幕間 枯井戸──千冬の話

 ぱたぱたと、明里は走る。


 季節は春。

 畦道あぜみちにはまだ雪が残っていた。雪解けで水気を含んだ泥が足首まで跳ねあがったが、気にせず走り続けた。この土地の冬は長い。水が豊かである代わりに、冬は山間部に雪が降り積もる。


 雪は山頂に水源を蓄えておく自然の貯水。桜の咲く季節でも、時折雪が降った。春の風はまだひんやりと冷たく、頬を撫でた。足を取られながら田畑までやってくる。にぎやかな年若い男たちが談笑していた。

 その中に、なじみ深い背中を見つけた。


「千冬」


 笑いあう男衆がこちらに一斉に振り向く。明里は身を縮めて、そばのクスノキに身を隠した。

 千冬は明里を見て、す、と笑みを消すと、「悪い、呼び出しだ」と再び笑った。


「どうした? 明里」


 近寄ってきた千冬が優しく声をかける。明里は強張りを解いて顔を上げた。


「……おばさんが、足が痛むって、千冬を連れてきてほしいって」

「母さんが? 今日は乙木オトギさんが来てくれたんだろ?」

「うん。でも余計なお世話ばかり言うから、いやだって。ご飯も食べてくれなくて」


 私、どうしたら、と明里は顔を伏せる。千冬はその頭を数度ぽんぽん、と叩いた。他人を慰めることに慣れきった手つきだった。


「悪かったな、一人で任せて。すぐに行くよ」


 そう言って朗らかに笑う。明里は頬を染めた。そんな優しい千冬の笑顔が大好きだった。

 千冬はもう一度男衆のところに戻り、村で一番仲の良い友人に声をかけた。 


「清治、あと頼む。必ず埋め合わせるから」

「でも、千冬」


 清治が言いよどむ。「いいから」と千冬は笑った。


「また呼び出しか。これから始めようってときに逢瀬とはいいご身分で」

「そうなんだ。お前と違ってモテるからな」


 からかう他の男たちに軽口を叩いて、千冬は集団の輪から抜け出す。清治だけが消えるその背を見ていた。


 あとになって、その日、男衆みんなで刈り取るはずの草刈りの残り大半を千冬ひとりでやったと聞いた。





 村外れのあばら家。

 千冬と母親二人はそこで暮らしていた。家屋の周りは掻いただけの雪が積み上がり、室内は肌寒く薄暗かった。


「母さん、具合が悪いんだって?」


 床板を軋ませて、寝間からのそりと白髪の老婆が起き上がる。十五歳の千冬の母にしては、祖母と言われたほうが納得できるくらいの老け込みようだった。


「乙木さんが来てくれただろう? 診てくれなかったのか?」


 乙木というのは、川向かいの村落に住まう中年の人の好い男だった。薬草に詳しく、川沿いにいくつか連なる村落の中では薬師のような役割をしていた。時折、この村にも顔を見せ、千冬も明里も幼いころ熱を出しては世話になっていた顔なじみだ。


「あのじじいは嫌だ。足が痛いのに少しは動いたほうがいいって説教しやがる。あーしろこーしろ、千冬に迷惑をかけるなって煩いんだよ」


 老婆は忌々しげに罵った。自分よりはるかに年若い男に対して口汚く吐き捨てる。


「なんだか、気が滅入っちまった。今日はここにいといてくれよ。千冬」


 かと思えば、自分の息子には哀れっぽく追い縋る。千冬は何も反論せず、痩せ細った母の背をさすった。


「そうか、それはごめんな。でも少しは食べないと身体に悪いぞ」


 明里が煮詰めた汁物を受け取り、老婆に持たせた。


「足が痛いんだろ? 揉んでやるから」


 明里が進めたときは散々嫌がったのに、あっさりと老婆は言うことを聞いてお椀を啜る。明里が呆然と戸惑っていると、


「明里、あとはいいから」

「でも、私も何か手伝う」

「大丈夫、明里も今日は女衆と山菜摘みだろ?行かないとどやされるぞ」


 にっこりと微笑まれて有無を言わさず、明里はその場から帰された。後ろ髪を引かれる思い出で、何度も振り返る。二人の親子は薄暗い影にすっぽりと覆われて、表情を窺い知ることはできなかった。


 その日の暮れ、村を後にする乙木に千冬が必死に頭を下げている姿を見た。



 明里は十三、千冬は十五。

 恋仲ではなかったが、いずれ祝言をあげるようにと村長から言い渡されていた。明里はもちろん不満はなかった。千冬のことを幼いころから慕っていたので、むしろ一層千冬の力になるべく努めていた。千冬が耕作に出ている間。時間を見つけては千冬の母の世話をする。いずれ義理の母になる人だったし、幼い頃に両親を亡くした明里を面倒を見てくれた恩返しもあった。進んで両親が残した家から通っていた。


「ああ、足が痛む。なんだか怠い。千冬はどこだい」


 けれど、千冬の母は少しでも機嫌を損ねると、身体の不調を言い訳に千冬を呼ぶように明里に言いつけた。いくら明里が慰めても、足をさすってもいっさい明里を受け付けず、振り払われる。


「今日は皆で一日かがりで川洗いをしていて、日暮れまでかかるそうです。夕餉も作っておきますから」

「そうかい、なら仕方ないねえ」


 目を下げた老婆はこれ見よがしな長い溜息をついた。──この役立たず。吐息に混じった言葉に明里は肩を跳ね上がらせる。昔はこうではなかった。泣きじゃくる明里を優しく寝かしつけてくれた、もうひとりの実母のような人だった。


 変わったのはいつからだろう。思うように動かない身体のためか、村からお荷物扱いされている境遇のためか。千冬の母は歪んだ。少しずつ、少しずつ蝕むように。幼い明里にはその変貌の理由はよく分からなかったが、機嫌をとる方法だけは身についていた。


「……まだ、間に合うかもしれません。様子を見てきます」

「本当かい? いい子だねぇ明里ちゃん。千冬の嫁に来てくれたら安心だね」


 こういうと昔のように千冬の母は明里を褒めてくれるのであった。明里は曖昧に微笑んだ。呼びに行くふりをして、くるりとあばら家の裏手を回り、足を抱えて座り込む。今日は千冬を呼びに行くほどの癇癪ではなかったので、時間を潰す。折よく寝入ってくれればよいのだが。


 あまり千冬の村仕事の邪魔をしては、千冬の立場がなくなる。それくらいは明里も理解していた。


 冷えた風が身体を吹き付ける。腕を抱いて、明里は千冬ができるだけ早く戻るのをひたすら待っていた。




 そんな生活が数年続いた、ある日の明け方。なんの変哲もない寒い冬の日。明里がいつものように、朝餉を準備しに千冬のもとに向かうと、千冬の母は前触れなく息を引き取っていた。とりわけ冷え込んだ朝だったので、そのまま弱った心臓が血液を流すのを止めたか。病が全身に広がったのか、ただの寿命だったのかは分からない。


 千冬は冷たくなった母親を静かに看取り、ああ、終わった、とぽつりと呟いた。涙は流していなかった。


 葬儀は村人の手ですぐに執り行われた。なにも取り柄もない老婆がひとり、亡くなったところでたいした波風はたたず。


──食い扶持が増えて助かった。


 村人の感想はこんなものだった。自分たちがもし身体を壊して同じ立場になったとき、見捨てれないよう千冬の母親を村で養っていたにすぎない。透けて見える安堵に向かい、千冬はまた頭を下げ続けていた。

 代わる代わる手を合わせる村人に挨拶を済ませていると、最後に迎えた長老が千冬にしわがれた声で耳打ちしたのが聞こえた。


「千冬、こんな時になんだが、明里との祝言は滞りないようにな」


 ぬばつく視線と圧力。千冬は一瞬言葉を詰まらせたあと。


「そうですね、お気遣いありがとうございます」


 微笑んで頭を下げた。走った違和感を明里は気が付かないふりをした。

 


***


 千冬の母が亡くなって一年。

 季節は冬から春へと移りゆく時分。千冬は若者衆が集まる寄合所で珍しく酒を飲んでいた。


 日暮れ。年頃の若い男たちはこのまま寄合所で一晩酒盛りをするらしい。にぎやかな笑い声を響かせていた。清治は縁側にひとり座り込んでいる千冬に声をかけた。


「千冬も今日は泊まるのか? 久々に朝まで飲むか?」

「それは気が惹かれるけど」


 千冬は笑みを深くしたあと、手に持った杯を飲まずにくるくる回した。


「帰るよ。明里が待っているだろうから」


 母が亡くなったあと、千冬親子が住んでいたあばら屋は早々に打ち壊された。碌に手入れもしていない有様だったので取り壊しの決定はあっという間に決まった。千冬は今は明里の家に身を寄せていた。


「まだ、夫婦じゃないんだろ? 少しくらいいいじゃないか」


 喪中が明けるまで祝言は挙げられない。けれど、それももう終わりだ。身を固める前に息抜きしとけ、と冗談めかせて、清治は千冬をからかう。千冬自身も「帰る」という言葉とは裏腹になかなか腰を上げなかった。


「もう宵の口だぞ。泊まって行けよ」

「今日は月夜が明るいから、大丈夫だ」


 動かない身体と矛盾して、口からは建前ばかり滑り出ているようだった。心ここにあらずな千冬は月夜をぼんやり見上げていた。まるで人形のように。


 それでも、帰りたくない、と雄弁に語る千冬の身体が気になり、清治はうっかり口を滑らせた。


「‥‥そんなバレバレの態度を取るくらいなら、祝言が嫌なら嫌ってはっきり言ったらどうだ」


 ぴくり、と千冬は肩を揺らした。


「こう言っちゃなんだが、お前の母親ももう亡くなったんだ。一度明里とちゃんと話してみたらどうだ」

「話す? なにを」


 鋭く、千冬は咎めた。後にも先にも千冬が感情を顕わにしたのはこの一度きり。唯一心を許した友人相手のみだった。


「もう母親を見てもらう必要はないから、お前との祝言もなしだと? 明里にそう言えと言うのか?」


 ひどいな、と千冬は呆れたように笑った。清治は笑わなかった。


「そうじゃない。このまま村の言いなりで、ずるずる夫婦になる前に明里と向き合ってみろって言ってるんだよ」

「俺は別に明里が嫌いなんて一言も言ってないぞ」

「好きだとも思ってないだろ」 


 千冬は押し黙る。そんなのは、傍目から見て丸分かりだった。真剣な清治の瞳に千冬は目をそらした。


「‥‥母さんがいなくなったって、村が母さんに与えた全部、返せやしない。結果は変わらないのに、悪戯に明里を傷つけて何になるんだ」


 千冬は疲れたように溜息をついた。事実、千冬は疲弊していた。若者衆の中で、うまく立ち回りながら、母親に振り回されることに。爪弾きにされないように、必死に割を食って、埋め合わせをすることに。普段はおくびにも出さない千冬の本音が垣間見えて、清治は言葉をなくした。


 明里が嫌いなわけではないのは本当だろう。けれど、明里はもはや母親と同じ千冬の人生を縛る存在でしかない。明里自身は何も悪くなくても、負い目や同調圧力抜きで明里をただひとりの娘として見るなんて千冬には不可能だった。


「千冬……」

「すまない、清治。飲みすぎたみたいだ」


 ふうと一つ息を吐くと、千冬はいつもの笑顔に戻っていた。


「……帰る。やっぱり酒は性に合わないな」


 波々残った酒坏を清治に手渡し、千冬は立ち上がった。引き留める清治の声に耳を塞いでその場から逃げるように立ち去った。


***


 月夜の晩、千冬は畦道を行く。今晩は明るすぎる。もっと闇深ければ道に迷ってしまえるのに。畦道は煌煌こうこうと月明かりに照らされ、千冬の帰る道を示した。他に選択肢は存在しない一本道を。


「千冬! 全然帰ってこないから、どうしたのかと‥‥よかった」


 一本道の先で、明里が待っていた。走り駆け寄り、千冬の胸にすがりつく。熱い涙が千冬の襟元を濡らした。


 明里は善良な娘であった。千冬の役に立とうと必死だった。早々に自分と母親の生活を天秤にかけ、気持ちを割り切ってしまった自分とはまるで違い、賢明に千冬のことを想っていた。千冬はそんな明里と向き合うのが怖かった。どうあがいても千冬は明里と同じ熱量を返せやしないと分かっていたから。零れ落ちる涙に心はなにひとつ動くことはなかったから。


(好きになれたら、よかったのに)


 心の底からそう思う。

 都合よく、明里を幸せにできたし、千冬も幸せになれたのに。

 泣きすがる明里に、いつもの調子で、いつもとなにも変わらない温度で答えた。


「村長と、話をしてきたんだ」


 慰めるように、ぽんぽんと頭を叩く。


「ずいぶん辛抱させたが、やっと日取りが決まった。ようやく祝言をあげられるな」


 明里はぱっと顔を上げる。その顔は驚きと喜びに満ちていた。思わず視線をそらす。母の喪中が明けてすぐ、村長に言い渡された。もう祝言を引き伸ばすのは無理だろう。


「花嫁衣装はおまえの亡き母のものを借りよう。きっと喜ぶ」


 これ以上村から貸しを作りたくない。花嫁衣装が明里の手持ちであるなら、質素であるがそれに越したことはない。

 熱い涙をぬぐいながら、どこまでも冷静で冷え切った自分。明里との絶望的な差。


「俺の母も亡くなった。でも明里、俺にはお前がいる」


 。母親の縛りがなくなったのに、まだ。


 一瞬過ぎった本音に千冬は震えた。そんなこと考える自分が心底嫌だった。固く感情に蓋をする。気がつきたくない。見たくない。もし明里を重荷だと認めてしまったら、この先どうやっていけばいいのか。もう後戻りも拒否もできないのにそんな感情ならいらない。


 振り払うように、明里に唇を合わせた。寒々しいほど、冷えた口づけだった。まるでただの石に触れているような、なんの感触もなかった。明里は千冬を見つめて、呆然と立ちつくしていた。なにかに、気がついたように大きく目を見開く。その視線から逃れるように目をそらした。


「これから、ふたりで、」

──頑張っていこう。


 最後の一言は喉に張り付いたまま、永久に出ることはなく。その腕が明里を抱くことも、なかった。 


 底冷えするような、まだ冬が去りきらない。寒々しい春の月夜。


 いつからだろう。千冬は好物がなくなった。好きなものも、嫌いなものすらなくなった。望むのをやめた。あきらめるのを覚えた。別に苦ではなかった。なにも望んだりしなければ。


「千冬」


 この哀れな娘に、無様に当たることだけはしなくて済んだ。

 それが千冬にできる明里に対する最大のいたわりで、最大の愛情だった。





 そうして、自分の中身をどんどん空っぽにしていけば。


「明里! 千冬が…っ川で足を滑らせて……」


 そんな重しのない身体なぞあっという間に、水に呑まれてしまうのだ。

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