きつねよめ

二宮酒匂

第1話 狐と山伏

 近江国のとある荘園内の村、稲荷いなりの社の前である。

 仔狐が数匹、芝生で遊んでいた。


 ――あやつら黄金こがねに化けぬものかな。


 山伏姿の新右衛門しんえもんは、稲荷ほこらに背をあずけて座りこんでいる。毛玉のような幼獣らがころころともつれあうさまを見ながら考えた。

 春の日差しを受けた狐の毛並み。

 黄金色。

 金。富。銭。

 いつものごとく連想は銭のことに行き着く。かれは深々嘆息した。


「……銭さえあれば」


 まだ二十二歳の新右衛門がそうもすれっからした口癖を持っているのは、もちろんおのが境遇を不満としているからである。

 山伏とはもとより漂泊する者どもの一種ではあるが、新右衛門はまっとうな山伏でさえない。なにしろ十年来のびっこであり、山での修行など一回たりとしたことはなかった。


 それがなにゆえ新秀坊しんしゅうぼうと山伏の名乗りをあげてこんな格好をしているかというと、飢えをしのぐためでしかない。

 かれはいつも不自由な右足をひきずって村々を渡り歩き、富み栄えていそうな家を適当に見定める。戸をたたいて「ここな家に災厄が降りかからんとしておる。以前に人の恨みを買うたであろう。祈祷してしんぜよう」と持ちかけ、手印を結んで真言を吐く。たいていは門前払いを食らうが、運がよければ宿と飯にあずかれる。相手がよほどに愚かか、よほどに情け深ければ、謝礼としていくばくかの銭を手渡されることもある。


 なんでもやる若者だった。行く先々で田畑や普請ふしん(工事)を手伝って日銭を稼ぎもするし、自分で作った竹や木の細工を売りつけることもする。幸いにして、手先は器用だった。今も手元では木片を削って、小さな風車を作っている。

 それやこれやで、かろうじて生きてはゆけた。それでも、このような暮らしは本意ではない。


 ――はようこんな明日をも知れぬ流浪の身から抜けたいものじゃ。

 ――かならず名を上げ、世の中を見返してやる。

 ――そのためには銭だ。銭さえあればなんでもかなう。窮死のたれじにに怯えることもなく人の嘲りを受けることもない。

 ――そうとも、人の世の幸せは銭じゃ。


黄金こがね。黄金。あれらが黄金に変われば……」


 腹が減っていたこともあって妄念が止まらなくなる。狐の仔をまじまじ見つめながららちもなくくりかえした。


 と、とっくみあう兄弟たちから距離をとった幼獣の一頭が、くるりとかれに向き直った。

 驚いたことに、その仔は怖れるふうもなく新右衛門に近づいてきた。稲荷社に住む狐であるからには、周囲の人間に神使としてちやほやされ、警戒心が薄いのかもしれない。狐の仔は新右衛門から五歩離れたところで動きを止め、小首をかしげてかれを見つめる。

 相手が獣とはいえ、浅ましき言葉を吐いていただけにきまりが悪い。新右衛門は赤面した。


「なにを見ている。あちらへね」


 むっつりと不機嫌なかれの表情が驚愕へと変わったのは、直後である。


〈コ、ア、ネ?〉


 その仔狐の鳴き方は、およそ尋常の狐のものではありえなかった。

 まるで、


「……こがね、と言ったのか?」


〈コア、ネ〉


 ――こやつ、人の声を真似ておる。


 新右衛門はあぜんとする。狐妖のたぐいか本物の神使しんしなのかは知らぬが、いずれにせよきわめて稀な獣である。


 ――こやつを捕らえ、往来で見世物にすれば楽に日銭を稼げよう。

 ――もう飢えずにすむ。


 ぐびりと喉が鳴った。


「来い。来い」


 新右衛門は手を伸ばしてさしまねいた。しかし狐の仔は、さすがに五歩以内に踏みこんではこなかった。離れたところから新右衛門の声を真似るばかりである。


〈コイ、コイ〉


 ひとまずはあきらめて、新右衛門は浮かせかけていた腰を下ろした。売り物の風車づくりを再開する。

 どうせ、しばらくはこの村に留まる。時間をかけて警戒を薄れさせたほうがよいだろう。焦ることもない、駄目でもともとだ。


「狐の好物はなんだったかな、油で揚げた豆腐だったか……そんな上等なもの、あればわしが食いたいわ」


 好奇心旺盛に近くをうろうろする狐の仔に一瞥くれ、新右衛門はぼやいた。




 蛇を叩き殺して何片かに刻み、開いて干したものを投げ与えた。狐の仔らがそれを奪い合う。


 仔狐たちはいずれも野生の獣にしては人懐こかったが、人真似をする仔狐はそのなかでも格別であった。兄弟たちよりもいくぶんか近い間合いまで入ってきて、肉片をその場で食べる。

 頬杖をついて、新右衛門はその仔狐との距離を測る。


 ――四歩。二日かけて、一歩進んだな。


 手を伸ばせば捕まえられる距離まで近づけねばならない。

 新右衛門の目論見を知るよしもなく仔狐は、もっとくれとばかりに座りこんで鼻を鳴らしている。


「欲しいか。『こがね』ともう一度言ってみろ」


〈コガ、ネ〉


 頭がすこぶる良いな、と感心しながら新右衛門は肉片を投げてやる。

 仔狐はたちまちそれに飛びついて呑みこんだ。

 食べっぷりをみていると、ふと新右衛門の脳裏から邪念が薄れ、代わりに遠い日の情景が浮かび上がってきた。


 ――千丸を思い出すのう。


 幼くして亡くなった弟も、このように嬉しそうにものを食べた。

 つい、たわむれが口から出る。


「……次はわしのことをあんちゃんとでも呼んでみろ」


〈ア、チャ〉


「あんちゃん、だ」


〈アン、チャ〉


 肉片を投げてやる。仔狐はアンチャ、アンチャと自分から鳴いて次をせっつきはじめた。


「はは。いのう、おまえは」


 新右衛門は思わず頬をゆるめ、久方ぶりに若者らしい笑顔を浮かべた。

 笑みがすぐ消えたのは、自分がしようとしていることに葛藤を覚えたからである。


 ――本当に捕らえてよいのか。社に住まう狐だぞ。


 わが家は代々、狐とは縁が深かったではないか、と新右衛門はためらった。

 それに仔狐の背後、よくよく見れば藪から親狐が顔をのぞかせて凝視してきている。

 ひやりとして新右衛門は「やはり手は出さずにおくか」と決めかけた。幼い仔にして人語をつむぐ稲荷の狐である。その親ならば、人に害なすほどの通力を持ち合わせていてもおかしくはない。


 しかし、そのとき腹が鳴った。


 空腹は、突如として惨めさと怒りを呼び覚ました。


 ――没落にいたったのも狐のせいではないか。親父どのはこのような畜生ばらを庇ったがために領地を追い出されたのだ。

 ――母がわれら兄弟を捨てたのも、千丸が下人げにんの身のまま死んだのも、わが家の辛苦はもとはといえばすべて狐がためじゃ。

 ――そうだ、こやつらは畜生ぞ。畜生ごときになにを遠慮することがある。仔狐をさらって逃げてしまえばよい。


 すさんだ目をして悪意を胸にこごらせる。

 それでも、気の重さはどこかに残った。




 さらに数日後の夕ぐれどき。


「京はあいかわらず食うのが難しい場所かの」


「そりゃねえ、昨今は流れこんでくる飢民が多いもの」


 新右衛門は道端で、京から流れてきたという歩き巫女と立ち話していた。


「あたしみたいなまだまだ若い女なら辻に立つ(春を売る)手があるけどさ、そうじゃないならなにか芸持って行かないとたちまち河原で餓死しちゃうよ」


「芸か……」


「京行くのはやめときなって、あたしは越前のほうへ行くよ。ところであんた、足萎あしなえだけどそこそこいい男だねえ。銭五十文か干飯一袋持ってないかい、たったのそれだけで抱かせてあげるよ」


「持っておらぬ。残念じゃが」


 女の体への欲望はある。ちょうど五十文約五千円ふところにもあった。だがそれで手持ちの銭のすべてだったし、なにより歩き巫女が誘いながら笑いかけてきたことがかんにさわった。


 ――これだから浮かれ女は好かぬ。

 ――簡単に笑いおる。女の笑顔は大嫌いじゃ。


 新右衛門は杖をつきながら歩き巫女から離れ、かの稲荷社へ足を運ぶ。


 ――わしもそろそろ、次の土地へ向かうか。“芸”になる狐をつかまえて。


 出て行く潮時である。村の長はかれのような乞食山伏にも寛容で、半月ほども縁の下にかれを寝させ、あわの粥をほどこしてくれた。

 しかし、そろそろ長の家人の目が冷たい。ここ数日、与えられる粥の量はめだって減りつつある。


 ――あの仔狐を捕まえて……縛りあげ抱えたのちは、たちどころに逃げずばなるまい。村人どもに見つかれば、神使をなんとすると詰問されようからの。


 準備はととのえてあった。ふところのかずら縄を新右衛門は撫でる。

 例のしゃべる仔狐はあいかわらず物怖じせずかれに近づき、手から餌を受け取るまでになっていた。すばやく手を伸ばせば首根っこを押さえられるはずである。

 そこまで計画しているにもかかわらず……


 ――この期に及んで迷ってどうする、たわけめ。


 新右衛門はまだためらいを捨て切れていなかった。元がふんぎりのいいほうではない。それに、狐の家族の仲睦まじい様子を見るにつけ、「親兄弟から引き離すのは少々、哀れだのう」と思ってしまうのである。


「なあに、いかに賢くとも畜生だ。すぐに忘れるであろう」


 ことさらに悪ぶってうそぶいても、気乗りはしなかった。

 かどわかしに失敗したらわしはほっとするかもしれんな、などと考えながら足を引きずって稲荷社の裏手に回る。


 立ち尽くした。

 狐たちが死んでいた。


「おい。人が来たぞ」


 舌打ちして新右衛門を見返したのは、烏帽子えぼしをかぶり指貫さしぬきをはいた職人姿の、三人の若い男であった。一人が弓矢を、ほかの二人が重たげなかしの棒を手にしている。


「……いや、里人ではない。山伏だな。それも足萎えじゃ」


 弓矢の男が露骨な安堵と軽侮をこめて笑った。

 かれらの周りに散らばっている狐の死骸は五体――幼い仔ら三頭は身に矢を突き立たせて白膠木ヌルデの枝にかけられている。二頭、父狐と母狐は殴り殺されたらしく、目玉を飛び出させて男たちの足元に転がっていた。


 ――通力はなかったのか。


 全滅、ではなかった。かろうじて。

 悲痛に鼻を鳴らす音が響いている。

 例の、人真似をする一頭の仔。首に縄を巻きつけられて木につながれていたその仔狐のみが残っていた。

 そして、新右衛門を見て鳴きはじめた。


〈アン、チャ。アンチャ〉


 顔面をこわばらせて惨殺の場の手前でたたずんでいた新右衛門は、我にかえって男たちをとっくりと見た。

 武士ではない。新右衛門に負けず劣らずのむさ苦しい山賤やまがつのなりである。顔色が赤く、酒の匂いがぷんと鼻をついた。


「おまえら……社で、なにをしておる」


 眉をひそめて新右衛門がなじると、酔った男たちはどっと笑って罵りを返してきた。


「なにをだと。おのれの知ったことか、足萎え天狗」


比良ひらの峰から飛ぼうとして落ちたか。地べたを這いずりまわっておるかよ」


「おのれらは人に憑いた狐を祓うが生業というが、それしきで威張りおるなよ。われらとてこれこのとおり、怖れるものはない。近郷に名の響いたここな稲荷社の狐であろうと、造作もなく討ち果たしたわ」


 ――これはまた、たちの悪い手合いが山から下りてきたな。


 新右衛門は渋面で見まわす。木地師か炭焼か、いずれにせよ血気盛んな山人の若者が、祝いごとかなにかで酒をかっくらって里にくりだしてきたものらしい。

 それにしても、狼藉も度がすぎると言わざるをえなかった。

 アンチャ、と鳴く声が耳に痛ましい。


「……その仔は」


 つながれた仔狐をあごで示すと、酔漢らは「おう、鳴き声が珍しかろう。ゆえにこやつだけ生かしたわ」と戦利品を誇る口ぶりで言ってのけた。


 ――売るなり見世物にするなりするのだろうな。


 自分の当初の目論見と変わらないながら、新右衛門は強い嫌悪感を覚えた。離散に追いこまれた自身の家族のことや、弟ともども人商人に売られたことの記憶がはらのうちにぐるぐる渦巻く。それをどうにか静め、かれは訊いた。


「その仔狐を捕えるのはわかる。だが親兄弟の狐をなにゆえ殺す。畜生とはいえ互いに情愛ひとかたならぬさまを見せていたものを……」


「それよ、それ」


 得たりとばかりに棒を持った山人は歯を剥いた。愉しげに。


「最初は人馴れして射やすいだけの獣かと思うていたがの。こやつら妙に人がましいところがあるぶん、ただの野干やかん(狐のこと)より愚かじゃ。仔を縄でくくっていたら親狐が飛び出してきたぞ。そこを狙って、こう脳天を砕いた」


「無益な殺生を」


 思わず新右衛門は嘆息を漏らした。だが山人らは失笑してなおも言った。


「はは、無益なものか。肉はこのあとて腹の中に供養するわ。肝は薬に、毛皮はかわごろもに仕立てるわい。早いもの勝ちじゃ、分けてはやらんぞ、足萎え」


「死んだ狐はいらぬ」


 新右衛門は吐き捨てた。

 山人らを押しのけるようにして仔狐の前に立ち、


「だが、早いもの勝ちというなら、この仔狐の鳴き方はわしが仕込んだのじゃ。こやつはわしが買い取る」


 ――家族を殺した仇にひいてゆかれるのでは哀れにすぎるわ。


「なにを、足萎えが……」


 たちまち殺気だった棒の山人二人が前へ出ようとした。それをさえぎって、弓矢の山人が目を細めた。


「いくら出すつもりじゃ」


 新右衛門は紐に通した銭をふところから取り出す。かれの手から奪いとって山人たちは枚数を数え、いきなり激高して銭を足元にたたきつけた。


「われらを舐めておるのか、たかだか五十文だと」


「それでわしの全財産じゃ」新右衛門は負けじと怒鳴りかえした。


五百文約五万円は出せ。これでは話にならぬわ、くそ山伏」


「下衆どもが。里の社に下りてきて勝手に獲ったものにかような法外な値が付くか! 里の者の前で申し開きしてみるか」


 言い放つと新右衛門は杖を捨ててかいを取りだし、間髪いれず吹き鳴らした。山人らが止める間もなく、法螺貝の音は四方に鳴りわたった。

 螺をしまい、新右衛門は真っ青な顔で山人らをにらみつけた。ぼろぼろに刃欠けした腰の刀を抜きつれる。


「すぐに人が来ようぞ、仔狐の値五十文を拾ってとっとと去ね。神使殺しを里人に囲まれて糾問されたくなければな。ことによれば狐の代わりにおのれらが逆剥さかはぎにされようぞ」


 刀狩り以前の世である。人の気性は荒々しく、農民も刀槍を平然と持ち出してくる。

 うぬ、と山人は歯ぎしりし、さっと弓に矢をつがえて新右衛門の胸を狙った。


 息づまる一瞬――矢は放たれなかった。


 弓を下ろし、銭と狐の死骸をすばやく拾い、ぷっと唾を新右衛門の足元に吐きかけて、山人らは林のなかへと逃げこんでいった。


 ――命拾いしたわ。


 膝の力が抜け、新右衛門はくたくたと座りこむ。

 しばらくして、仔狐に手を伸ばしてその首の縄をほどいてやった。連れていく気は、いまとなっては綺麗に失せていた。


「厄日だったのう、おまえの一族には。しかしおまえだけでも生きておってよかったというものじゃ」


 話しかけながらほどくその途中で気づく――ぶるぶると仔狐は震えていた、人のように。 いましめが解かれた瞬間、脱兎のごとく駈け出してやぶの中に消えていった。


「……無理もない」


 たぶん、あの人懐こかった仔狐は、二度と人を信用しないだろう。

 様子を見にきた村人たちが、狐の血のあとを見て周りでざわめきはじめていた。

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