出して倒れた盆栽のように。

 今日の格好、かっこよかったな。あんなの見せられたら、もっと好きになってしまう……。成木君の馬鹿。

「でも、もういいや」

 レモネードは失恋の味。

 平良は「万事快調」と離れた隅の席から呟き、ガムシロップを一気飲みした。


「あれ、まだ来てねぇじゃん。成木のやつ、遅いな」

 次の日、平良はいつものごとく遅刻判定となる時間の四分前に学校に着いていた。成木は平良が来る一分前に来るのが常なのだが、下駄箱には室内靴があって外靴は無かったのだった。

 成木は一限目が始まっても終わっても、ついには昼放課になっても来なかった。仕方なく平良は他の友達と話しに行く。

「うぇーいー坂梨さかりぃー……あだっ!」

「なんだなんだ急に!」

 平良は坂梨を背後からハグしようとしたが、坂梨のあまりの小ささゆえに空振りしてずっこけてしまった。平良はすぐに立ち上がって、坂梨の方に向き直る。

「最初はグッ、じゃんけんぽっ!」

「あ? 急になんだなんだ?」

「腕貸して?」

「え、なに怖いやだ」

 平良は迷ったが、誰もが「君は話の出来るやつだ」と言われるような話題にすることにした。

「今週のワピスーン見た!?」

「もっちろんさ!」

「まさか、ルスィが百八巻ぶりにあんな場面で登場するとはね。もう興奮しちゃったよ!」

「それなすぎる!」

 何かがちょこちょこ動いているなと思って平良が坂梨の向こう側を見ると、御堂地が平良を手招きしていた。

「ちょっと先生に呼ばれちゃった、ごめーん」

 平良は軽く手を振って坂梨と別れ、御堂地のところへ行った。

「平良、帰りに成木の家まで、今日のプリントを持っていってくれないか」

「分かりました……あれ、こんな封筒、配られましたっけ」

「まあまあ、とにかく持っていけ」

 チャイムが鳴って、五限が終わって六限も終わった。

 帰りのSTも終わった。

 御堂地は笑った。


 片手運転、ながらスマホに怠惰な自転車帰り道、下り坂。平良のパンパンのバッグには成木に渡す用のプリント達がなんとか折れずに入っている。こんなに息苦しく挟まれて、まったく紙も災難である。

 常にぐらつきながら進む平良の耳にはずっと風の音がして、それでもなんだかんだ暑い夏の日。

 さて、平良は七十回程こけそうになりながらも、シャッター半開けの家の中で肌着姿のまま新聞を呼んでいるタバコ屋を通りすぎ、成木の家に着いた。

 郵便受けに入れて帰ろうとしたが、久しぶりに成木の母に顔を見せようかと思って手を止めた。

 平良はぎこちなく笑顔の練習をする。何度も繰り返してようやく本番だと思った時、

「お、どうした平良」

 玄関が開いて、成木は顔を出した。

 平良は面を食らった。

「じゃらじゃらしとる……」

 ピアスは進化しセンター分けはアッシュブラウン色に。そして指輪は両手に十一個。

「これ、俺宛てのやつ?」

「あぁ、うん」

「あんがと。んじゃ」

 成木はくるっと半回転してプリントを家に投げ入れ、玄関の鍵を閉めた。そしてママチャリのハンドルを両手で握りながら平良の後ろを漕いで、そのまま行った。その間は、ただただ静かなベアリングの回転音のみが聞こえた。

「なんだ……あいつ……」

 平良は呆気にとられていて、カーカー鳴くのは雀だった。


 町の家々は壁を赤く染められ、くっきりとした足下の影が対岸の歩道までに伸びては輪郭を失う。体操服姿の中学生が甲高くはしゃぐ光景でさえ郷愁を誘うようになる時刻。成木はクロスバイクで家に帰ってきた。

 玄関を開けても無言のまま。

「ああ、そうか」

 成木は床に置かれていた御堂地からの封筒を手に取り、開けた。

 ごろごろ雨が降り始め、ざーざー雷が落ちていた。

 御堂地からの手紙を読み終えて、成木は豪雨滴る窓ガラスを見つめた。すると窓を隔てた向こうからも彼が麗しく見つめた。

 成木が窓に手を当てても彼に触れることは叶わず、障壁である窓を開けると、彼は消える。室外機の上の水溜まりに映った彼にみとれても、頬を撫でようとすれば波紋に隠れて居なくなる。

 成木は空にしめ結うのだった。

「もう、俺には君しかいない」

 しばらくその窓ガラスに反射した彼に胸苦しみ恋焦がれていると、不意にインターフォンが鳴った。

「今行きます」

 成木はリビングに戻って宅配の牛丼を置き、冷蔵庫に入っていた蚊連草とフレンチドレッシングがかけられたサラダと共に食べようとした。しかし箸を持ってきていないことに気がつき、立ち上がると手が引っ掛かってお茶を倒してしまった。

 成木がそのお茶溜まりに手を伸ばすと、彼もこちらに向かって手を伸ばす。あと少しで触れられる――と思えば彼は波に揺られて居なくなるなるのだった。

 いらいらしてお茶溜まりに拳を打ち降ろすと、少しだけ彼に触れられたような気がした。

 彼が水面の凹凸に乱れ消える前に、ほんの僅か鏡面のその向こう側へ指先が埋められたような。

「……なるほど、手紙の意味はそういうことか」

 成木の声の反響がフェードアウトしていくにつれ、雨音が耳を支配していった。荒い雨は、ばんばん室外機を打つ。

 ざーざー。

 ばん。


 暑苦しい程の熱風の朝。

「よーよーお前派手になりやがってよー!?」

 平良は成木の首が捥げる程の勢いで肩を組んできた。学校内では実に三日ぶりの再会なために、腕の角速度は秒間千と八百度にものぼった。

「ごめんけど、時間もうやばいから、先行くわ」

 平良は腕を振りほどかれ、呆然とする。

 呆然と……。

 チャイムが鳴った。

 遅刻となった。

 反省文は十万字。

 けれどもそんなことでめげる平良ではない。ホームルームが終わった後、スマホ片手に反省文のコピペを検索して、例文では到底十万字にたどり着かないことに絶望しながらも、成木の背後に近づいた。

 膝カックン。

 成木の顔は仏頂面のまま垂直に落下し、脚が限界まで畳まれたところで振動により残像をもった。

「よっしゃ一勝!」

「ッ……」

 成木は小さく舌打ちした。そのあと机に手をついて立ち上がり、早歩きで教室を出ていった。

 またしても平良は、一人置いてけぼりにされたのだった。

 平良は全く状況が飲み込めず、餌を乞う鯉のように口を開けたままになっている。

 そこに荷福が来た。

「どうしたの、そんな猿が手品を見た時みたいな顔をして」

「え、荷福さんそれって……」

「あはは」

 そんなことよりもー、と平良は仕切り直す。

「成木がかまってくれなくなったんだよ」

「疲れてるんじゃない?」

「いやそれがさ、なんと舌打ちされたの」

 荷福はそれを聞くなり眼にどす黒いものを光らせた。

「私、ミラーリングじゃ上手く行かなかったみたい」

 荷福はそれだけ言って、平良に背中を向けた。


 さて、放課後となった。

 校舎は頬を赤らめ、影は広い。

 荷福はそそくさと鞄に荷物を詰め、美術部へ向かった。足が浮きそうなくらい早歩きで向かった。

「あ、荷福さん、たまたま、ちょうどよかった」

 後方から成木の声がした。息が切れ切れである。

「今日いつものカフェに行かない?」

 荷福は少し足を止め、振り向かないままに答える。

「ごめんね。もうあなたとはカフェに行かないことにしたの」

「え」

「あと、話したくもない。この汚い理想郷のナルシストくんとは」

 荷福はそのまま歩いていって、その先にいた美術部仲間の坂梨と話しながら成木の視界から消えた。

 成木は泣いた。もう荷福から見た自分と会えなくなることに。

 しかし彼は分かっていた。彼自身の状態を、世間は誰も「普通」とは呼ばないことを、「キ印」と呼び、「キ印」を彼とすることを。

 だからこそ、今日は家に帰った。水溜まりも、窓ガラスも、今の彼には目を合わせない。格好つけてウィリーをするし、こけそうにもなる。前髪は強風にオールバックになる。そのままにする。

 だから俺は普通なのだ。


 そうして、成木は次の日もまた、世間と共に起床して、登校した。

 平良の席にはリュックがかかっておらず、荷福さんに近づけば、烏のつついた生ごみを見るような目で俺を見下した。

 シャーペンは自ら床に落ち、消しゴムは定規と癒着して剥がれない。

 水筒の麦茶は的確に気管支へと侵入する。

 御堂地が紙パックのカフェ・オ・レを飲んでいる。

 全てが俺のことを嫌っているように感じた。後ろのやつも、床も、大雨も、全て。

 あ、右耳を誰かが狙ってる。スナイパー。

 怖いよ。


 次の日、成木は御堂地からの封筒を再び開け、中の物体をポケットに入れた。そして成木は、グラスに入った、表面張力ぎりぎりの水面を見つめた。

 俺のことを嫌わない、彼は、水面に写る。

 俺のことを嫌わない、彼は、水面に消える。

 指を勢いよく突っ込むと、なんと水が溢れた。彼に指先が触れた。

 指先。

 それでは足りない。もっと、全身で、もっと、深く、水面の彼に飛び込める術――それは、既に成木がポケットに入れていた。

 一時限目を逃したタイミングで、成木は学校へ向かった。

 そのまま階段を登り、登る、登る、それだけ。

 屋上の扉を解錠して、昨日の雨が残った空模様と、大きな水溜まりが支配するグラウンドの様子に笑みを浮かべながら、腰ほどもない高さの柵に足を掛けた。恐怖はとうに消えて、君とのキスを待つ、着地へ。

 グラスの水は、グラウンドの水溜まりになったから、成木の恋は実るのだ。

 おめでとう。


 成木の席がまだ埋まらないことに違和感を感じながら、平良は目の前の黒板を追う。

 すると刹那だけ、平良の教室が影に染まった。

「やけに速い飛行機だったな」

 最期に思うことは、これくらいだった。

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