第37話 暗闇

 月の障りで流す血なんて、これに比べたらなんて生易しいのだろう。



 明里が産屋うぶやに移ってすぐに、ふきも身を移してきた。


 産屋は六畳二間ほどで、月の障りの娘専用の部屋と、出産用の部屋に分けられていた。襖戸のみの敷居しかないので、簡単に移動できる。月の障り中の娘は明里含め数人滞在していたが、お産が近いのは村の中ではふきのみだったので、明里はふき側の部屋に移動していた。


「ごめんね明里ちゃん、お母さんも来てくれるはずだったんだけど、弟たちが風邪を引いちゃって」


 布団に横になった蕗は珍しく心もとなさげだった。明里はかまどで温めた石を布にくるみ、蕗が冷えないよう腰の近くにくっつけてやる。


「気にしないで。どうせ月の障り中だもん、一緒にいるよ」

「ありがとう、明里ちゃん……本当にごめんね、いろいろ」


 謝り続ける蕗を見て、明里は首を傾げた。


「なに急に? どうしたの?」

「‥‥ちょっと怖くなってきたから、今のうちに過去の遺恨を清算しとこうかと」


 ええ? と明里は肩をすくめて笑ったが、蕗は掛け布団で顔を隠した。


「幻神さまは許してくれたけど、明里ちゃんはどうなのかなって。子供が産まれると思ったら、昔明里ちゃんにいじわるしてたことも、なんだか後ろめたくなって。なかったことにしたかったから、いろいろ強引なこともしたけど、逆に明里ちゃんを怒らせちゃったね」

「なんだ、結局蕗は自分のためなんだ。変わってないね」


 明里も自分の腹に温石おんじゃくを当てて、膝を抱えた。


「蕗は自分勝手だね」


 蕗は布団の中で呻いたけれど、明里は笑った。笑って話すことができた。


「でも、私もそう。私も自分勝手だったの。許す、許さないじゃなくて、私本当に千冬以外はどうでもよかったから。蕗のいじわるとかあんまり覚えてないんだ」


 千冬がすべてで、そのくせ、千冬に押し付けるばかりの恋をして、なにも見てはいなかった。


「この前、長老ちょうろうさまに呼ばれたとき、千影さまが無理してるのが分かったから声をあげることができたけど──千冬のときも、そうできたら、違ったのかな」


 村長や長老に千冬との祝言を言い渡されたとき、千冬は苦しそうだった。明里はそれが目に入っていて、心の何処かで分かっていて、目をそらした。

 あのとき、「待ってほしい」「千冬の気持ちも考えてほしい」と言えたなら、千冬は少しは明里のことを好きになってくれたのだろうか。


 今はもう分からない。どちらにしろ今となっては夢物語だけれど。

 相手を想っているからといって、望まれていない献身は重荷だったり、迷惑なだけだったりするから。


「……あたしも明里ちゃんもお互い未熟者だったね。でも、いい旦那は捕まえられたよ」


 ふふん、と蕗は笑いながら、布団の中で腹を撫でた。


「そうだね、平太へいたさんいい人だね。長老さまのときも助言してくれたのよ。ありがとう」

「あの人ねーさすが長者さまの息子なだけあって目ざといの。人のことよく見てるのよね」


 蕗は夫を褒められ、照れ隠しのように早口で言った。


「……幻神さまもいい人だと思うよ、あたしも今はそう思う。ていうか、すっごいお人好し」


 明里が目を瞬かせると、「あ、でも本人には言わないでね! なんか腹立つから」と慌てて憎まれ口を叩く。明里は吹き出してしまった。


「明里ちゃんのところにもさ、子どもが出来たら、うちの子と仲良くしてやってね」


 笑う明里を見て、蕗は掛け布団から顔を出し、こそりと呟いた。憑き物が落ちたような無邪気な笑顔だった。


***


 昼過ぎ、それは起きた。


 蕗の陣痛じんつうは突然やってきた。落ち着かない様子でうろうろしていたかと思えば、急に破水はすいした。


 とろり、と蕗から漏れ出した水の吹き溜まりを見て、明里は動揺してしまった。話には聞いていた。錦からも教えてもらっていた。けれど、いざそのときを目の当たりにするのでは──


 蕗は身体を丸めて歯を食いしばっていたが、数分すると少し治まった。

 そのうちに明里は慌てて土間にむしろを引き、藁で作った俵に寄りかからせてやる。

 冷えないように何度も温石を温めてやったが、痛みが出ると寒さなんて感じていないようだった。

 火を焚き、湯を用意し、汗をぬぐってやる。隣部屋の月の障りの娘に頼み、錦を呼んでもらった。


 明里の知らせを聞き、すぐににしきは産婆を連れて産屋にやってきた。村のほとんどの赤子を取り上げている産婆は、白髪で腕も細く老婆と言っていい年齢だったが、蕗の様子を見ては呼吸や姿勢の指示をしていた。少しの焦りもなく、的確に処置をする。にしきも場慣れしているのか、蕗どころか動揺している明里まで気を配られる。「最初はそんなものだよ」とか、「明里も落ち着いて」とか。


「一番大変なのは蕗と赤子だから」


 と、優しく諭され、明里はできるかぎり、気を落ち着かせることに集中した。動悸はなかなか治まらなかったけれど。


 お産は初めてがやはり一番難しい。

 身体の中の狭い道を、割り裂いて突き進んでくる。

 両手に乗るほどの肉の塊が。数時間かけて。


 それがどれほどの痛みなのか。明里には想像すら難しい。自分にもその機能が備わっていることすら信じられないほど。


 数分感覚で陣痛が始まると蕗は悶えるような苦悶の声をあげた。姿勢を保っていられなくて何度もうめく。うごめく。歯を食いしばる。お産の進み具合は産婆や錦が見てくれていたので、明里はひたすら蕗側の世話をしていた。

 世話と言っても声をかけたり、身体を支えてやることくらいでほぼなにもできなかった。赤子が出てくる箇所は怖くて見られなかった、というほうが、きっと正しい。

 うめき声をあげる蕗はいつもの彼女とは全然違って。まるで別の生き物のよう。


 それが日が落ちるまで続いた。産婆が言うにはこれでも順調なのだという。

 これで予定通りであるならば、難産というのは、いったいどういうものなのか。気の遠くなるような激痛の繰り返し。


 どうして産屋が『忌屋いみや』とも呼ばれるのか、ほんの少しだけ理解する。理解できてしまう。

 生命が産まれ落ちる瞬間はあまりにも生々しく、痛々しく、目も耳も鼻にも直接的過ぎるほどの惨状が広がっていた。鼻につく血の匂いと、獣のようなうめき声と、身体を裂いて出てくる新しい命。非日常の特殊な空間に明里は飲まれつつあった。


 本格的な陣痛が始まると、うめき声が悲鳴に変わりだした。イタイイタイ、と言葉になっていればまだいいほうで、意味のない喘ぎ声が漏れる。「頭が出ている」「呼吸をしろ」などと痛がる蕗に産婆は冷静に指示した。

 蕗は天井から釣り下がる力綱ちからづなを持っていられなくなり、その手を明里は握った。

 手加減なしの、信じられない強さだった。折られるのかと、思うほど

 蕗が叫ぶ、短い呼吸が断続的に続く。


「蕗、もう少し、だいじょうぶ、がんばって、蕗、蕗」


 明里はもはや、蕗の名前しか呼ぶことができず。

 ひたすら、蕗の手を握り返していた。そうして、何度目かの、大きないきみのあと。


「産まれた」


 産婆の声がした。

 どっとなにか出た感覚。手の力が抜けて。蕗が、ふ、と下半身に目を向けた。真っ黒な濡れた黒髪が目に入った。赤くて小さな身体。産婆が赤子を掲げた。

 産まれた。その瞬間は意外にあっけなく、ふと見たらそこに赤子がいた。そんな感じだった。


「ああ、よかった、蕗、よかった、よかった」


 明里はほとんど腰を抜かして、へたりこんだ。蕗も涙を浮かべて、息を吸い込み、産婆から赤子を受け取ろうとして──


 なぜか産婆は、そのまま赤子を手渡さなかった。


「ばあさん……?」

「錦、これは、」


 産婆がわざと赤子をむずがらせる。泣かせようとする。泣かない。泣き声があがらない。声がしない。──産声があがらない。


 「……錦、どうしたの?」


 呆然としていた明里すら、様子がおかしいことに気づき声をかける。返事はなかった。錦と産婆は赤子の口を拭ったりしていたがよく分からなかった。


「はぁ……はぁ……え? なに、どうした……の?」


 ぐったりしていた蕗が、身を起こした。赤子のもとに無理に身体を動かそうとしたので、明里が慌てて止めた。


「ダメ、蕗、動いちゃ」

「ねえ、あたしの赤ちゃんは……赤ちゃん、 ねえ、どうしたの? なんで泣かないの?」


 明里は全力て蕗を抱きとめたが、抑えきれない。精魂尽き果てたはずのその身体のどこから、こんな力が出るのかというほど。


「早く抱かせてよ、平太さんとの子よ、あたしの赤ちゃんよ、ねえ、ねえ……ねえってば!」


 静まり返った産屋で、蕗の声だけが響いた。赤子を求めて泣き叫ぶ母親の声だけが。数十時間の激痛に耐え、何度も気を失いかけ、それでも産むために、我が子に会うために、耐え続けたその先に。


 ようやく外の世界に出た赤子から産声が上がらない。


 それがどれほどの絶望か。明里ですら、心臓が潰れそうなのだから、蕗は。十月十日、同じ身体にいた我が子が息をしていなかった蕗は。


「ねえ、ねえ……な、んで? 嘘でしょう? どうして!? なんで泣かないの!?」


 血を流し、髪を振り乱し、取り乱した姿はあまりに痛々しく、とても見ていられなかった。

 蕗の手を握ったまま、明里は声も出せずに蕗を抱きとめていた。


「あたしの赤ちゃん! なんで息してないの、ねえ、ねえ……」


 村から隔絶された女しかいない仮小屋。

 隣部屋の女たちも異変に気付いて襖戸からこちらを窺っている。

 蕗の様子を察して哀れげな目を向けていた。自分たちだって同じ目にあう可能性はあるのだから。その同情、憐憫は本物だった。同じ空間、同じ敷居の中で、息をひそめてすすり泣く者もいた。女たちの共鳴と同調。蕗の嘆きは産屋の中で広がり、それは最もそばにいた明里が一番感じていた。


 悲痛な懇願は蕗のものなのか、明里のものなのか、その場の女たちのものなのか。判別がつかず、渦のように混ぜ合わされ、波紋のように轟いた。


 誰か助けて、誰でもいいから助けて。


 ──助けて、『神様』。

  

 そう、声にならない悲鳴を上げた。

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