第41話 影身


 人間の真似事をして。

 いろいろ与えてはみたものの、腕の中の生き物は──赤子は回復することはなく。

 事切れるのが分かって、もうだめだというのが分かって。


(他に人間が与えていたもの‥‥授けていたもの……)


 水辺のほとりで、おろおろとひとりで涙をこぼしていた。


(ああ、そうだ、名前、名前だ)


 でも、その方法が分からない。人間の、赤子の名付け方なんて、知らない。

 赤子が、最後の吐息を吐いた。もう死ぬ。死んでしまう。その前に、せめて。


(あ、『名前』ならあった。……わたしが、持っていた)


 そうして、無力で愚かな神様は、一番大事なものを手放してしまった。


………。


「……ここは」

「おや、お目覚めかな?」


 ずいぶんと古い、懐かしい夢を見ていた。

 今の自分のカタチがなんなのか。今の自分は誰だったか。一瞬分からなくなる。

 視界が光に馴染むと、左目がずきりと痛んだ。その痛みで思い出す。ひび割れた左半身の傷は深く、少し身動きするだけで身体が砕け散ってしまいそうだった。


「身体の具合はどうかな? 幻神さま……いや、千影さんかな」

「……お前、誰だ」


 痛みをやりすごすと、そこは見慣れた村の社務所の座敷。夜着を着せられ千影は布団の上に横たえられていた。

 目の前には中年の男が薬研やげんで薬草をすりつぶしていた。この村の人間ではない。柿渋色かきしぶいろ作務衣さむえを着て、ざんばらな黒髪を頭の後ろで束ねている。


「私は薬師の乙木オトギといいます。この辺りのいくつかの集落を渡り歩いて、医師の真似事をしている。今日はこの村に頼まれて、君を診に来ただけだよ」

 

 辺りには薬草の匂いがした。解熱剤や鎮痛剤、止血剤。漢方。


「身体を温めることが効果があるのなら、もっと人間と同じ治療をすればいいんじゃないかって頼まれてね。今こうして話せるのなら、正解だったってことかな」


 千影はぼんやりと思い出す。

 朦朧としていて、よく覚えていないが、明里や清治、巫女たちが何度も声をかけて身体を温めてくれていたような気がする。


「それにしても驚いた。この村に千冬くんそっくりの神様がいるって聞いていたけど、本当だったんだね」

「……千冬を知っているのか」

「うんまあ、昔、千冬くんのお母さんが身体を病んでいたときにね。何度か通っていたよ。気がかりだったのはお母さんに振り回されていた彼のほうだったけど、悪い予感は当たるものだ」


 死に目には会えなかった、と乙木オトギは顔を下げた。

 千影が黙っていると、乙木は千影の右手を取り、脈を測った。


「……少し脈が弱いかな、どこか痛むところはあるかい?」


 千影は辺りに散らばった薬草を見まわして、怪訝そうにした。


「有り難いが、これはただの薬草だろう? 俺に効くのか」

「さあ、私も神様を診たことはないからねえ。でも、痛いところは言ってくれないと分からないからね」


 乙木はまるで子どもの看病をするように、優しく千影を見つめていた。


「……耐えていれば、心も身体も痛みに慣れて鈍感になってしまうから。ちゃんと言って欲しいな。千冬くんのようにならないように」

「千冬はどこか身体の調子が、悪かったのか?」


 千影が驚いて尋ねると、乙木は肩をすくめた。


「いいや? そんなことはなかったけど、あの子は隠すのがうまいから、患っていたのかすらも分からなかったよ。それが一番悲しいことだったけどね」


 千影は乙木の眼差しから察する。

 この薬師も、明里や清治と同じで、きっと千冬に悔いがあるのだ。


 千影は顔をそらした。

 千冬がもらうはずだった労わりをもらうのは、居心地が悪かった。重ねられるのは、もう嫌なのだけれど。千冬は間違いなく、今の千影を作った土台でもある。労わりをもらうなら、千冬に対する悔いも、自分がもらわねば。


「‥‥傷が塞がり切っていなくて、左腕が痛む。熱も少し出ていると思う。鎮痛剤か解熱剤をもらえると助かる」


 俺は少し眠る、と千影が呟くと、乙木は目を丸くしたあと、微笑んだ。


「……そうか。ありがとう。作っておくよ。安心しておやすみ」


 子どもに言い聞かせるようにぽんぽん、と布団を叩いた。

 千影は、む、と顔を顰め、


「子ども扱いしないでもらいたい。俺は一応神なので、お前よりは長生きなのだが」

「ああ、ごめんね、ちゃんと言ってもらえると嬉しくて。でも君も、中身は千冬くんとたいして変わらない感じがするよ」


 千影は一層不貞腐れて、「やめてくれ」とそっぽを向いた。





 結果的に、人間に行う治療は功を奏した。


 乙木が数回診断するうちに、けがれのぶり返しの原因は、傷口が開いて自らの血に冒されていると分かったから。だから、まず、きちんと止血を施してから、湯殿で穢れを落とす。湯につかれば体力を消耗するから滋養のあるものを食べる。血を流した分だけ血の巡りを良くする。


 血の穢れで苦しんでいるのに、貧血を起こさないよう血を増やすための処置を行うのは不思議な矛盾だったが、治療と禊の手順さえ間違えねば、千影の回復は早かった。

 千影は食事や禊以外はほとんど寝入っていたが、顔色はよくなり、心音も確かなものに落ち着いた。



 そうして、十二月の中ごろ、ある冬の日の朝。

 それはちょうど、ふきと赤子の産後のみが明けるのと同時に。


「明里、幻神さまの容態が落ち着きました。意識もはっきりしていらっしゃいます」


 社のくりやで粥を作っていた明里は、巫女のその言葉を聞いて、食器を取り落としかけた。


「明里のことをお呼びになられています。どうぞ顔を見せてあげてくださいませ」


 巫女に礼を言って明里が慌てて駆け出すと「あ、でも」と巫女が声をあげた。

 不審に思った明里が、足を止める。巫女は、なんだかものすごく気まずそうに呟いた。


「いえ、あの、大変言いにくいのですが───‥‥」


***


「千影さま……!」


 明里が息を切らせて、襖を開ける。

 社務所の座敷。よく日の当たる縁側の部屋で、まだ布団の中で休んではいたが。

 千影は数十日ぶりに、身体を起こして、明里に微笑みかけた。


「明里、心配かけてすまなかったな。もう大丈夫だ」


 その声も、その笑顔もなんだか久しぶりで。喉の奥がつまって、胸が苦しくなって、両腕を広げて飛びついた。


「千影さま、よかった、元気になって、よかった…う、うあぁんっ……」


 明里の胸に頭を押しつけられて、千影は目を白黒させていたが、おずおずとその背に手を回した。

 堰を切ったように零れ落ちる涙が、千影の頬を濡らす。

 その涙を、千影は眩しそうに見ていた。


「わたし、もうどうしようかと、もう本当に大丈夫ですか? どこか痛いところはないですか?」


 明里が一度身を離して、その顔を見る。左上半身のひび割れた傷は塞がってはいたが、消えない傷跡になってくっきりと刻まれていた。


「千影さま、その左目……」

「ああ、」


 千影の左目は、濡羽色ぬればいろに変わっていた。水底のような青色でも、異形の金色でもなく、明里と同じ、人間と同じ黒色。


「見えないわけではない。右目と視界がずれている感じがして、まだ覚束ないが」

「……やっぱり血に触ったから? 穢れがまだ……」


 明里は心配そうに目を伏せたが、千影は「いいや、」明るく言った。


「逆だな、

「え?」

「死の不浄やただの血であるならば、おそらくは無理だったろうけれど、俺が触れたのは出産の血。普通の血とは少し違う」


 そうして、千影は自分の左目を撫でた。その左腕にも、くっきりと傷跡は残されている。


「産まれる瞬間に誰しも触れる血。赤子の赤は血のこと、そして『赤』とは活力の証。赤子はこの世でもっとも生命力の強い生き物だからな。産声が上がった瞬間に、その生命力が俺のほうにも流れてきた。──砕け散るはずの俺をつなぎ留めた。割れた破片を繋ぐのりのような役割をしたといえばいいのか。とはいっても血は血だから、少し拒絶反応が出たけれど」


 『忌屋いみや』であり、『産屋うぶや』。真逆の意味でありながら、同じ場所を指す言葉。

 死にも生にもどちらにも振れやすく。命を落とす者がいる一方、それ以上のたくさんの命が産まれる場所。


「でも、血に触れて神性が落ちたら、幽鬼ゆうきになるって巫女さまが……」

「確かに俺は神の定義から外れかかっていたけれど、だからと言って幽鬼の定義にも当てはまっていないだろ」


 え? と明里は首を傾げた。千影は苦笑した。


幽鬼ゆうき、──神の亡霊、黒いもや、『自分が何者かも分からず揺蕩うモノ』。そうなるには、いささかがつきすぎたな。俺はこの地のものを食べすぎたし、地に足をつけすぎたし、なにより『千影』という名前もあるし」


 千影は明里を見た。さかずきを交わした、自分の伴侶を。


「人間と同じ食べ物を食べて、人間と同じように住まい、人間と──お前と盃を交わしていたら、それは亡霊や幽鬼よりずっと『人間』のほうが近くもなる」


 千影は愛おし気に明里の額にこつり、と自分の額を合わせた。


いみながないから幽鬼になる。けれど、今の俺には名前がある。俺を形作ったのはお前だからな。お前が俺を離さない限り、そんな簡単に解けはしないよ」

「じゃあ、今の千影さまは……」

「半身が人間で、半身が神……と言ったところか。もしかしたら、神気はお前のほうが──」


 明里が首を傾げたが、「いや、」と千影は口をつぐんだ。


「傷のつかなかった身体に、傷がついた事実は覆らない。俺はもう、刃物で刺されば簡単に血を流す。数百年間、割れなかった神鏡がひび割れたら、それはもうただの古ぼけた鏡だろう? そういう意味では確かに俺に神性はほとんど残ってはいない」

「……千影さま」

「そんな顔するな。傷つけられたら血を流す。そんなことは明里、お前と同じ。人間と同じになっただけだ」


 そうして千影は微笑んだ。優しいばかりの笑顔だった。

 ぽろぽろと明里は涙を流して、その身体を抱きしめた。


「……だったら、もっと気をつけてください。もっと自分を、大事にして。人間は呆気なく死ぬんですから」


 千影が無くしたものを思えば、やっぱり胸は痛んだ。けれど、戻ってきてくれた。

 だからこそ、もう二度と損なわれたりしないように。ちゃんと楔を打ち込む。


「あなたは、私の伴侶でしょう? あなた一人の問題じゃないんです。誰かを助けたいと思うこと、やめろとはいいませんから、せめて相談してください。あなたがいなくなってしまったら、私はもう絶対に立ち直れません。きっとずっと独りです」


 涙で潤んだ瞳で明里は睨みつける。


「……わたし、あなたが死んだら、後追いしますから」


 その仄暗さと本気さに、千影は言葉を無くして、目を丸くさせた。


「……お前、やっぱり重いな。でも……うん、そうだよな、明里は。ごめん」

「し、知っていたでしょ。私は重いんです。それなのに、わざわざ私に妻問いしたのはあなたのほうですから、今更嫌だって言っても聞きませ──」


「──ああ、あかり」


 千影が唐突に明里を搔き抱いた。

 骨が軋むほど、強く。


「俺のこと、もっと縛って──」


 息ができないほど、激しく。


「──もっと、繋いでくれ、もっともっと」

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