第48話 仄明かり①

「千影さまを、人間に……?」


 戸惑う明里に、“巫女”は頷いた。


「まぼろしという神秘が幻神げんしんさまである所以ゆえん。その神性を殺して。殺しきって。そうして残った部分、それが『千影』という存在。人間である明里と契りを交わせば、神性はすべて消え去るはずです。神殺しの言霊だけでは足りない。あなたの血、あなたの身すべてで幻神さまを殺してください」

「私が……幻神さまを殺す……?」


 明里は身を震わせ、歪んでいく千影を見た。

 清治せいじがその身体を支えてはいたが、過去の写し身の記憶が混ざり、時折抑えきれないほど激しく暴れる。


「明里、あなたの神殺しの力は元から備わっていたものではない。そうできたから、そうなったお力。ただの錆刀さびがたなでも、神を斬り、あやかしを斬り、殺してしまった刀はもうただの錆刀とは言えないでしょう? 一度できたことは二度できたっておかしくはない。繰り返せばそれだけ、精度も上がっていく。だから、幻神さまの神性を削ぎ続けたあなたの言葉は、蝕神しょくがみさまに届くまでに至ったのです。──そして、あなたはもうひとつ、神殺しの他に、してくださったことがあります」


 “巫女”は蒼色の瞳で、明里を見据えた。


「──です。あなたは幾度も、千切れそうな幻神さまを引き留め、結び直してくださった。神殺しよりもずっと意味のある力。どうか幻神さまを殺して、千影さまを結び直してください」


 明里が千影にしてきたこと。

 “千冬”の写し身を壊した後、『千影』の名前を与えた。

 使役しえきという歪んだ絆の結び方を拒絶し、心を通わせた。

 ふきの赤子、ひいらぎを助けてひん死の重傷を負った千影を言葉で呼び戻した。

 

「……力なんて、そんなすごいこと、していません……私はもう二度と、とりこぼしたくなかっただけで……千冬のときのように、大事なことを見逃したくなかっただけです。後悔したくなかったから」


 明里は俯き自らの無力を責めたが、“巫女”は微笑んだ。


「それがとても大切なのです。よく見て、よく考えて──声をかけ続けた。結局はそれだけ。異能も神力も関係がない。あなたのそのお気持ちが、ずっと幻神さまをこの地に引き留め続けている」


 “巫女”はすっと右手を伸ばして、千影の額に指を当てた。

 火が落ちたように千影の意識が途切れる。


「目眩ましです。幻神さまはあなたを傷つけた事実に動揺して、自らを保つのが難しくなっています。これで多少は落ち着かれるかと……気休め程度ですが」


 千影はぐったりと清治に身を預ける。ふきにしきも心配して近くに寄ってきた。

 “巫女”は千影を見つめる多くの顔を見回し、


「……『千影』という名はいみなではなかった。隠されていなかった。今までの写し身はそのときの贄だけが作り上げたゆめまぼろし。だから贄が死ねば、すぐに写し身は解かれてしまった。けれど、この村にはあなたの他にも千影さまを認識する者が大勢いた。それが今もまだ千影さまを繋いでいる」


 清治が千影に声をかける。錦が不安そうに様子を窺う。蕗が抱えた柊は、千影に向かって手を伸ばして、その小さな指で千影の手を握っていた。


「……でも、それも夜が来るまで。闇夜が来て、千影さまのお身体が暗闇に呑まれれば、輪郭なんて分からなくなってしまう。そうなれば、彼は自分のカタチを見失ってしまう」


 雪雲は空を覆い、時刻は夕暮れ。冬の長い夜は、もうすぐそこまできている。


「夜が来る前にどうか、神殺しを。あなたの言葉、あなたの身体で──契りを交わしてください。再び目が覚めた時、まぼろしであるか、千影さまであるか。神様に戻るのか、人間になるのか。私はあなたの声ならきっと、千影さまに届くと信じています」


 「……あなたにとっては酷なことかもしれませんが」と“巫女”は目を伏せた。かろうじて千影の輪郭を保ってはいるが、刻一刻こくいっこくと見知らぬ誰かになる千影と、幽鬼ゆうきとも言える異形と、契りを交わせというのは。それはあまりにも──


「千影さまっ……! 大丈夫だって、私が助けてあげられるってっ……よかった、よかった……!」


 けれども、明里は迷いなく両手で千影の顔を包みこんだ。瓶子へいしの破片で切った血が、千影の頬に線を引く。いくつもの涙が落ちる。


「おうちに帰りましょう、約束を果たしましょう。神様じゃなくていいから、千冬じゃなくていいから、ずっと私の、そばにいてください」


 影の塊を抱きしめて、嬉しそうに涙をこぼす明里を見つめ、“巫女”はもう何も言わなかった。





***


 村人に送ってもらい、明里は千影を連れて家に帰った。

 雪は止む気配を見せず、しんしんと降り積もっている。

 禍いの神が訪れた喧騒も、年の瀬のにぎわいもどこか遠くに感じるような、静かな夕暮れだった。

 明里は囲炉裏に火をつけ、燭台しょくだいにも明かりを灯す。

 薄暗い室内がほんのりと暖かな色に染まる。

 いつもと変わらない二人きりの家。


「千影さま。私の声、聞こえていますか?」


 返事はなかった。

 瞳を閉じ青ざめた顔。今にも溶けてしまいそうな朧げな輪郭。

 寝所に横たわった千影に明里は唇を合わせた。ゆっくりと、優しく。熱を移すように。

 

「千影さま、ねえ、起きて、千影さま」


 名前を呼ぶと、千影の輪郭が形を取り戻すので、何度も何度も口に出す。

 瞼に、頬に、鼻筋に、口づけの雨を落とす。その造形をひとつひとつ確かめる。


「……あんなに約束したのに、寝たままなんてひどい、です」


 なにひとつ取りこぼさないように。唇で、手で、肌でたどっていく。

 その目が好き。明里を視界に捉えると優しく細められる眼差しが。

 その手が好き。女性的で誰かを痛めることに慣れていない手が。

 黒髪は出会った頃より伸びていて、耳には翡翠ひすいの耳飾りがふんわり揺れる。

 装飾品は魔除けとも言われているけれど、もっと単純な理由もある。

 自分を魅せるためのもの、自分を彩るためのもの。

 自分自身に気づいてほしいという、言葉にならない千影の願い。


「ねえ、起きて、起きてください。あなたのこと、ちゃんと見ていますから」


 衣の上からではもどかしくて水干の緒を解き、襟元をくつろげた。

 左頬から、左肩、左腕、左手のひび割れの線をなぞる。

 赤子を助けるために負った傷跡。

 その傷跡が千冬との決定的な乖離。写し身ではない、千影自身の証だった。

 聞きかじりの睦言むつごとの情報を総動員して、明里は千影に触れ続ける。


「千影さま、答えて」


 でも、やっぱりうまく、いかなくて。


「答えて。私のこと、ひとりぼっちにしないで」


 どうしていいか、分からなくて。


「あなたが私に会いに来たんじゃないですか、あなたが名付けてくれって言ったんじゃないですか。あなたが、好きだって、言ったんじゃないですか」


 ついには明里はぽろぽろ泣きだした。

 祟り神に挑むことも、自らが化け物に変わることもなにも怖くないけれど。千影がいなくなることだけは耐えられない。


「伴侶だって言うのなら、私のことを、抱きしめて。そんなに不安に思うのなら、ちゃんとあなたのものにして」


 明里は千影の胸に抱き着き、大粒の涙をこぼした。そうしないと、今にも明里の手から零れ落ちてしまいそうだったから。


「神様なんていらない。千冬じゃなくたっていい。千影さま、あなただけが好きなの」


 それは神殺しの言霊でもあり、結びの言霊でもあった。

 自然と出てきた想いの言葉。

 波紋のように空気を震わせ、燭台の灯りを揺らした。

 灯りに照らされた千影の人影が、色濃く映る。

 うっすらと、千影の瞼が開いた。


「──あ、カり」


 雑音だらけの声が、確かに明里の名前を呼んだ。


「手を、」


 左手が明里に向かって伸びる。明里はとっさに、その左手を掴んだ。


「もっト、深ク、」

「千影さまっ……」

「もっと、強く、掴んで」


 明里が千影の左手を強く握る。千影は明里の手のひらに爪を立てた。かさぶたになりかけていた切り口を抉る。


「……っ」


 じくりと傷口が痛み、明里は唇を噛み締めた。

 血に濡れたお互いの小指をからめる。

 指切りした小指に、赤い血が伝う。赤い糸のように結ばれる。


「……繋いでいて、くれ。これなら、どうにか意識を保っていられる、から」

「千影さま……」


 血の穢れで千影は苦しそうにうめいたが、心配する明里を制した。


「……せっかく、お前と契りを交わせるのに、意識を失っているなんて、そんな惜しいことできるか」


 千影は額に汗を流しながら苦笑した。左手は指切りしたまま。右手で明里を抱きしめて、その身を起こした。着崩れした衣がずり落ち、肌がぴったりとくっつく。


「ちゃんと、伝わったよ。明里の声も。お前の覚束ない愛撫も」


 明里は途端に顔を真っ赤にし、


「は、初めてだって言ったじゃないですか! お、起きてたなら早く言ってください。もう、何回心配させれば気が済むの……」

「ごめん、なかなか身体が動かなくて、それにすごく嬉しかったし、可愛かったから」


 湯気の出そうな明里を見て、千影は微笑み。明里の首に残る自らの指の痕を見て、痛ましそうに目を伏せた。


「……ごめん、たくさん無茶させて。苦しかったよな」


 明里は揺れる瞳を見つめ返した。蝕神しょくがみの穢れに侵されていたとしても、明里に吐露とろした嫉妬も孤独も本音だったはずだ。


「……はい、でもきっと、千影さまも同じくらい苦しかったですよね」

「……明里」


 名前を呼ばれた瞬間、明里の身は床に押し付けられていた。

 千影に勢いよく押し倒されて、夜着を剥がれる。

 熱を乞う瞳が明里と交わる。

 唇に噛みつかれ、口内を貪られて、明里は酩酊する。

 中に中に探るように。奥に奥に入り込むように。激しい熱情。

 明里は胸が苦しくなって、千影にしがみついた。

 布地が邪魔だ。肌の皮すら煩わしい。

 もっと直に、もっと深く、えにしを結ばないと切れてしまう。

 必死にお互いの熱を分け合い、奪い合った。


 痛みも、快楽も、愛おしさも、混ぜ合わされて、ひとつになる。

 身体を合わせる。肌を重ねる。まじわる。神様から人間へ、一線を越える。


「……明里、明里、お前のすべてで、俺を穢してくれ。俺を、決して離さないでくれ」


 神様の右目が蒼から黒へ、点滅を繰り返している。

 身を裂かれ、内側に入り込まれて、痛みに喘ぎながら、明里は自然と笑みを浮かべていた。

 ──これで最後。

 器を与え、名を与え、恋に落とし、血を通わせ。契りを交わした。

 これでもう、この人は明里の元から去ることはない。そういう予感がする。


「千影さまは、私のために来てくれた、私だけの神様。私以外のための誰かになんてならないで」


 あとは無我夢中で、いつしか小指の結びは解かれていたが、そのころにはもう、指切りをする必要もない契りが結ばれていた。

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