第三章 戦場の糸繰草
戦場の糸繰草(一)
風が吹いた。
夏の海風が持つ湿り気が睫毛に粘りつき、思わず閉じた瞼を再び開いた時、改めて目に映る光景に、川岸に佇むエルドレッドの気持ちは沈んだ。
河口に浮かぶ小島の向こうには、北の民アランの船団が見えた。島向こうの汽水域を覆い尽くすその船には、円形の盾が所狭しと飾られ、その隙間からは夏の陽射しを受けた刃の煌めきが
船上だけではなかった。島には武装したアラン人戦士たちの塊が、迫りくる決戦の時を静かに待っていた。その数、三、四千ほどであろうか。流れを挟んで対峙するべオルニアの兵士はその半分もあるだろうか。若干の騎兵を含む二千弱。
彼我の兵力差に、ベオルニス人の指揮官エルドレッドは小さく溜息をついた。
タイン地方の
悲壮な覚悟で、こちらも来るべき運命の時を待っていた。
既に数度の小競り合いはあった。
河口に浮かぶ小島を含む一帯は、豊かなベオルニア王国を守る天然の城壁であった。その小島を境に川底が浅くなるうえに、激しい干満の差は川を干上がらせた。これでは北の民が誇る喫水の浅い
その僅かばかりの時間を使って北方の戦士は攻めてきた。だが通常は水の下にあるその狭い小径は、当然ながら足場が悪かった。泥砂のぬかるみに足を取られ、敵の動きは鈍る。守るべオルニス人は小径の終着地に厚く兵を配置し、攻め込む敵に矢を浴びせかけた。それを掻い潜ってたどり着いた敵兵は、待ち構えるべオルニア兵の槍に貫かれた。北の戦士たちはこの〈橋〉と呼ばれる潮間帯を突破しようと躍起になっていたが、その試みは徒労に終わっていた。
この戦い方であればベオルニアは負けない。ベオルニアの戦士たちは、食い止めている間に援軍が来ることを期待した。だがそれは薄い
──援軍は来ない。
特に指揮官たるエルドレッドにはそれがわかっている。
誰も彼もが、自領を守るのに手一杯で、わざわざこの地に赴いてアラン人との戦いに合力する余裕はなかった。兵を送って領地が手薄になったその時に、船の速力を活かした北の民に急襲されたらたまったものではない。国王を含む沿岸の諸領主たちは自領が標的から外れたことに安堵し、タイン地方の
北の民アランの襲撃に直面したこの河口の都市アデルは、王の都へと続く街道が通り、
天然の防壁ともいえる潮間帯に苦しめられているとはいえ、干潮時にのみ対岸とつながる小島は、すでにベオルニアの沿岸各地を襲撃してきた北方民にとっては、水に守られた格好の宿営地と言える。かつ、襲撃に失敗して撤退を余儀なくされた時には、時間を稼ぎながら乗船を行うことができる。
この利便性の高さゆえに、アラン人はこの小島にこだわった。
そのこだわりは守るべオルニス人にとっては幸いであった。エルドレッド率いるベオルニス人戦士たちは、干潮時に顔を出して島と対岸を繋ぐ、潮間帯の狭い小径を死守すればよかった。
しかし、この戦い方には限界があった。
アラン人たちはこの持久戦に付き合う必要は無い。彼ら北方民の目的は征服ではなく、略奪あるいは脅迫によって金品をせしめることだ。ここでの戦いが長引けば長引くほど、アラン人たちはこの戦場に価値を見出せなくなる。そうなると襲撃者たちはこの地を離れ、別の場所へと向かうだろう。
そして、その時は近かった。
あと数日だけ持ち堪えれば、敵は戦場を移すだろう。
しかし指揮官エルドレッドは思う、「だがそれは、自軍の勝利や安全と引き換えに、この国のどこかの土地が略奪の餌食になることを意味する」と。
自軍の勝利を優先するならば、今のままで良い。だが、べオルニア戦士としての誇りは、彼をして国土が蹂躙されるをよしとしなかった。危険な考えだとは解っていたが、各首長たちが自領の防衛のみを優先している限り、ベオルニア王国の民はアラン人の襲撃にいつまでも怯え続けなければならない。
エルドレッドはこのアデルの地で、北の民が襲撃地を移す前に壊滅的な打撃を与えたいと思っていた。だがそれは危険な賭けだった。そのため、エルドレッドはその決定を下すべきか迷っていた。
だがようやく腹をくくったのだろうか、対岸の小島を睨みつけ、こぶしを固く握りしめた。
河口一帯に、人の営為をあざ笑うかのような海鳥たちの鳴き声が響いている。
その甲高く響く鳴き声を耳にしながら川のほとりに立ち、向こうに見える小島の様子を伺うエルドレッドのもとに、近づく者がいた。その足音に振り向いたエルドレッドは、夏の陽射しに照らされて逆光に浮かぶその人を確かめるために目を細めた。
数回の瞬きの後、光に慣れたエルドレッドの目は、
「リュシアン殿か」
呟いた指揮官は、再び対岸の小島に目を移した。詩人は数歩だけ前へと進み、エルドレッドの傍らに並び立った。
満潮の今、島とこの場所とををつなぐ〈橋〉、潮間帯の小径は海に沈んでいる。
この安息のひと時、彼我の戦士たちは休息をとっている。指揮官自身も鎧と冑を脱ぎ、軽装になっていた。だが意気軒高なアラン人に対し、味方の戦士たちは疲れ果てているように思えた。当然、自らも暗い顔をしているとは感じながらも、エルドレッドは努めて明るく詩人に話しかけた。
「なぁ、リュシアン殿」
「いかがなされましたか」
「この戦には、貴殿にもお付き合いいただいたが、ここまでであろう。これより後は、貴殿の身の安全は保障できぬ」
「と申しますと」
「我らは、明日をもって最後と考えている」
怪訝な表情を浮かべ、詩人は横に立つ指揮官に顔を向けた。
「最後とは? 持久戦に持ち込んでいる間は、こちらに分がありましょう」
その通りと首肯しながらも、苦しげに表情をゆがめて指揮官は言葉を絞り出す。
「奴らアラン人が、こちらの都合に付き合う道理はあるまい。奴らの目的は略奪と脅し。ゆえに、この地にこだわる必要はない。こちらの守りが固いとわかれば、草刈り場を変えるだけだ」
指揮官の言葉に、ハッとした詩人の顔は蒼白になる。
「まさか〈橋〉を明け渡されるのですか? 」
「利口な考えでないことは解っている。だが、ここでベオルニス人の誇りを示さねば、我らは永遠に奴らの襲撃に怯え続けなければならないだろう」
「……」
「昨日、皆とは話し合った。アランの奴らにはこれから、それを伝えるつもりだ」
「エルドレッド様……」
「今まさに、
人の運命の糸を紡ぐ三柱の女神たちの名を持ち出して、エゼルレッドはその覚悟を詩人に伝えた。
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