第39話

「さぁ、鹿波さん。悠華の隣に」


 悠華さんが私に微笑む。

 どうして笑えるの。私に言ったことが本当ならもうすぐ死んでしまう。なのに……どうして。


「悠華さん、怖くないんですか? ……悠斗さんも」

「私にはわかるもの、これから何が起きるのか」

「まさか、悠華さんは危害を……加えられて」


 潤ったはずの喉が渇く。

 悠華さんが死ぬ理由は何? 彼の復讐はどうやって遂げられるの? 首を締めるのか、悠華さんの体に……ナイフを突き刺して。


「あずささん、あなたは」


 クスクスと悠華さんは笑う。


「好きな人を人殺しにしたいのかしら」

「だって、人が死ぬには」

「鹿波さん、彼の仇は悠華ではないだろう。飲み物を、少し落ち着こう」


 カップを受け取った手が震えている。

 食事には不釣り合いなミルクティーの匂い。

 悠斗さんに動かされるまま、悠華さんの隣に座り込む。どうしてふたりは落ち着いていられるの。私がどうかしてるのかな。


「私に言えることはひとつだけ。信じてほしいの……高瀬蒼真を」

「蒼真君? どうしてですか?」

「彩芽があなたに語ったことは何?」

「……私に」


 ——私とカナタの未来。蒼真が……導いてくれる。


「高瀬蒼真は彼の復讐を待っている。彼への贖罪と、私達をいつかの未来に導くため。それに……妖魔と同化した時点で、私の命は私のものではなくなっているのよ。この体も何処までが私のものなのか」


 空に伸ばされた手が音を立てて溶けだした。どす黒いものが腕に流れレジャーシートへと滴っていく。


「それでも生きてるじゃないですか。蒼真君も悠華さんの中で」


 命の重さを比べることは出来ない。

 人を喰わなければそれでいいのに。


「だからこそ解放しなくてはいけないのよ、高瀬蒼真を」


 蒼真君を……解放する?


「高瀬蒼真は子供のまま時が止まっている。妖魔として生き続けることが、彼の幸せだと言えるのかしら」


 強い風が私達を包む。

 子供のままの蒼真君と、歳を重ね日々を過ごす彼と高瀬さん。蒼真君はどんな気持ちだろう、ひとりだけが……過去に取り残されたままなんて。


「私の夢物語。それはいつかの未来、お兄様と出会い恋をすること。歪みのない世界で生きていくのよ。互いを愛し守りながら」

「本当に訪れるんですか? そんな未来が」


 どんな世界にだって歪みは存在する。

 人を惑わし事件や争いを起こすもの。


「訪れるさ、僕は信じてる」


 悠斗さんの力強い声。

 彼は悠華さんを深く愛している。命を投げだしてでも悠華さんと共に。きっと……悠斗さんは地獄すら恐れない。


「私は高瀬蒼真を連れていくつもりよ。私とお兄様が導かれる世界へ。この子がいなければ……今の私は犯されるだけの」

「……悠華さん」

「そんな顔をしないで。あなたが考えるほど事態は深刻ではないの。本来なら、私と妖魔を殺せば彼も死ぬはずよ? 彼が死なない理由を考えてみたらどう?」

「そんなこと、私にわかるはずが」

「だからあなたは見届けるのよ、何が起こるのかを。さぁ、彼が来る前に食事を。自慢の料理、レシピを教え込まなくちゃ。あなたの思い出として、私が生き続けるために」


 悠華さんに勧められるまま手にしたサンドイッチ。

 笑い合うふたりのそばで、私は食べることしか出来ないでいる。


「悠華にも作れない料理があるんだ。なんだと思う?」

「お兄様ったら。私に料理下手のレッテルを貼りたいの?」

「違うよ、完璧すぎたら鹿波さんが困るだろう」

「完璧でいいのよ。凛とした私のまま、覚えていてほしいもの」


 向けられた柔らかな笑み。悠華さんもこんなふうに笑うことがあるんだな。

 晴れた空と料理。私が入れないままふたりで盛り上がるレシピの話。

 このままずっと、楽しいことが続けばいいのに。


「ねぇ、あずささん」

「なっ……なんですか?」


 ふいの問いかけにドキリとする。何を聞かれるんだろう。


「私のこと、友達だと思ってくれてる?」

「え?」


 どう考えても私は悠華さんとは釣り合わない。友達というよりは、同じ歳の綺麗な人。

 どうしたらいいんだろう。悠華さんは思考を読み取れる。嘘を言えば悠華さんを傷つけるし、正直に答えても気を悪くされるだけ。


「聞かなくてもわかるじゃないですか。私の思考を読み取って」

「読まないわ」


 私を見るまっすぐな目。


「もう何も読まない。嘘でも構わない、友達だと言ってくれるなら、それだけでいい」

「悠華さん、本当に」


 私を友達だと思ってる?

 こんな私を、悠華さんは


「あずささん? あなたにとって私は」

「とっ友達です。悠華さんは私の、素敵な……友達」

「そう、ありがとう」


 悠華さんは笑った。

 声を弾ませ、頬を赤らめて。

 読まないと言ったのは嘘かもしれない。それでも私を包む嬉しそうな笑顔。

 そんな顔を見せられたら私は。

 日々を重ねて、心から友達だと言えるなら。


「悠……」

「もう思い残すことはない。私の命、君に託すわ」

「うん、悠華」


 蒼真君の声が響いてすぐ。

 悠華さんの体が溶け崩れ、どろりとしたものに変わっていく。ゴボゴボと音を立てながら。サンドイッチやサラダ、レジャーシート……見えるものすべてが黒いものに飲み込まれていく。


「悠斗さん。……悠華さんが」

「彼だ」


 悠斗さんの声が私の鼓動を弾く。


「霧島愁夜ともうひとり」


 ゆっくりと振り返った。

 ふたりが近づいてくる。 


 埃まみれの彼と白で統一された白夜さん。



 ゴボ……

 ゴボリ……



 黒いものが不気味な音を立てた。

 私のすぐそばに……妖魔がいる。


 平然と妖魔を見る彼と、顔をこわばらせる白夜さん。


「霧島君。あれが、君の仇なんですか」

「そう、家族を喰い殺した妖魔」

「僕の両親……妹が、ここで?」


 足を止めあたりを見回す白夜さん。彼は足を止めず近づいてくる。


「あずさ、怪我はないか?」


 声が出ない。 


 怖い、これから起きることがなんなのか。

 悠華さんは私に何を見届けろと言うのか。


 うなづくだけの私に彼は微笑んだ。

 妖魔を前に彼はどうするんだろう。膨れたコートのポケット、入っているものは何?


「愁夜サン、ヤット……会エタ」


 蒼真君と違う嗄れた声。


「ズット会イタカッタ、僕ノ……ヒトリダケノ友達」


 ひとつだけの目がギョロギョロと動き回る。彼は動じる様子もなく白夜さんに振り向いた。


「大丈夫ですか、白夜さん」

「はい。ですが、想像してた以上におぞましい」

「無理はしなくていい。僕から離れて」

「いえ、僕は」


 白夜さんと目が合った。

 彼と同じ顔に浮かぶ微かな笑み。


「決めたんです、彼女に恩返しをすると。逃げる訳にはいきません」


 彼と肩を並べ、白夜さんが妖魔のそばに立った。


「和瀬悠華、彼女はどうした?」

「僕ノ中デ眠リニツイタ。覚メルコトノナイ眠リニネ、ダッテ愁夜サンヲ……人殺シニハ出来ナイカラ」

「友達への配慮ってやつか」

「ウン。悠華モ愁夜サンモ苦シメタクナイカラネ」


 妖魔の目が細まった。

 蒼真君の気持ちを現すかのように。


妖魔ヲ受ケ入レテカラ、悠華ガ考エダシタ夢物語。ソレガ僕ヲ変エテクレタ。自由ガイッパイノ夢物語ニハ、僕ノ居場所ガアッタカラ。悠華ハ僕ヲ家族ダト思ッテクレタ。嬉シインダ、蒼波兄様ト同ジクライ……悠華ガ大好キダヨ」

「……悠華」


 呟いた悠斗さん。

 伸ばされた悠斗さんの手が妖魔の体をなぞる。


 悠華さんを……愛おしむように。

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