第2話

 街は夜。こもった熱に汗を滲ませながら、顔の映らない人のまばらと言うには少し多い道を行く。ここから振り返っても裏のマンションは聳えていて、まるでこの街の全てを監視しているみたいだ。僕を呼ぶ看板達の色味にももう慣れて、その一つ一つに気を取られずに街の中央部に進む。人の立てる音で蝉の声が聞こえない。でも月子が横にいる。「何が食べたい?」と会う度に繰り返して来た問いを彼女に投げかける。

「んー、よく分かんない。食欲自体があまりないかも。星くんは?」

「僕はしっかりお腹が空いてるよ。回鍋肉とかどう? 『天界』の」

 月子は「いいよー」と間伸びした声で返事をする。彼女が軽く溶けているのは夏に限ったことではないから、僕は「じゃあ天界で」と応じる。僕達は身を寄せ合わず、手も繋がない。だから二人の間を自由に風が抜けられるのに、今日は空間そのものが湿度に停滞したかのように吹かない。それを練り広げるように歩き、パチンコ屋の前で煌びやかな光に照らされている古ぼけた、煤で焼べたかのような中華料理屋「天界」に入る。

 混んでいて、最後の一つ開いていたテーブルに通された。隣のサラリーマン風の中年と青年の二人、年の頃は僕達と同じくらいだろう、その若い方が興奮気味に店員に話しかけている。

「本棚に阿佐田哲也しかないって、店名の『天界』はやっぱりあの『天界』なんですか?」

「店主の趣味です」店員の若い女性は素っ気ない声。

「メニューの、平和ピンフ定食とか、一盃口イーペーコー定食も魅力的ですけど、やっぱり役満の大三元定食、国士無双定食が気になります。おすすめはどれですか?」

「役満定食は特におすすめです。単品もありますよ」

「どうしよう、もう少し悩んでいいですか?」

「ごゆっくり」

 店員はくるりと僕達の方を向く、愛想笑いよりもうちょっとだけ親しみのある笑顔。

「こんばんは。今日はどうしますか?」

 僕はメニューを開かずに彼女の顔を見る。「いつもの、回鍋肉とご飯大盛りで」彼女が視線を月子に向ける。月子は「私も回鍋肉と、ご飯は少なめでお願いします」と言い、店員がそれをさっと手許のメモ帳に書き記してから僕達の場を去る。隣で僕達の話を聞いていただろう若いサラリーマンが、あの、と月子を呼ぶ。

「定食より、回鍋肉の方が美味しいんですか?」

 月子はその声を僕にトスするような目線を送って来る。だから、僕が答える。

「色々美味しいですよ。でも、最終的には回鍋肉に行き着くと思います」

 サラリーマンは「そうですか」と言って、僕ではなく月子に会釈をして自分のテーブルに収まる。横に広がった空間が縦二つに断絶する。月子が携帯を出して少しの時間触ってそれをしまう。僕の携帯からメールの着信音が鳴る。短いフレーズだけど僕が作った。見れば月子からメールが来ている。

『ひどい顔してるよ。隣の人のせいだよね。私は星くん一筋だから大丈夫』僕は右手で自分の顔を撫でる。

「そんなにひどい?」

「最近で同じ顔をしたのは、どこかの新人賞の小説を読んだときがあったね」

 ひどい顔とひどい顔が掛け合わさったら、笑いが込み上げて来た。きっと最後まで読めば面白さが発生する筈だと自分に言い聞かせて苦行の読書をして、ゴールテープの先に何もなかったそのとき、僕はその怒りを月子にぶつけそうになって必死で堪えた。丁寧に憤怒を言葉に整復しながら口から流して、月子は最後まで聞いてくれて、そんなものしか生み出せない作品が楽しみにしていたものだったとは、僕は月子の許可を得て小説雑誌を思い切り叩き付けた。そのときの顔、僕は眼鏡を外して両手で顔を揉む。揉みながら笑いをこぼす。

「それは、醜いものを見せたね」

「うん。でも、もう殆ど溶けたよ」月子は僕の真似をして彼女の顔を揉む。僕達は手を交換して揉み合ってもよかった。だけどそんなことはしない。テーブルの上で手を繋いだりもしない。店内のそれぞれのところで客が食べたり、喋ったりする音が聞こえる。顔を揉み終えた月子が座っている。回鍋肉が一番だと分かるまでに費やした食事は、ここが僕達の行きつけになるための時間でもあった。導き出す時間の結果を知らない人に伝えることに躊躇する程ケチじゃない。

「僕はケチな人間にだけはなりたくないんだ」

「知ってる」

「ケチってのは守らなくてもいいものまで、与えることを嫌がる人間だ。でも、守るべきものを守るのはケチじゃない。そうだよね?」

「守るべきものを守れないのは、弱者だよ」

 弱者の響きが僕の胸に光の帯を通すようにスッと入る。「弱者」と僕は反響させる。

「僕は弱者にもなりたくない」

「星くんは弱者じゃないよ」

「でも、守るための力がまだ足りない。怒るだけじゃ守れない」

 月子はまるで僕が分かっていないであろうことを急に理解したのに驚いたような顔をする。僕は散々月子を困らせて来た。今日みたいなことがある度に、僕は不機嫌になって終いには怒って、彼女はそれに付き合って、でもその怒りが何も守ることになっていないことに、理性として僕は気付いた。僕に必要なのは力であって、方向性のない感情の発散ではない。このことを月子に伝えるチャンスを僕は待っていた。僕は続ける。

「力を付けたい。最近そう思うようになったんだ」

「それってものすごい成長だね」

「未熟で悪かったね」

 月子は笑う。僕の悪態を全て吸い込んで消化してしまうような笑み。

「自分の今を知って、なりたいものを知ったら、後はその間を埋めるだけだよ。いっぱい力を付けよう」

「色々やってみるよ。……鼻のないゾウって、ゾウだと思う?」

「それは別の生き物だよ」

「と言うことは鼻こそがゾウの本質だってことだよね? 首の短いキリンとか、飛ばないコウモリとかも同じ」

「そうだね」

「天界から回鍋肉を除いたらどう?」

「それはまだ天界だよ」

「そこがポイント。力を付けるのも、一個だけだとそれを除いたら終わりになっちゃうから、いくつも力があるといいと思うんだ」

 月子は首を捻る。

「まずは一個付けたら? そんなに焦らなくていいんじゃないの?」

 僕は黙る。彼女の言うことはもっともだ。有限な時間を分散させ過ぎたらどれも中途半端になるかも知れない。でも、終わりが決まっているのなら並行させないとどれも間に合わなくなるんじゃないか。これは熟考すべきことだ。

「じゃあさ、今の僕の、ゾウの鼻って何だろう」

「星くんの?」

「お待たせしました」店員がお盆に食事を載せて入って来た。テーブルに並べられた回鍋肉、香りによだれがじゃんじゃん溢れる。僕達は会話をやめて、割り箸を割る。

 食べ終えると気持ちが、まあるくなった。隣も回鍋肉を頼んでいた。

「行こっか」

 天界を出ると、相変わらずパチンコ屋が煌びやかだった。いつかあそこに入ることはあるのだろうか。月子はやったことがあるのだろうか。僕達は家路に就く。後ろでパチンコ屋の自動ドアが開いて、雑多な派手な音が塊になって僕の背中を叩いた。振り返ると不貞腐れたおじさんが険しい顔をしながらパチンコ屋から出て来たところだった。きっと負けたのだろう。前を向く、左に月子を感じる。

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