第4話

 施錠のされていない浩之邸の玄関扉を開け、政雄は自分専用の客用スリッパを履いて、暖かいリビングに入った。

 主の浩之はソファに寝そべり、オーディオから流れているチャック・マンジョーネを聴きながら白ワインを飲んでいた。

「いいご身分だな」

 政雄は商店街で買ってきた乾き物の入った袋と、着替えの入ったバッグを、テーブルに放り投げるように置いた。

「おう、来たのか……。今、何時だ?」

 政雄の傍若無人な振る舞いに頓着せず、浩之は少しだけ身体を起こして政雄を迎えた。

「まだ五時ちょっと過ぎだよ。何か食うものあるか?」

 政雄は言いながら、浩之の返事を待たずに冷蔵庫に向かった。

「冷蔵庫を漁ったって何もねーぞ。昼間外出してて買い物はしてないからな。今日は冷えるから、どこかで鍋でもつつきながら一杯っていうのはどうだ?」

「鍋か……。そうだな、そうするか」

 冷蔵庫から缶ビールを一本だけ取り出し、政雄は炬燵に足を突っ込んだ。

「久しぶりに門仲の軍鶏鍋屋にでも行くか?」

 ソファから浩之が提案した。

「おっ、いいね!あそこの素麺みたいな豆腐、好きなんだよ」

「滝川豆腐か?」

「それそれ!当然、お前の奢りだよな?」

 缶ビールの半分近くを喉に流し込みながら、政雄は餌を貰う前の犬のような表情になった。

「年金暮らしのお前と割り勘なんて考えたことないよ。何か俺に愚痴をこぼすか、嫌なことを頼みたいんだろ?本来ならお前の奢りにしたいとこだけど……まあ、仕方ないよな。但し、バスで行くからな」

「バス?最高じゃん!俺、都バス大好き!」

 缶ビールを飲み干し、政雄は炬燵から立ち上がった。

「お前にはプライドってものが無いのか?元部下とかが今のお前を見たら、情けなくなって舌を噛み切るぞ……。どれ、席が空いているか電話してみるから待ってろ」

 浩之ははしゃぐ政雄に、犬に対するように待ての指示を手で示した。

 飼い主に従うように、店と電話で話している浩之を見て、政雄は大人しく炬燵に座り直した。

「六時半からなら空いてるってさ。店でガブ飲みされたら困るから、もう一杯飲んでから行くぞ」

 浩之はグラスに白ワインを注いでから言った。

 政雄も冷蔵庫に缶ビールを取りに立ち上がった。

「お前、バッグを持ってきたみたいだけど、泊まるつもりか?」

 チーズをつまみながら、浩之は政雄に訊いた。

「おう、暫く厄介になるよ。掃除に買い出し、料理は任せておけ」

 炬燵に入ってから缶ビールを開けて、政雄は屈託のない声で応えた。

「厄介になるって……。奥さんに追い出されるようなことしたのか?」

「逆だよ、逆。あいつがやらかしたんだよ」

 政雄は吐き捨てるように言って、缶ビールを呷った。

「奥さんが?……何をやらかしたってんだ?」

「それは後のお楽しみってことで」

 政雄は秘密めかした言い方でお茶を濁した。

 だが、親友の浩之とはいえ、自分の妻の不倫疑惑をどこまで話すべきかの判断がつきかねていた。

「お楽しみって、いいことでもあったのか?」

「それも逆!素面では言えねーよ!」

「なんだそれ……。どっちにしろ大したことじゃないんだろ?」

 笑いながら浩之はグラスのワインを飲み干し、外出の支度をするために自室に向かった。


 軍鶏鍋屋では隣のテーブル席に座っている仲睦まじい老夫婦が気になって、とてもではないが微妙な夫婦関係の話が出来る雰囲気ではなかった。

 浩之も特に政雄に話を催促しなかったので、二人は料理に舌鼓を打ちながら毎度変わらぬ馬鹿話をして店を出た。      

 ナイフの刃先のような三日月が輝く寒空の下、政雄と浩之は無人の深川公園を通って、富岡八幡宮近くの〈EPITAPH(墓碑銘)〉に河岸を変えた。

 カウンター席と四人掛けのテーブルだけの小さな店で、政雄たちよりは少し若いマスターが一人で切り盛りしている。

 この店は数年前に政雄が取引先の接待の二次会で連れてきてもらったのがきっかけだ。

 以来、店の雰囲気とリーズナブルな価格が気に入って、政雄は会社を辞めてからも、浩之や勤めていた会社の仲間と飲みに来ることがある。

 白髪交じりの長髪に顎鬚、一見ミュージシャンか芸術家っぽい雰囲気のマスターは、客が話しかけたりせずに、カウンターの隅でグラスを磨いたりしていて寡黙にしている。

 決して気難しいということではなく、こちらが話しかければ、ベールに包まれてはいるが、豊富な人生経験と博識ぶりを発揮し、面白可笑しく会話を楽しませてくれる。

 樫の木の扉を開け店内に入ると、時間が早いのか先客はなく、マスターはグラスを磨きながら小さくお辞儀をして二人を迎え入れた。

「こんばんは、寒いねー」

 ダウンジャケットを脱ぎながら、政雄が挨拶をした。

 浩之もハーフコートを脱いで、壁にあったハンガーにコートを掛けた。

 カンター前の止まり木に、二人はよいしょと言って腰を下ろす。

 マスターが「いらっしゃいませ」と言って出した温かいおしぼりで手と顔を拭きながら、政雄と浩之はバーボンのロックと、レーズンバターを注文した。

「お二人でお出でになるのは久しぶりですね」

 注文されたバーボンとチェイサーのグラス、それとサービスのナッツ類、政雄の前には灰皿を置いて、マスターは温かく微笑した。

「そうだね。こいつと来るのは半年ぶりかな」

 政雄が浩之にグラスを軽くぶつけて、マスターに応えた。

「俺は先月来たけどな」

「えっ!誰と?」

「一人だよ」

 ねえ、と言うように浩之がマスターを見た。

「お一人でしたよ」

 マスターは切り分けたレーズンバターを置きながら呟くように言い、カウンターの隅に戻ってグラスを磨き始めた。

「実はさ……」

 政雄は軍鶏鍋の店では喫えなかったタバコに火をつけ、白濁した煙とともに唐突に話を始めた。

「あいつに男がいたんだよ……」

「あいつって?」

「女房だよ!」

 吐き捨てるように言って、政雄はバーボンを一口飲んだ。

「何言ってんの?話が全くみえない……」

「だから、優子に付き合ってる男がいたんだよ。昨日の夜、西船橋駅で仲良く腕を組んで歩いてる二人を、偶然目撃しちゃったんだよ」

 政雄はポカンとしている浩之の顔を見ずに、絞り出すように言い、昨夜からの顛末を包み隠さずに話した。

 政雄は横目でマスターの様子を窺ったが、冷蔵庫の中を調べたり、サラミをスライスしていて、こちらの話を聞いている様子はない。

 店内には、スローテンポなジャズが程良いボリュームで流れていて、二人の会話はマスターにまでは届いてはいないようだ、それとも、こういった店のルールとして、客の話を極力耳に入れないようにしているのか……。

 

 バーボンのお代わりをしながら話を聞いていた浩之は、政雄の話が終わると大きなため息をついた。

「いつからなんだ?」

「知らん……。追及しようにも逆ギレ状態で、取り付く島もないって感じだ。なんで女って自分の正当性ばかり主張するんだ?どういうロジックで自分が被害者だって風に話をすり替えられるんだろ……俺には理解できん」

 政雄も嘆息交じりに、頭を小さく左右に振った。

「まあ、女に限ったわけではないけど、後ろめたいことがあると、逆に攻撃的になるやつっているからな」

「いるなー。会社にもいたよ、そういうの」

「俺の勤めていた会社にもいたな。俺は直接被害を受けたわけじゃないけど」

 浩之はグラスを軽く回して氷の音をたててから話を続けた。

「隣の部署のおばさんなんだけど、といっても四十代前半で小学生低学年と保育園に通う子供がいる女でさ。それが自己主張の塊というか利己主義の権化、自分勝手さなら世界チャンピオンみたいなモンスターなんだ」

「〇〇?」

「お前はどうしてこの手の話になると容姿を気にするんだ?」

「だって頭の中で画を想像するときには必要だろ」

 タバコの煙を鼻から出す政雄に顔を顰めたが、浩之は眼鏡を指で上げる仕草をしてから不承不承頷いた。

「まあ、性格も悪く容姿もそんななのに、良く結婚出来たなって、みんなが噂をしていたような女だ」

「で、そのおばさんがどうしたって?」

「まず働かないし、その上、とにかくしょっちゅう休むんだ。子供の熱が出た、お腹が痛いと言っている。近くに住む母親の病院に付き添いで……例を挙げたらきりがない。有給休暇は完全消化、生理休暇も毎月キッチリ。しかも業務が一番立て込んでいる時でもお構いなしで、突然メール一本で何日も休むんだ。もちろん休暇を取る権利はあるし、仕方がない事情のこともあるだろうけど、周りに対する配慮とか感謝の念が一切ないんだ」

「いるいる、そういうやつ」

「で、その部署の課長が他の社員から突き上げを食うんだよ。私のところも小さい子供がいるけど出来る限りみんなの足を引っ張らないようにしているのに、なんであの人にだけ甘いんだって」

 浩之は苦いものを飲み込むようにグラスに口をつけた。

「うちの会社にも似たようなのがいたなー」

 政雄は天井に視線を向けて呟いた。

「まだ続きがあるんだよ。うちの会社は半期に一度人事考課のための面談があるんだ。課長は課員全員としなきゃならないから、この時期はホントに憂鬱になる。まあ、部下の方も嫌なのは一緒だけどな。で、その際、課員は今期の自己評価を各項目毎にSからABCDと五段階にするんだな」

「うちも一緒。似たようなもんだ。出来ないやつ程自己評価が高くてさ。それを面談でこっちの評価との違いを説明するんだけど、自己評価を高くつけるやつって例外なく自己主張の強いやつだから往生したよ。こっちの言い分に納得しないのは、ひどいのになると人事や組合に泣きつくからな」

 憤懣やるかたないといった表情で政雄はグラスを空け、マスターに追加を注文した。

「まあどこも同じだよな。で、そのおばさんの自己評価が常軌を逸してて、全ての項目で最高のSをつけてくるんだ」

「マジで?本気でそう思ってんのかね?」

「分からん。毎回面談で、課長がおばさんの超高い自己評価と自分がつけた評価の違いを説明するんだが、そのおばさんはヒステリーを起こすんだな」

「なんて言って?」

 政雄は少しうんざりした口調になる。

「私は一生懸命働いて、家事や育児も頑張っているのに、なんでこんな評価をするのか、私の給料が安いのは課長のせいだという屁理屈を言うんだ。しまいにはうちの家庭を貧しいままにして子供たちに十分な教育が出来なかったら、それは課長のせいだと言い出す始末らしいんだ」

「もう、頭がクラクラしてきた!で、その気の毒な課長はなんて応えるんだ」

 政雄はグラスの氷を口に放り込んでから、バリバリと音を立てて噛み砕いた。

「もちろん、業務上のミスや雑な仕事の仕方。後輩メンバーへの仕事の丸投げなんかを指摘するんだけど、それは上司のあなたのマネージメントが悪いから、効率良く業務が行えないんだと反論するらしんだな」

「ひえー、聞いてるだけでぶん殴りたくなった……。休みがちで周りに迷惑をかけてることは言わないのか?」

「それは地雷を踏むようなもんだから、敢えて指摘はしないさ。無断欠勤してるわけじゃないからな」

「救いようがない……」

 政雄は暗澹たる気分になった。

「その課長ってのが生真面目な性格で、上司にも詳細を報告しないで、自分で抱え込んじまったんだな。毎回面談の度に悪口雑言を浴びせられ、その後も言いたい放題のメールの嵐が来てたらしいんだ」

「なんでそんなババアがのうのうと会社にいられんだ。いくら大手企業だからって、そんなに甘いのか?お前の会社は」

 話をしているうちに怒りが込み上げてきた政雄は、ついにババア呼ばわりした。

「うーん、ちょっとおかしいところがあって、人事も手を焼いている程の有名人なんだ」

 浩之は右手の人差し指をこめかみ辺りでくるくる回した。

「で、まだ会社にいるのか?」

「それが例えは変だけど、盗人に追い銭で、数年前に業績不振でリストラがあった時に、運がいいというか悪運が強いというか……。商社勤務の旦那がバンコクに転勤になるってんで、さっさと希望退職に応募して、たんまりと退職金をせしめて辞めたよ。今頃は南国でお手伝いさんのいる家でのんびりしてるんだろうな……」

「なにー!お前の会社はどうなってんだ!勧善懲悪の風土は微塵もないのか!」

 政雄は両方の鼻の穴から、勢いよくタバコの煙を噴出した。

「お前がそんなに怒ってどうする。確かに可哀想なのは課長の方だよ」

「どうなった?……予想がつくからあまり聞きたくはないが」

「そのおばさんのせいかどうかは分からんが、鬱状態になって、産業医から暫く休職するように指示が出ちゃってたから、そのおばさんと同じタイミングで希望退職をしちゃったよ。周りからはあの女のせいで辞めざるを得なくなったって同情が集まったけど、人事としては本人の強い希望だってぬかしたらしいが」

「ひえー」

 政雄は気の抜けた感嘆符しか出てこない。

「その課長にだって奥さんと小さな子供もいて、守るべき家庭があるのに、家庭崩壊は大袈裟だけど、将来設計が大きく狂ってしまったからな……。ある意味では本当の被害者だよ」

「やりきれないな……。被害者ぶってるバカ女は南国で人生を謳歌しているのに、ホントの被害者たる善良な課長は、精神的に病んだ上に会社を辞めちまうんなんて」

 とうとう政雄は見ず知らずのおばさんをバカ女呼ばわりした。

「でも被害者ぶって周りを不快にさせるのはそのおばさんだけじゃないぜ、老いも若きも男も女にもいるさ。」

「うちのもその口だな。どうしてそういう思考回路になるのか理解できん」

 政雄は優子の般若の形相を思い浮かべたが、頭を振って映像を消し、バーボンを一気に飲み干した。

「とにかく損をしているという前提に立ってるんだな。だから被害者になることで、本来しなければならない義務とか責任が免除されると思い込んでるんだよ。逆に、加害者たる相手には、どんな理不尽なことでも要求する権利があると勘違いしちゃうんだな」

 浩之は壁の棚に並んでいるボトル類に視線を向け、頭を軽く振った。

「それって、良く分かる……」

 政雄は浩之の言葉に頷いた。

「それよりお前はどうすんだ?今日は泊まってもいいけど明日は帰れよ。お前たち夫婦の問題に俺を巻き込むのだけは勘弁してくれ」

 浩之は心配顔で言い、バーボンのお代わりをマスターに頼んだ。


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