戦場の糸繰草(五)
エルドレッドが発した「そろそろだな」という小さな呟き。その呟きを捉えた従者は、主をねぎらわんと葡萄酒の入った皮袋を差し出した。
受け取ったエルドレッドはちいさく礼を述べ、「末期の酒だな」と数回喉に流し込んだ。そして、お前も飲めと従者に返す。彼もまた主に倣って喉を潤わせたが、勢いよく二、三口飲んだところで咳き込んだ。
苦笑した指揮官は、周囲の戦士たちにも分け与えるように伝え、回し飲みをする面々に語りかけた。
「今後しばらく、アラン人どもの陣地は混乱に陥るであろう。その時、我々は残る力を振り絞って彼らを襲い、最後の一撃を与えようではないか!」
取り巻く者たちは深々と頷き、お互いを見遣ってその絆と意志を確かめ合った。
やおら指揮官は横の従者に声をかけた。若いと言うよりも幼さの残るその従者は、先ほど咳き込んだ時に溢した葡萄酒で胸元を濡らしていた。
「我らが突撃したら其方はここを離れ、城の者どもや民に戦況を伝えよ」
心外だと不満げな表情を浮かべた従者が何かを伝えようとするのを制して、エルドレッドは言った。
「あの詩人殿もそうだが、我らがどれほど勇壮で立派であったか、お主にはそれを伝える証人になって欲しいのだ」
「で、ですが」
「いつか……たとえアラン人に屈する日が来たとしても、この抵抗の記憶が残る限りベオルニアの民はその屈辱と困難に耐え忍ぶことができると信じている。我らがやろうとしていること、お主に託そうとしていることは、そのようなことなのだ」
「……」
「我らとともに最後までというその志は嬉しく思う。だがな……」
「わかりました」
最後まで聞くことなく従者は応じた。それは自らを無理やり納得させるための行為であった。話の腰を折られた形になったが、エルドレッドは若き従者の返事に満足して前を見据えた。
押し寄せるアラン人は怒涛のようにベオルニア軍に迫りきり、首領のオラーブが控えるアラン人たちの本陣はその守りが手薄になっていた。
その様を見ながら、エルドレッドは突撃の時を待った。
アラン人たちの背後に顔を出す〈橋〉、すなわち潮間帯の小径がじわじわと水に浸かりつつあった。潮が満ち、戦場とアラン人が宿営する小島とが切り離されようとしていた。
もっとも、勝って夕刻を迎えるつもりのアラン人たちは、それを意に介さない。そして戦況も、明らかにアラン人の側が優勢だった。それなりの出血を強いられていたが、敵方の被害はそれよりもはるかに大きく見えた。
手柄を立て損ねてはならないとばかりに、いきり立つアランの戦士たちは競って敵のただ中に繰り出し、首領オラーブが苦笑するほど本陣付近の守りは薄くなっていた。だが、それを危惧する必要もないほど戦は順調だった。
その時、べオルニス人たちが待ち焦がれた瞬間が訪れた。
突如としてアランの本陣が騒がしくなった。それまで静寂の中にあったその本陣に砂煙が舞い上がり、混乱の声が大きく響いていた。虚を衝かれたかのように、べオルニス人と斬り合いを結んでいた前線のアラン人たちは本陣の方を振り返り、その混乱ぶりを確認すると呆然とした。諸所で「本陣に戻れ!」といった声が飛び交い、攻めるか退くかの判断に各々が戸惑った。
そこに隙が生まれた。
「いくぞっ!」
エルドレッドは最後の指令とばかりに、短く、だが大きく麾下の戦士たちに号令した。
疲れた体に鞭打って、べオルニス人たちは塊となって最後の決戦に打って出た。重い足を無理にあげて、彼らは敵の本陣を目指して走り出した。
本陣の混乱に戸惑う前線のアラン人たちは、後方の窮地を救うべくべオルニス人に背後を見せて後退している。
それを狙ってべオルニス人は半ば一方的に、後退するアラン兵を屠っていく。無駄に撃ち合いや斬り合いはしない。負傷させて、戦闘不能にして仕舞えばそれでよかった。雑兵に構う必要はないとばかりに、彼らは咆哮とともに一気呵成に敵の本陣を目指して走り続けた。
アラン人たちの本営は混乱の極みにあった。
「なんだこれは!」
狼狽してオラーブは周囲を怒鳴りつけた。突然、彼方から矢の雨が降り注ぎ、自身もまた肩や足に矢傷を受けていた。傷そのものは大したものではない。だが突然現れたベオルニアの兵団に、自身も戸惑っていた。
アラン人の側面に、突如として現れたのはベオルニア騎兵隊だった。満潮でアラン人の退路が断たれ、前線が伸び切ってその本営の守備が薄くなるその時まで、彼らは前夜からひたすら隠れ耐えていた。数こそ少ないが、それは油断しきっていたアラン人たちに混乱の種を撒き続けた。
べオルニス人もアラン人も、騎馬の戦いなど知らない。馬は戦場までの乗り物でしかなかった。騎兵戦は遥か西方の草原の民の戦い方で、農耕の民は騎射の技はおろか騎馬戦の術さえもままならない。
だが、その数百騎の騎兵は戦場を荒らした。止めた馬上から弓を射て、アラン人の頭上に矢の雨を降らせた。狙って射ているわけではなく闇雲に、だが間髪を入れずに
アラン人は動くことができなかった。傘のように頭上を盾で覆い耐えた。不運にも流れ矢に射抜かれ、地に足を縫い付けられ傷つく者も多かった。その永遠にも感じる長い忍耐の時が過ぎ、矢の雨の勢いが弱まるや、彼らの正面には槍を抱えて突進するベオルニア騎兵の第一陣が迫っていた。
円盾を重ね合わせ、馬を止めようとするが叶わず、アランの陣は瞬く間に崩された。馬上から槍を繰り出し、ベオルニア騎兵らは敵を貫いていく。流れるような馬捌きではない。騎兵戦に慣れぬ直線的な猪突は、しかしこの場においては脅威となった。決死の騎兵たちは槍を失うと剣に持ちかえ、すれ違いざまにアラン人達に振り下ろす。その多くは空を切ったが、高所から打ち下ろされる剣にアラン人は戸惑いを見せ、馬の脅威から逃れるべく無秩序な動きを見せた。
そこに、本陣の危機を救おうと前線から舞い戻った兵士たちが殺到し、人流の停滞が発生した。一度駆け抜けた騎馬の第一陣が反転して突っ込み、第二陣と合力してアラン人を挟撃しようと、その滞留の中に切り込んできた。
味方同士が重なり合う混雑に武器を振るうことすらままならず、アラン人は浮き足立った。そこにエルドレッド率いる正面からの歩兵たちが
つまづき地に倒れるアラン人を踏み越え、跳躍しながら若いベオルニア兵がアランの戦士に剣を突き立てた。引き抜こうとして抜けず、彼はそのアラン人から戦斧を奪うと、扱い慣れぬ武器ゆえに闇雲に振り回し、周囲のアラン人を薙ぎ倒した。その横の壮年の兵士は剣を折ると、盾を振り回して敵を殴りつけて地を這わした。そしてすかさず相手の得物を奪い取り、地に突き刺した。絶命を確認することなく、べオルニス人は次なる敵を見つけ、再び盾を振って幾多の敵を地に叩きつけた。
蛮勇でよかった。今ここで必要なのは行義の良い戦いではなく狂気であった。生き残ることを捨てたべオルニス人は、自らの体が動かなくなるその時まで、どれだけのアラン人を道連れにできるか、それを競うかのように剣を振り回し、盾で殴り続けた。
その姿にアラン人は、彼らの伝承に語られる
狂気に身を任せて手当たり次第に得物を振い続けるべオルニス人の中にあって、理性を保つべき指揮官エルドレッドは、一団を率いて敵の大将を探していた。すると肩を押さえながら声を張り上げ混乱を落ち着かせようとしている、人きわ豪華な兜を身につけるアラン人戦士を見つけた。
あれがオラーブか、そうつぶやいてエルドレッドは方向を定めた。
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