百合の剣(八)

 じっくりと噛み締めるように、オフィリアは記憶の中の故郷を言葉に紡ぎ出す。

 その囀るような語りは、聞く者の脳裏にやや翳りあるくすんだ北方の景色を浮かびあがらせた。


※ ※ ※


 青が深く沈み込んだ狭江フィヨルド港から漕ぎ出てゆく北の民の船団。所狭しと湾内を埋めるそれは、軍船ラングスキップ交易船クナールからなる一群。潮風と雨に晒されて、黒ずみに侵されつつある白い大きな帆。その船体にたなびく旗や舷側ふなべりを覆う円盾の群れが、薄い空と濃い水の青に覆われた北の単調な風景に鮮やかな色を添えている。

 桟橋で手を振る女や子どもは、父や夫、息子や兄弟たちのいない間、畑を守りながらその帰りを待つ。留守組の男たちは、船中の同胞に羨ましそうな眼差しを投げかけながら、その船路の無事を祈り剣を掲げる。

 その港から少し離れた、狭江フィヨルドを一望できる崖の上に,旅立つ近親者のいない女たちの一群があった。ほとんどが未婚の娘たちだ。

 崖の上の緑なす灌木の間に、色とりどりの民族衣装ハンゲログに身を包んだ女たちが見え隠れする。それはまるで多彩で鮮やかな花のように見えるだろうか。色とりどりの彼女たちは、目を凝らして水平線の彼方を見つめる。肩紐を胸元で固定する銅や真鍮の装身具ナエラに陽光が差し込んで輝きを放つ。娘たちの中には,秘めた恋人の旅立ちを見送る者もいる。そうした娘は、道中に幸あれと、涙をこらえて黙々と手を振り続けている。

 船上の男たちは、緑の野辺を鮮やかに飾りたてる女たちの影や、彼女たちの胸元で装身具ナエラが発するキラキラとした光の瞬きに目を楽しませていることだろう。

 見送る者どもの姿が見えている間は、比較的ゆっくりと波を掻き分けていた船団も、やがて意を決したかのように力を込めてかいを動かして船足を速めていく。

 そして水平線のきわへ。はじめは果実ほどの大きさだった船影も、だんだんと豆粒のようにしか見えなくなっていく。やがて船は、空と水の境目を教える小さな点となり、陽光に耀かがよう波や風に揺れる草花の動きに、娘たちが少しだけ目を奪われている間に消えていた。

 船の姿を見失ってなお、崖の上で娘たちは波の彼方を見つめ続ける。

 嵐や高波に襲われ遭難や沈没するかもしれない。交易の不首尾がもたらす諍いや戦闘があるかもしれない。一旦故郷の土を離れると世界は危険なものとなり、船に乗り込んだ男たちのその生は、気まぐれな運命のただ中に放りこまれる。

 男たちの覚悟の船出は、陸に残る女たちにも覚悟を強いる。

 港で見送りを終えた女たちは、生活と日常の場に戻ろうとしない。今しがた目に焼き付けたものが,船内の者たちとの今生の別となるやもしれない。その想いが彼女たちをして、この場から去り難い気持ちにさせる。女たちは決して人前で弱音は吐かない。愛する者の運命についてさえも、「彼には不名誉な生存よりも、栄誉ある死を」などと口にする。だが、本音は決してそうでは無い。

 崖の上の娘衆もまた、誰一人戻ろうとしない。夫や父、息子の船出を港で見送る女たちが今、胸が張り裂けんばかりの時間ときを過ごしていることを娘たちは知っている。彼女たちの胸の内を思って、崖の上で娘たちは同胞の無事を祈り続ける。

 そして崖の上の娘たちは、いつか我が身がその立場に置かれることも知っている。夫や父、息子の出航を不安とともに見送りながらも、「たとえ死すとも戦乙女ヴァルキリャに導かれ、彼が天上ヴァルホルへ行けるように祈ります」などと心にもない言葉を口にしてしまう日が、いつか来ることを知っている。崖の上の娘達の中にあって、人知れず恋人を送り出している娘はとても悲壮な表情かおをしていて、皆気付かないふりをする。

 崖の上には女たちしかいないから、だから涙と本心を隠して愛する者たちの船出を見送る港の女たちに代わって、祈りの唄を口ずさむ。残される者の不安と苦しみの歌を、交易や戦の成功などよりもただ生きて戻ってきて欲しいと願う歌を。臆病とそしられようと、自分のもとに帰ってきてと祈る歌を。勇気ある旅立ちに相応しくない歌を歌い続ける。

 船にも港にも、届くことのない娘達の歌声。それは風に乗って流れ、また流れては消えていく。


※ ※ ※

 

 遠き日に流れた歌のような、切々としたオフィリアの語りは終わった。そして、じわじわと余韻を残しつつ北の海の景色は皆の脳裏から消えていく。

 かつて北の船団の出航は、征旅の船出であった。だがそれは過去のこと。現在は交易の船出である。犠牲ありきの略奪で得られるものは、平和裡の交換でもたらされる富にはかなわない。

 むろん、やむなき事情があればたまに略奪も行なわれ、

「私の父もそうして帰ってこれなかった者の一人です」とオフィリアは淡々と口にした。

「幸い五、六歳の頃でしたか、産まれたばかりの姫のおもりや遊び相手の一人として王様に拾っていただいて今があります」

 わざわざ口には出さないが、オフィリアの父トルドが犠牲となったその時、救われた者の中に即位前のヨクル、メルシーナの父王がいた。オフィリアの待遇は王の罪滅ぼしといえた。

「その恩義もありますが、姫とはずっと一緒でした。まあ、手はかかりますがエルスクの代表者として相応しくなってもらわないと」

 自分が話題にされているのはかなり気恥ずかしく、メルシーナは一団から目を逸らして、向こうで談笑しているアンジェリカの侍女たちを眺める。

「美しい国だったのですね」

 話のきっかけを作った者としてアンジェリカが応答するが、その後のオフィリア達の運命を知っているが故に、独創性のない陳腐な言葉だった。

「そんな故郷も、もう今はありません」

 オフィリアの言葉は重い。

「敵の襲撃があった夜、姫様の手を引いて逃げ続け、なんとか味方と合流して島を離れました。太陽の沈まない夏の夜の明け方、火の手の上がる島影が最後に見た故郷エルスクの姿でした」

 やおら、オフィリアはハッとした表情を浮かべた。ついつい余計なことまで話してしまって、場の空気を重苦しくしてしまったことに気がついた。彼女は薄く微笑むと「こんな話、ごめんなさい」と謝った。

 だが、全部話してしまいたかったのだろうか、二人の騎士の方を向いたオフィリアは、

「今日、騎士様たちの試合を見て、七年前の私に剣を手にする覚悟があればと悔しく思いました」と呟いた。

「……」

「襲撃の夜、味方の到来を身を潜めて待つ間、幼い姫を抱きしめながら、私の右手はずっと短剣を握りしめていました。守るためではなく、その時が来たら姫様を殺め、自らも貫くために……」

 おもむろに首を振ったオフィリアは、自らの顔に掬い取った湯を勢いよくバシャバシャとかけた。

「幸い剣を使うことはなく、味方と合流できました。でも、仮にその時が来ていたとして、自分にそれはできなかったと思います」

 自嘲し自分自身への侮蔑を隠すことなく浮かべながらオフィリアは天井を仰いだ。天窓から注ぐ薄い光がその目に突き刺さる。たまらず、メルシーナはオフィリアの腕にギュッと抱きつき、オフィリアは悲しそうな笑みを浮かべた。

「あの夜。一晩中、剣を持つ手の震えが止まりませんでした……私はそんな、覚悟の薄い人間なんです」

 本人は自責するが、それを覚悟の無さと受け取る者はいない。メルシーナがすがるように言い聞かせる。

「そんなことないから、そんなことないから……」

 湯に浸かっているはずなのに、どことなくぬるさを感じていた。

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