第8話 初恋

 小さくシャワールームのドアが開いた。

「ごめん。上杉君の服、間違えてクリーニングに出しちゃったみたい」

 ドアの向こうから詩の肘から先だけがそっと入ってきた。その手には服と思われるものが握られていて、そっと床に置かれた。

「あの、これは着られないからもう捨てようって思ってた服だから。とりあえずクリーニングから返るまで着てて。それから——下着はまだ一回も着てない新しいものだから……。ほんと今すぐはこんなのしかなくて、ごめん」

 それだけ声がして、ドアは静かにと閉められた。


「わかってるよ。わかってるけどさ、なんでこれ?」

 和音はプリーツの入った短いチェックのスカートの裾を摘んでちょっと広げてみせた。

 着替えとして渡されたのは、和音にとっても見慣れた聖華学園の女子制服だ。しかも学校で見たこともない、短いスカート丈だった。

「だから、私と音ちゃんが私の服をシェアするのは流石にね。だったら、とりあえずもう私が着る予定のない服ならいいかなって」

「西園寺さんが男の服を持ってないのはわかるよ。でも、僕が着るには、このスカート丈は流石に短すぎないか?」

 聖華学園では見かけないが、横浜駅あたりに行くと珍しくもないところではある。でも、下半身がスカスカで何も着てないみたいで落ち着かないのだ。

「そのスカートはね、このくらいならいいかなって作ってもらったんだけど、入学式の時に生徒指導の常盤先生から鬼のように怒られたのよ。ちょっと西園寺さん、スカートが短すぎます!って」

 詩が常盤先生の口真似をしながら笑った。

「はは、そっくりだ。それにしても女の子って、よくこんな丈のスカート履けるよな」

 詩の部屋の大鏡の前で和音はクルッと回って背中越しに写してみた。

「それは、女子としての気合よ。あっ、それと気をつけてよ。気を緩めたらパンツ丸見えだからね」

 わかってるよ、と憮然としながら返事をする。

 さすがに下着はためらったが、この丈のスカートを履いてパンツを履かない選択肢はなかった。さらに、白いブラウスで肌が少し透けるので、さっきナイクロで買ったばかりの「カップ付き」の何とかという下着まで着させられている。

 だいたい何でこんな不便な服を着たがる。そこまでしてスカート丈を短くしたい女子の気持ちが、これっぽっちもわかんねえ!


「ところでさ、音ちゃんは宇多川ヒカリの「初恋」って歌える?」

 いつの間にか、僕はすっかり「音ちゃん」と呼ばれている。

「うん。母さんが好きな曲で教えてもらった」

 詩はソファから立ち上がってピアノの前に座った。

「ねえ、ちょっと歌ってみて」

 和音が返事をする前に、詩が静かに「初恋」を弾き始めた。


 それはまるで光の粒のようなキラキラした音色だった。考えてみれば、和音はピアノの生演奏なんてちゃんと聴いたことがなかった。中学校にあったピアノにはいつも黒い布が被さっていて、誰も弾く人もいなかった。

 まだ初恋の静かな前奏なのに、詩が弾く一音一音の持つ圧倒的な迫力。和音が習ったことがあるカスタネットやリコーダー、ハーモニカとは楽器としてのレベルが違うと感じてしまう。

 これがさっきまでの僕が知っている西園寺詩と同一人物なのだろうか。それほどまでに、素敵だと和音は思った。


「どうしたの。ほら、歌って」

 詩がピアノを弾く手を止めて、もう一度頭から弾き始める。

 カラオケでしか歌ったことがない。どう歌っても彼女のピアノの音に負けそうだったが、和音は意を決して歌い出した。


 歌い終わって、和音は何か特別な充実感を感じた。きっと彼女が僕に上手く合わせてくれたのかもしれないが、それでもなんて気持ちいいんだろう。

 パチパチパチと詩が手を叩いた。

「ああ、なんて素敵な声なの。最高よ、音ちゃん」

「いや、それはきっと西園寺さんのピアノのおかげだよ」

 詩が「ありがと」というようにはにかんで、少し頬を染めた。

「私ね、今の歌は好きなんだけど、裏声のとこが全然。音ちゃんは声域が広いみたいだから、かなり余裕があったよね」

「うん。まあ、そうかな」

「じゃあ、ちょっと聴いてて」

 そう言うと、詩はまたピアノを弾き出した。

 それは聴いたことがない曲だった。少しポップな曲調でメロディが綺麗だ。和音はいつの間にか詩のピアノに合わせてリズムを刻んでいた。


 その一曲を弾き終わると、詩が「どう?」と顔を覗き込んできた。

「いい曲だね。なんて曲?」

「まだタイトルは決めてないの」

「ってことは、もしかして君が作った曲ってこと?」

 へへっと詩が笑って首を縦に振った。

「何曲か作ってるんだあ。さっき音ちゃんが歌った初恋と音域は一緒だからさ、ねえ音ちゃん、私の声になってくれない? 自分で作った曲なのに、私じゃ苦しくて歌えないの」

「えっ、ぼ、僕が?」

「そう。私が曲を作って、ピアノを弾いて、そして音ちゃんが歌うの。私たち、ミックスしたら最強だと思わない?」

 詩が興奮した様子で和音の手を固く握った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る