第24話 白日

 千冬が亡くなってからのしばらく、記憶が曖昧だ。


 「まだまだ若いのだから相手はいる」とか。

 「明里には未来がある」とか。

 「千冬さんも明里ちゃんの幸せを望んでいるはずだから」とか。


 声をかけてくれる人もいたが、千冬本人ではない、他人からの慰めなんて意味がないと──そう思っていた。


 誰が、何を、声をかけてくれていたかなんて、気づかないまま。


***


 ふきや従姉妹家族は、入れ替わり立ち替わり祝いの品を持ってきた。賑やかな従姉妹家族に会うのも久々で、ふきの明るい声に惹かれて近隣住民も顔を出した。ほとんどが遠巻きに千影と明里を見ているだけだったが、普段は静かな村外れの住民たちは少しばかり騒ぎになった。日暮れになり、蕗が帰ると千影と明里は二人とも息をつく。食事は昼を超えて夕方になってしまった。


 もらった昆布と野菜、餅で、雑煮を作る。


「あ、千影さま、昆布だしを使ったのですが、味は大丈夫ですか?」

「ああ。これは……好き、だな」

「よかった」

 

 わざわざ「好き」かどうか確認する千影を見て、明里は微笑んだ。板敷いたじきの上で雑煮と漬物を並べる。だしを使ったのは久々だったが、気に入ったのか黙々と咀嚼そしゃくしていた。


「あの、ふきがいろいろと失礼なことを言ってすみません」


 従姉妹家族も、近隣の住民も、神様に声をかける者はいなかったが、蕗だけは千影に対して当たりがきつくて、そのたびに冷や汗が出る思いだった。千影は蕗の名前を出すと、む、と顔をしかめた。


「明里にああいう親族がいたとはな。お前は一人で暮らしていたし、今まで碌に顔を見せなかったではないか」

「……親族と言っても正直疎遠で、あんまり馴染みがないんです。だから、こうして親身になってくれるのが少し不思議で」


 有難いんですが、と明里も祝いの雑煮を食べる。蕗からもらった昆布は確かに美味しかった。

 

 明里は流行り病で両親を亡くしたが、身寄りがなかったわけではない。最初のころは、従姉妹家族のもとに世話になっていた。年寄り二人、叔母夫婦に子供三人。長女の蕗は明里の一つ年下で、蕗には二人弟がいた。明里が両親を亡くしたとき、まだ赤子だった。賑やかで明るい、介護と育児に追われた八人家族。その家族の中に明里は居場所を見つけられなかった。従姉妹家族も、両親を亡くしたばかりの明里の心の穴を埋めることができず。そうであるのが自然なように、明里は千冬のもとに通いだした。もともと千冬が好きだったし、おそらく、周りの無言の圧力が働いた。

 

 八人家族が苦労して九人家族になるより、母一人子一人の千冬の家に明里が振り分けられたほうが都合がいい。村が、共同体が、運営しやすい。そういう、声もない、圧力。決して裕福ではない村がやっていく方法。誰も食いっぱぐれない手段。


 一層明里は千冬に依存したし、千冬は声も出せず、潰されていった。


 村も、従姉妹家族も、明里も──千冬も、もちろん分かっている配分だった。だから、なんとなく従姉妹には頼りづらく、従姉妹家族もまた、一度家族の枠から外れた明里にあまり口出ししなかった。贄になったときもすらも。だから、今の蕗の親身さは不思議な気がした。蕗は祝言のとき「嫌ならば逃がしてやる」とまで言ったのだ。


 千影は、ふうんと興味もなさそうに呟いた。


「お前が一度身投げしたと思っているなら、気にかけるのは不思議ではないだろ」

「そう、なんですが」


 それに関しては誤解なので何とも言えない。考え込む明里に、千影は続けた。


「配偶者が、他者と他者の強固な結びの示しであるなら、血縁はその逆だからな」


 え? と明里は顔をあげる。


「血の絆とは、そんな簡単に断ち切れるものではない。むしろ、切りたくても切れない強い繋がりだろう。蕗がお前を気にかけるのは、そんなにおかしいか? 俺にはよく分からないのだが」


 親族なんだろ? と首を傾げる。同一の血を持つ、何世代も前からの。

 そう、言われればその通りなんだが。狭い村のわだかまりとか、後ろめたさとか、気まずさは、やっぱり神様には分からないようだった。分からなくて、いいのかもしれないけれど。

 

「俺には人間の細かな機微きびは分からないが、お前たちは時折、まどろっこしすぎる。引っ掛かることがあるなら直接聞けばいいだろう」


 どうせあの調子なら明日も来る、そう千影が顔をしかめながら言うので、明里はなんだか気が抜けてしまった。言葉にすると、簡単なことのように思えてくる。


「そうですね……そうしてみます。千影さま、おかわりは? まだありますよ」

「……頼む」

 

 空のお椀を手渡され、明里は雑煮をよそいなおした。


 やっぱり、千冬とは全然似ていなくて、けれどそこが、この神様のいいところでもあると、そう思った。



 夜。

 千影とともに片付けや祝い品の保存等に追われていたら、あっという間に夜空に月が煌めいていた。祝言から怒涛の連続だったので明里は目をこする。残りの掃除や家事は明日にして、もう休もう。


 壁に寄りかかり、鈴虫の音に耳を澄ませている千影に明里は声をかけた。


「千影さま、よければ寝間を使ってください。私は囲炉裏のそばで寝ますから」


 この土地は寒冷地なので、奥に風よけの小さな寝室がある。むしろを敷いただけの簡素なものだったが、春や秋ならそれで充分だ。夏は風通しのよい囲炉裏のそばで寝ることもある。真冬になればとても火を焚かねばいられないが、今時期はそれほどの冷え込みではない。幸い宮司から厚手の御衣おんぞを頂戴したので、くるまって寝よう。


「あー……」


 千影はふと、言葉を止めた後。


「別々に寝る? そんなことが許されるわけなかろう」

 

 唐突に声色を変えた。


「え、でも」


 驚き、身を引く明里の腰を抱き寄せ、逃げられないように力を籠める。


「まさか、初夜の一夜で俺が満足したとでも? お前にはまだまだ俺の気をおさめてもらわねば」


 明里はぎくりと強張る。千影の瞳が妖しく金色に光っていた。


「え、だって、社では」

「黙れ」


 明里は言葉を無くした。なんで急に? なにか気に障ることをしただろうか?


「あ、あの、千影さま? きゃっ……」


 怯える明里を横抱きにし、寝間まで運ばれる。筵の上に転がされた明里の上に、千影は伸し掛かった。有無を言わせない力。混乱しながら、名前を呼ぼうとしたら、手で口を塞がれた。いつぞやの棚機たなばたの夜を思い出す。身が震えた。貞操の危機を感じたのもそうだが、やっと少しは通じ合うことができた、とその信頼を一気に崩された気がして怖かった。


「逃げられると思うなよ、贄の娘。──……いや、我が伴侶よ」


 フッと千影が一息すると灯りが落ちた。月の光が入らない寝所。覆いかぶさる影は、異形の目だけが煌々と光る。青ざめる明里の手に、千影は口づけした。


「お前はもう、俺のものだ」


 その目は無感動、無感情だった。明里は涙目になる。どうして、と。何を間違えたのか、と。一瞬よぎる神殺しの言霊。でも、でも。震える明里の耳元に、千影は唇を寄せ──。


「…………村の者が聞き耳を立てている。振る舞え」

 

 ぼそり、と呟いた。

 「ふえ」と間抜けな声が出る。千影は、ん、と目線だけで外を見やる。耳を澄ますと、さわさわと人の気配がした。だんだん状況が呑み込めてきて明里は愕然とした。情事を盗み見たり、夜這いの手引きをすることは若者衆の間では珍しいことではない。娯楽のない村では当たり前の享楽であり、それが分かっていて迎え入れる村娘もいる。けれど、まさか、自分がそういう覗きの対象になるとは、露ほど思わなかった。神様と村娘の仲なんて、恰好の餌食に決まっているのに。


 千影の急変の理由が分かって、安堵したのもつかの間。

 すぐに別の問題が浮上した。


 そのようとは、いったいどのような。


 さすがに明里の様子がおかしいことに気づいたのか。


「……まさか、千冬とはなにも?」

「……しゅ、祝言を、あげるまで、は、だめだって……」


 千冬はその一線だけは超えなかった。千冬の母が亡くなって、喪が明けるまでの一年ほど、明里は千冬と一つ屋根の下で暮らしていた。けれど、夫婦になるまでは、契らない。明里を受け入れない。それは千冬の最後の抵抗だったのだろう。勇気を出して誘おうとも、すげなくあしらわれる哀しさ。想い人に異性として見られていない。その経験は明里の心に影を落としていた。“自分はそういう目で見られない”と一種洗脳じみてすらいた。


「……油断が過ぎるとは思っていたが。なるほど、根が深いな」


 一度溜息をつくと、千影は明里の首元に唇を寄せた。吐息がかかり「ひゃ、」と変な声がでた。


「──愛しい我が伴侶、この日をずっと待ちわびていたぞ」


 声色がまた変わった。響くような声。聞こえるようにわざと言っていると分かっていても、明里はどうしたらいいか分からなかった。金縛りにはあっていない。抵抗できないわけではない。けれど、神様を拒絶したとあっては、仮の祝言を上げたことが台無しになる。どうすることもできず、ぎゅうと目を閉じた。衣擦れの音。千影の唇は明里の肌に触れるか触れないかの接触をしていた。それが、むずがゆくてたまらなかった。


「ち、ちかげさま……」


 思わず名前を呼ぶ。

 滑らかな手で、愛おし気に撫でられる。明里が千冬を誘った時の対応と全然違った。手の平を重ね合わせ、ゆったりと握られると、本当に愛されているよう。蒼色に戻った瞳が、戸惑う明里の瞳と結ばれた。その視線は、なんだかとても、熱っぽかった。情事とはほど遠い。口づけされているわけでも、まして肌を重ねているわけでもない。交わるのはその視線くらいだ。それでも、身にかかる重みが、ぬくもりが、吐息が、明里を酩酊させた。──幻術は使われていない、そのはずなのに。もどかしいほどの触れあいを繰り返して。


 唐突に、千影が声を荒げた。


「──誰ぞ! 神の行為を覗く不敬のやから。これ以上、我が妻の肢体を見るつもりなら、目を潰すぞ!」


 ひゅ、と息を呑む気配。次いで、ばたばたと逃げる足音。


「……行ったか。これで懲りればよいのだが」


 ぱっと重みが退いた。呆気に取られている明里の着崩れした着衣まで直される。


「大丈夫か? 神殺しの言霊を吐かれるのではないかと、ひやひやしたぞ」

「い、いえ……私も迂闊でした」


 力が抜けて動けない。千影は明里に衣をかぶせ、その場にころりと横になる。


「悪いが、しばらくは寝間で共に寝てくれ。別々に休んでいるところを見られるわけにいかんだろう」


 聞き耳を立てられずとも、庶民の民家なんて、いくらでも窺える造りになっている。こくり、と明里は頷くので精一杯。千影は無言で、もう一度明里の髪を撫でた後。すっと背を向け、早々に寝入りだした。


 明里はといえば、まったく寝られる気がしなかった。

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