第3話 甘いスイーツの誘惑

 ────ああ……心地よい。


 秋風で目が覚める。朧気な余韻に浸りながら、武蔵野のとある駅に下りていた。

 馴染みのケヤキ並木は一ヶ月見ないうちに葉色をオレンジへと染めてゆく。甘い薫りがほのかに鼻腔をくすぐってくる。


 我に返ると、時計の針の揺れが無性に感じられる。時刻は夜の八時。本来ならもっと早く着いたはず。五つも寝過ごしUターンしている。秋の夕暮れは早く、胸に忍び寄る真っ暗なとばりを感じてきた。


 案の定、百合子が枯葉舞うホームで首を長くし待ちわびていた。風が冷たく変わり、耳元をかすめてゆく。



「いま、何時だと思ってるの! 」

 さっそく、怒りが飛んでくる。


「百合子、ごめん」


「ふたりの時間はフリーでないんだよ。一分でも大切にしたいのに」


 百合子の言葉は正論だ。けれど、そのまなざしには憂いすら感じられる。まさか、武蔵野の幻に酔っていたとは言えない。後ろめたさのままホームの端まで急ぐ。そこで、いつもの通り声をかけた。


「レーズンサンドを買っていこう」


「えっ、本当に。やったあ……。一ヶ月ぶり、きっと母さんも喜ぶと思うわ」


 その言葉にやっと白い歯を見せてくれる。義母にお土産を渡すと、いつもお礼に「安心の便りを美味しく頂戴しました」と絵手紙が届いてきた。


 菓子は檸檬の雫れもんのしずくという老舗の洋菓子店で扱う。独特な風味のクリームにラム酒の香り漂うレーズンが挟まり、クッキー生地がサクサクして上品な味である。


「あれ、旨いよなあ……。口の中がボロボロとなってしまうけど」


「浩介は何にでも不器用。食べ方がヘタなんや。そんなところ好きだけど……」


「どうせ、そうだよ。なら、名前まで知ってるか?」少しだけ意地悪したくなる。


「確か、武蔵野のでしょう」


 やはり、百合子が一枚上手である。


「それがどうかしたの? あれ披露宴の引き出物にどうかしら」


 そうきたか……。俺も反対ではない。


 だが、レーズンサンドの名前が謎めいており、せっかくなら由来まで知りたくなる。こんな風に考えるのは職業病だろうか。

 不思議なことに、その謎解きにより百合子との絆がさらに深まる気すらしてくる。

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