第5話 白昼夢

──明里、具合はどうだ?

──今日はいい魚がとれた。

──早く元気になって、一緒に食べよう。


 夢を見た。優しい千冬の夢だった。両親を流行り病で亡くした明里は初めの頃、親族である従姉妹の家に身を寄せていた。叔母も従姉妹たちも明里を快く迎えてくれたが、年寄りと子供を抱えた賑やかな八人家族の家に馴染めず、隣家である母ひとり子ひとりの千冬の家にいつも逃げ込んでいた。


 叔母に迷惑をかけたくないという方便を、どこまで信じてくれていたのか。千冬も千冬の母も何も言わずに明里を泊めてくれた。両親を思い出すたびに、むずかる明里を千冬の母は優しく慰め、千冬は川魚や山菜を明里に振る舞った。露草はそのときに添えられていた薬草のひとつ。その気遣いがたまらなく嬉しかった。


 ただ、彼は調理はからきしできず、千冬の母も足を悪くしていたので、自然と明里がくりやを預かるようになった。気がつけば、両親の残した家と千冬の家を行き来する毎日。明里は徐々に身も心も持ち直していった。


 そんな生活をしていれば、恋仲でなくても、千冬と明里の仲が公認となるのは時間の問題で、年頃になるとすぐに祝言の話が出た。千冬の母も祝福してくれていたが、かねてよりの持病が悪化して二人の祝言を見届ける前にこの世を去った。


 当時は悲しみにくれていたが、一年前の水害が起きてからは、一人息子の惨い最期を見なかったのは幸いだった、と村人はひそかに噂した。明里も、そう思う。でも、また一人だけ置き去りにされたようで、胸の真ん中はぽっかりと空虚なままだった。大事な人を亡くしたばかりか、共に悲しむ人すらいない。


──あかり、どうした? 泣いているのか?


 声がした。

 誰かが優しく額を撫でている。慰めてくれる人はもういなくなったはずなのに。その手にぬくもりはなく、氷水のように冷たかったが、夏の暑さに火照った頬には心地が良かった。よく寝入ったせいか不思議と身体の怠さは抜けている。近頃は明里の眠りは浅かったというのに、珍しいことだ。


「起きたのか? 明里」


 眼前に飛び込んできた顔に思わず、明里は目を細めた。ちふゆ、と縋るように手を伸ばす。


「ずいぶん寝ていたな。せっかくお前が好きな露草を摘んできたのに、全然目覚めないから心配したぞ」


 心配した、と口で言いながら、ちぐはぐな明るい笑顔。その奇妙さにサッと頭が冴える。一瞬でも勘違いした自分を恥じる。何故、どうしてこのヒトがここにいるのか。いったいなにをしているのか。


 頭を押さえて身を起こした明里は、再び絶句した。戸口からかまど、囲炉裏、寝間まで、あふれんばかりの露草が家中に根を張ったかのように、青い花を咲かせていた。


「あ、ああ明里! 目が覚めましたか? ああもう、起きれるならは手伝ってくれませんか?」 


 いつの間にか帰宅していたのか。半泣きの巫女が必死に露草をかき集めている。そうでもしないと足の踏み場もないからだ。きょとんと目を丸くした“千冬”は見当違いな助言をする。


「まじないはかけていないから、そのままでも勝手に朽ちるぞ」

「ま、まさか。家中に露草を根付かせたのですか?な、なんのために」


 意味が分からず、花だらけの我が家に慄く。先日、この神様はなんの嫌がらせか、目の前で同じことをして見せたのだ。恨みがましく見つめても、張り付いたような笑顔を浮かべるだけ。


「いや、一房だけ摘んできたのだが‥‥水の術を使ったからな。呼応してしまったらしい」

「え、」


 術? いったいなんの話だ。 


 “千冬”は躊躇なく、明里の額に手のひらを押し当てた。びくり、と明里はその手の冷たさに驚く。体温のない、人肌では決してない魚のような温度。


「お前、水の気が良くない。ちゃんと食べていないだろう」


 身体を震わせる明里を気に留めず、真剣な眼差しで“千冬”は言った。


「身体の気の流れを僅かばかりよくした。熱も出ていたからな。少しは楽か?」

「‥‥‥え」


 ん? と小首をかしげ、微笑む“千冬”を見て、どうしたらいいか、分からなくなる。本当に、心配している、のか?


「明里、幻神さまは人を謀ったりしません。本当に心配していらっしゃいますよ」


 見かねた巫女が口を挟まむ。“千冬”は辛抱強く、明里の答えを待っていた。その冷たい手を離してほしくて、顔を、見ていられなくて、明里は俯いて早口に言った。


「‥‥もう、大丈夫です」

「そうか、よかった」


 手が離れる。全身の緊張が緩む。いつものように怒ることができず、調子が狂う。


「まあ結果、幻術を使う羽目になってしまったが」


 “千冬”が一房、露草を差し出した。見たこともないほど瑞瑞しく、生気に溢れた美しい夏草だった。


「これをおまえに。この間、投げ捨てた詫びだ。千冬ならこうすると清治から聞いた」


 ──千冬。その言葉で再び明里は硬直する。思い出したように動悸が早まり、呼吸が乱れた。受け取るように促す巫女に首を振り、明里は顔を背けた。


「‥‥いりません。あんなのただの雑草です。もういいです」 


 乱暴な言葉を吐いた。ちくり、と胸が傷む。露草は雨露に濡れていた。この雨の中、この神様は一人で探してきたのか。投げ捨てたと言っても、高価な着物でも上等な宝玉ですらない、ただの雑草のために。でも、受け取れない。他でもない千冬の姿を奪った相手に。心は許せない。


「──そうか。ならいい」


 “千冬”は怒りもせずに、花を下げた。慌てたのはむしろ巫女のほうで、曲がりなりにも神に遣える立場の彼女は手に負えない量の露草に埋もれていた。


「明里、この露草は神の賜りものです。捨てるわけにはいかないのですが」


 “千冬”がなんの気なしに尋ねる。


「露草はなにか使い道はないのか?」

「乾燥させれば、解熱剤になりますがこの量すべてというのはちょっと。あとは山菜ですから一応食べられますが」


 自分のせいで困る巫女にいたたまれなくなり、明里は無言のまま俯く。明里にもう一度向き直った“千冬”は首を傾げた。


「明里は調理できないのか?」

「‥‥できます、けど」


 そのためにあの夕べも巫女と連れ立って出ていたのだ。あれ以来、めっきり山菜を摘むどころか、調理すらしなくなってしまったけれど。


「なら、ちょうどいい。いくら術を施したとて、食べねば一時しのぎだ。それに俺も明里の料理を食してみたい」


 え、と明里はそらしていた目を合わせる。途端に嬉しそうに“千冬”は顔を綻ばせた。しまった。見ないようにしていたのに、その笑顔はあまりに目に毒だ。


「一緒に、食べよう」


 なんの計算もないまっすぐな笑み。村の中心で兄のように慕われていた千冬はそんな子供のような笑顔は見せない。悲しいほどに上面だけのまがいモノだと分かるのに、こんなときばかり同じことを言う。胸が詰まって、反論できなかった。


「いけません。幻神さまが食す神饌しんせんならなおのこと、社に戻りませんと」


 花の受け取りを拒否した手前、断るわけにもいかずにいると、慌てたように巫女が二人に割って入る。


「よい。酒も米も好きだが、薬草も悪くない。俺の神饌は露草でもかまわない。それに直会なおらいならこの村でもよくやっているだろう?」


 直会なおらい──神様に食事を捧げたあとにその神饌を村人が頂く儀式。つまりここで明里と食事をすると言っているのだ。確かに神と人を結びつける習わしの一つであるが、実体ある神様を目の前にして行う儀式でもない。しかし、もう決めたとばかりに居座りを決め込んだ神様に巫女はあたふたと困り果てた。


 明里はさすがに観念して、立ち上がった。花を受け取るのではなく、分けるのであるならば、千冬も許してくれるだろうか。


「‥‥幻神げんしんさま。あなたがよくても、山菜だけでは足しになりませんよ」


 どうせ口をつける気も起きなかった供物ならたくさんあるのだ。いくら気が乗らないといえど、村人が丹精こめた作物を無駄にするのは気が引けた。だから、ちょうどいい。


「米も魚もあるので食べてください。もちろん露草を一番に消費してもらいますが」

「もちろんだ」


 半ば嫌味で行った言葉。暖簾に腕押しのように意に返さない返答。深く考えるのも馬鹿らしくなる。


 適当に運ばれた食料から材料を選んで、久々に明里は厨房に立つ。時刻はちょうど夕餉どき。供物も露草もとても食べ切れる量ではないので必要な分を取ってざく切りにする。包丁を握る感覚。竈に火を焚べる作業。こんなちゃんとした食事を作るのはずいぶん久々だ。共に食事をとる面々はあまりに奇妙だけれど。巫女は神様と食事を取ることを散々遠慮したが、大量の露草をどうするのかと脅して、きっちり三人分の食事を並べた。炊いた米に焼き魚、露草のおひたしにお吸い物。ついでに神酒。貧相な村にしたら贅沢な夕餉だ。神妙に手を合わせる。三人分の食卓。奇妙で不気味で気が進まない。けれど、久しぶりの温かい食事だった。



 食べると豪語した通り、おおよその露草を平らげて、“千冬”は「清治と田畑をならす約束がまだ残っている」とあっさりと去ってしまった。夕立はとっくに止んでいたが、とうに日は沈みきっている。今更清治のもとに戻ったところで無駄であろう。が、出ていくというのなら止める気も起きなかった。


 まるで嵐のような、神様らしい傲慢さだ。残った露草を乾燥させるために籠に並べていると、巫女がぽつりと呟いた。


「それにしても、驚きました。帰宅したら、幻神さまが明里のそばにずっとついていらして」


 寝顔をずっと見られていた気まずさを思い出して、明里は眉をひそめた。


「‥‥どのくらいいたの?」

「さあ分かりません。明里ったら朝から食べずに横になっていたから、社に用向きに出てしまって」 


 困ったように微笑まれて、明里は俯く。食べやすいように冷やしてあった瓜が巫女の気遣いであることはちゃんと気づいていた。


「あの、ごめんなさい。瓜、ちゃんと頂きました。ありがとうございます」


 頭を下げると、巫女は少し目を見張って、今度は優しく微笑んだ。


「少し、顔色がよくなりましたね。よく眠れましたか?」

「…‥‥」


 明里は黙る。白昼夢で聞こえた明里を労る声が、思い出の中の千冬だったのか、それとも幻の仕業だったのか、いったいどちらだったのかは明里にもよく分からなかった。

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