第39話 閃光


 水の中に、どぼん、と落ちる音。


 小さな身体と甲高い悲鳴。


 ぼこぼこと、浮かぶ、水の泡。


 喧しくて喧しくてたまらなかったのに、もう二度と腕の中のその生き物が泣き声をあげないのかと思ったら。


 なぜだか世界が真っ暗になった気がした。



***


 ヒビ割れた身体から大量の血を流し続ける千影を見て、明里も、産婆も──産屋うぶやからこちらを窺っていた女たちも言葉を無くしていた。

 千影はよろめきながらも、呆然としている産婆に声をかけた。


「……早く、赤子を中へ」


 産婆はうろたえたが、産声を上げ続ける赤子を抱え、すぐに小屋の中に戻った。

 ふきが驚き叫ぶ声がする。明里はふらふらと、千影に手を伸ばした。


「千影さま、ち、血が、身体が、どうして」

「──明里、いけません! 幻神さまに触らないでください!」


 びくり、と明里は肩を震わせた。血相を変えて駆け付けた巫女が、明里のそばから千影を引き離す。


「あなたも月の障り中です! 触れてはいけません!」


 巫女は千影の身体を支え、肩を貸した。ぐったりと千影は目を閉じて、巫女に身体を預ける。

 亀裂で潰れた左目からは、だくだくと血が流れ続けていた。


「なんてことを、急ぎお清めを」

「……み、巫女さま、千影さまはどうしたのですか? どうして血が」


 手を貸すなと言われ、もどかしく明里は青ざめる。巫女は俯いて目を合わせなかった。


「……今はなんとも。ともかくお清めしなくては。明里はこのまま産屋でお待ちください。今あなたがいては逆効果です」


 そのあと宮司もやってきて、千影は連れていかれた。

 明里は食い下がったが、「これ以上幻神さまを悪化させたくないのなら、耐えてください」と何度も言われ、ただ見送るしかできなかった。

 明里の足元には千影の流した血液が血だまりになっている。動悸が止まらない。


「明里、冷えるから早く中に。何があったか分からないけど、あんたまで倒れちゃうよ」


 夜の寒空の下、その場から微動だにしない明里を見かねて、にしきが声をかける。「千影さんに風邪を引かすなって言われてるんだから」と優しく促さられ、ようやく明里は足を動かすことができた。


 ふきも赤子もひとまずは命に別状はないという。それだけは、救いではあったが。

 明里は蕗のいる出産部屋から、隣の月の障り部屋に移った。礼を言う蕗の声も、泣き続ける赤子の声も、耳に入らなくて。けれど、死の淵を彷徨って戻ってきた我が子を抱きしめる蕗の邪魔もしたくなくて、一人震える肩を抱いていた。


 「俺の身体はそんな簡単に傷はつけられない」と、ついこの間、千影は言っていたのに。身体に浮かんだ無数のヒビ割れ。痛ましい血の傷跡。その姿が頭から離れない。周りの女たちも「少し休んだほうが」と労わってくれたが、明里は青ざめながら、身を縮こまらせることしかできなかった。


(どうしよう、どうしよう、でも月の障り中に、会いに行ったらだめって、でも、でも)


 千影の生気のない青白い顏は見覚えがある。

 川に打ちあげられた千冬の遺体。あの死に顔に、そっくりだった。


(いや、いやだ……もう、二度と、嫌だ、あんなこと)


 昨日まで元気だったはずの想い人が、冷たくなって帰ってくること。

 その経験はもう、痛いほど知っている。



 一睡もできず、明け方近く皆が寝静まったころ明里はとうとう産屋うぶやを抜け出した。

 せめて、一目。一目だけでも無事が確認できれば。

 夜明け前は一層暗く、月の光も隠れてしまってはいたが、何故か夜道に迷うことはなかった。夜目が利く。雑木林の中を走っているというに、足を取られることもない。それどころか、注意深く千影の気配を追えば、居場所までたどれる気がした。

 そうして、いつの間にかたどり着いていた、社の裏手。鎮守ちんじゅもりに入る寸前に、凛とした声が明里を制した。


「明里、お待ちください」


 巫女が鎮守の杜の入り口から姿を現した。やはり、千影は今、この先にいるのだろうか。


「月の障り中に、神域に足を踏み入れてはいけません。‥‥御神体とも言えるお方があんな状態では、もはや意味のないことかもしれませんが」

「巫女さま、千影さまは? 大丈夫なんですか? 今どちらに」

「幻神さまは今、清流にてみそぎをうけていらっしゃいます。‥‥けれどお清めできるかどうか。血の穢れを──それも人間の血に触れてしまっては」


 巫女の顔色は疲労が滲んでいたが、明里は巫女の肩を指が食い込むくらい強く掴んだ。


「千影さまは蕗の赤子を助けてくれただけです。そ、そんなにいけなかったんですか? あんなに血だらけになるくらい、だめなことだったんですか?」


 震える明里を見て、巫女はぽつりと呟いた。


「明里、あの方にはいみながないのです」

「いみな……?」


 聞きなれない単語が出て、明里は眉をひそめた。巫女は淡々と説明した。


「……いみなというのは、高位の存在の持つ実名、本名のことです。その者の本質を表し、固定する名前。諱を知れば霊的に結びつき、呪うことすらできるので、親や伴侶以外には決して明かさない隠された名前。神様だけではなく、貴族や武家の人間もお持ちになっていられます」


 聞いたことはあるが、明里にはよく分からなかった。地に生きるただの庶民の、村娘の明里からしたらそんな名前あったところで、使い道もない。


「清浄な神々が穢れをため込めば通常、祟り神や、邪神、荒神あらがみと呼ばれるものに変生するのですが、それでも神様は神様なのです。それは神様としてのいみなを──本名を持っているから、いくらその性質が変わろうと神である核は変わらない」


 けれど、と巫女は俯いた。


「幻神さまは十二柱で唯一、神としての諱を、本名を持っておられなかった。いえ、──持っておられたのに失くしてしまわれたのです」

「失くした…?」


 諱を、本名を失くす? そんなことがあるのか? 訳が分からないけれど、ふと脳裏に浮かぶ声があった。


 まだ『千影』ではない頃の幻神の声。真夏の日差し。清流の川辺。

 今はもう懐かしい思い出にすらなりつつある、記憶。


『本来の“俺”に名はない。幻神というのはただの神名で、言うなれば役職名のようなものだ。現世にカタチを留めるには、器がいる。“千冬”の器が壊れるなら、新しい器を用意するしかないからな。だから、俺自身を元にした新しい器が欲しい』


 名を乞われたときに、確かにそう、神様は言っていた。

 巫女は痛ましげな顔をした。常に冷静な彼女らしくもない表情だった。


「……諱のない幻神さまは、神性が落ちて神様である“存在の定義”が揺らいでしまったら、祟り神になることも邪神になることもできず、その存在は幽鬼ゆうき。人間でもあやかしでも神でもない。ただの名のない化け物、神の亡霊、黒いもや、自分が何者かも分からず揺蕩うモノ、そういうものなってしまいます」


 明里は目を見開いた。そんな大事なこと、誰からも一言も聞いていない。


「……本来であるならば、赤子の血に触れた瞬間に神性は底をつき、幻神さまは砕け散ってもおかしくなかったのです。それほど穢れがたまっておいででした。ですが、カタチを保ったまま血を流された。それがどういうことなのか、私にも分からないのです」


 巫女はうなだれた。ずっとここまで、明里を慰め、助言し、導いてきてくれた巫女が初めて途方に暮れていた。


「だから、もし、幻神さまがこのまま持たないのであれば……そのときは明里、お願いがあります」


 嫌な予感がした。その先は聞きたくなかったのに、耳を塞ぐ前に巫女は言った。


「──『神殺し』を」


 は、と明里は息を呑んだ。


「完全に砕け散る前に、神殺しの言霊を使ってください。贄のあなたが消えろというだけで結びは解ける。そうすれば『神様』のまま死ぬことができる。私はあの方を幽鬼ゆうきになんて堕としたくはないのです」


 何を言っているか分からない。言うに事欠いて、明里に殺せというのか。千影を、あの無垢で純粋で不器用な、あの優しい人を。


「明里、おつらいでしょうが、幻神さまを想うのなら」

「嫌です」


 頭で考えるより先に、拒絶の言葉が出た。

 

「──いやです!」


 朝日が木々の隙間から閃光のように光り、辺り一面を照らした。ざわざわと枯れ木が凍て風に吹かれて舞い散る。明里は怒りのあまりに肩を震わせて、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。


「そ、存在の定義ってなんですか? 千影さまは今もまだここにいる、定義なんてそれで充分です。神様じゃなくなろうが幽鬼になろうが、千影さまは千影さまです。私の大事な伴侶です!」


 ぞわりと、朝日に照らされた明里の影が蛇のように伸びる。黒髪がざわざわと逆立つ。執着の念。


いみななんてなくったって、ちゃんと今は名前だってあります。私が名付けたんだからっ……! 千影さまの存在の定義なんて──証明なんて、私が何回だってします。何回だって繋ぎとめます!」


 名が欲しいなら与えよう。結びが欲しいなら祝言をあげよう。繋がりが欲しいなら盃を交わそう。

 何度でも。何度でも。

 二度と解けたりしないように。


「明里……」


 ああそうだ。自分がくさびなればいい。簡単なことだ。あのふわふわしている人の中に入り込んで、もう二度と揺らぐことのない、楔を打ち込めばいい。そう思ったら、震えが止まった。頭が冷えたら、今度は別の怒りが湧いて出てきた。


「……あの人、赤子に触れたら危ないって分かっていて、触ったんですね。いくら千影さまのこと見逃さないように頑張ったって、い、言ってくれなきゃ分からないこともあるのに」


 そうして、ぼろぼろと明里は大粒の涙をこぼした。怒りも悲しみもいろんな感情がぐちゃぐちゃになり、とにかく悔しくてたまらなかった。


「私、好きな人を──千影さまを傷つける人は許しません。それが本人だからって、絶対に許さないから」

「明里……」


 しゃくりあげながら、怒りの治まらない明里を見て、巫女は呆気に取られていた。

 

「……あの、明里、おそらく幻神さまは神様を呼ぶ声に引かれて、ただ明里や赤子を助けたかっただけですので、深く考えてはいなかったものと。あまりお叱りにならないよう……」

「……深く考えていないのが問題なんだと思います。そんなの、どうだっていいって言ったようなものです。私のことも、自分のことも。助けてくれたのは、本当に嬉しいけど、それで千影さまが傷ついたら意味がないです。せめて相談くらい、してほしい……いえ、これは本人に言います」


 明里は涙をぬぐって、息を整えた。なかなか、涙は治まらなかったけれど、大きく息を吸い込み。


「巫女さま、千影さまはどうしたら、助かるんですか。私ができることなら、なんでもします」

「‥‥こればっかりはどうにも、もちろん禊や祓いで宮司も村長も奔走しておりますが、お神酒や清めの塩も足りなくて」


 でも、と巫女は考え込んだ。


「きっと、一番大事なのは、この地に留まろうとするご本人の強い意志だと、私もそう思います」


 明里は駆け出す。鎮守の杜の入り口に、迷わず進む。

 神域に。禁足地きんそくちに。

 血を流したまま。血を纏ったまま。足を踏み入れた。境界を越えた。

 

 杜の清流。『千影』の名をつけた場所。場所なら分かる。もう見える。たどれる。

 巫女は今度は明里を止めず、ただその姿を見送った。






 清流の岩座に、身を預けながら。

 千影はぼんやりと微睡んでいた。朝の二度寝のように、昼のうたたねのように。気持ちがいい。

 このまま意識を水に溶かしてしまえたら、きっと楽だ。

 見通せなくなった目も、重くなった身体も、しがらみだらけの人間関係からも解放される。

 地に落ちれば落ちるほど、贄に縛られれば縛られるほど、できていたことができなくなる。今まで考えなくてもよかったことを、考えねばいけなくなる。

 苦痛だとは思っていない。けれど、煩わしいと思うことは、確かにあって。

 きっと、このまま心地の良い眠りに委ねてしまえば、『感情』などという不安定なものにも振り回されなくなる。


 それは、甘い誘惑のようだった。うっかり、その身をゆだねてしまいたくなるくらい。


「──千影さま!!」


 けれど、その声に、また、引き留められる。

 何度でも、何度でも。引きずり戻される。


「わたし、千影さまのことが好きです!!」


 ──ああ、本当にひどい贄に捕まった。

 これが恋だというのなら、まさしく呪いと相違ない。


「し、しっかりして! 約束したでしょう! 私のこと本当の妻にしてくれるって、伴侶にしてくれるって言ったじゃないですか……!」


 子供のような泣き声。どうしてか、最初からこの声を無視することができなかった。


「私、あなたの本当の妻になりたい、だから、元気になったら、ちゃんと奥さんにして!!」


 清流の淵、砂利の上で明里は大泣きしていた。今にも抱き着きたいのを必死で堪えているから、その場で感情の制御できなくなって、ひたすら千影の名前を呼んでいた。何度も、何度も。

 千影はうっすらと目を開けて、笑った。


「……こんなの、死んでも死にきれないな」

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