開かない扉の向こう

boly

第1話 1.



 人の気配がない建物は、漂う空気も冷たい。改装が決まった旧北第一寮は学園創設の頃からあるもっとも古い建物のうちのひとつで、広大な敷地内に一棟だけが北側の果樹園に面して建っている。

 人材育成に心血を注ぐ建学の志のもと、多くの優秀な人材を政財界に送り出してきた歴史ある名門校に入学を希望する者は全国に広がっており、遠方の学生を受け入れるべくその後に造られた寮は、日照などを考慮してすべて西側に建てられている。

 小学校にあたる初等部から大学院までの一貫教育が行われる学園にあって、寮を使用するのは中等部以上で、それまでのように二人部屋、四人部屋ではなく現在はすべて個室。近年では、日々の学習体制が整い集団生活の中で心身をはぐくむ理念に共感し、通学可能な範囲に住む生徒の中にも入寮を希望する者が増えている。

 明治時代の洋館を思わせるルネサンス建築のかつての寮は、当初は取り壊しが計画されていたが、歴史的建造物かのようなたたずまいを残して欲しいという声は内外に強く、協議の結果存続が決まった。

 清掃や見回り以外では滅多に立ち入る者のないこの古い建物に、毎週金曜の夜、ほの暗く揺れる灯りのともる部屋がひとつだけある。三階の一番奥。談話室という表札が掲げられたままの部屋では──。


「せんせ、……、ぼく、きょう、好きって……、」

「……」

「告白……された」

「修一郎さんに、告白ですか。同級生、でしょうか?」

「ちが……、……せんぱい。高校の」

「高校?」

「ん……、副寮長、さん」


 まだ幼さの残る栗原修一郎の頬が少しずつ赤味を帯び瞳が潤んでいくのを、「先生」と呼ばれた男は着衣のまま満足そうに見下ろす。冷たい建物の中で六帖ほどのこの一室だけが、人の熱と汗で空気までがしっとりと濡れているようだった。電気はつけず、用意された二つのランプの灯りに、ベッドに横たわる栗原の大きくはだけた白い胸が浮かび上がる。はぁ、はぁと息をつくたびに上下する小さな胸は汗で湿ったまま。黒々とした前髪はところどころ束を作って額にはりついている。この部屋に二人がやってきて、ものの数秒でいつもの行為をはじめてから一時間ほど、ずっと渇く間がない。


「ぼく、よりも……背が、高くて……、」

「その人、連れてきますか? ここに」

「うん……、だって、見せてあげなきゃ」


 男は栗原の脚の間に顔を埋めたまま、少年の左の太ももをぐいと腹に寄せるように押し上げる。そうして甘い悲鳴のような声が頭上で細く長く響くのを、長い舌と指を動かしながら堪能する。


「せん、せ……、僕もう、……っ」


 白髪交じりの髪は、四十代前半という年齢以上の落ち着きを感じさせる。その男の髪をつかむ栗原の指にきゅっと力がこめられた。


**


 食堂での朝食を終えるといったん自室に戻り、授業の用意を確認したら教室へ向かう。第一寮棟の副寮長を務める中村憲介の毎朝のルーティンにその日、一筋の変化が差した。

 ドアのノブを回すと、真っ白い靴下の足もとになにかがぱさりと落ちた。「中村憲介 様」と書かれた封筒を裏返すと、小さな字で栗原修一郎の名が書かれている。数センチほど開いていたドアを勢いよく閉めて部屋に引き返し、開封すると、


『明日の夜二十時、使われていない北側の旧第一寮で逢えますか?

 三階の談話室を開けてもらいます。

 先輩と二人だけで話がしたいんです。」


 小さく折りたたんだ紙にそう書かれていた。


『先輩と二人だけで』


 たった三行の文面を何度も読み返しながら、頬がゆるりと柔らかくなるのを憲介は感じていた。その時、「急げ!」と廊下を駆けてゆく幾人かの足音と「廊下は走らない!」と注意する寮監の声が聞こえ、あわてて封をした手紙を学習机の上に置き憲介も自室を出た。


**


 学園では伝統的に、中等部の入学式典では高等部の新二年生が、高等部の入学式には高校の新三年生が、新入生一人に対して一人が付き添う形をとっている。担当する在校生には前もって新入生のクラスや氏名が明らかにされ、校門から続く桜並木で新入生を迎えると、広大な敷地内で迷うことなく各教室や式典が行われる体育館へスムーズに移動できるようエスコートする。新入生にとっては中学、高校という新しい環境へ漕ぎ出すにあたり、ときに行く手を指し示し、ときには共に悩んでくれる先輩との絆を作るきっかけになればとの願いが込められた伝統だった。

 昨年の中等部の入学式で栗原修一郎に付き添ったのは中村憲介だった。栗原は他の生徒よりも早く、初等部の卒業式が終わった直後に、新年度より憲介が副寮長を務める第一寮に入寮していた。最初こそ、話しかけると恥ずかしそうにうつむくことの多かった栗原だが、二十センチほどの身長差をカバーするように常に目を合わせて話す憲介に打ち解けるのはそれほど時間がかからず、入学式の頃にはすでに仲の良い先輩、後輩の間柄になっていた。

 栗原と同い年の弟がいる憲介にとっては、最初こそ弟の面倒を見るような感覚で接していた。が、入学からしばらく経った頃、地元の名士である栗原が学内で優遇されているのではないかという陰口がごく一部から聞こえ出したあたりから、それまでよりも栗原を気にかけるようになっていった。副寮長として、後輩には誰にも分け隔てなく接している。ただ、自室に栗原を呼んで二人だけで話をしたり、ときには「親にも言えない」という相談事を持ちかけられることも重なっていく中、いつしか栗原に対して特別な感情を抱き始めているのを自覚せざるを得なくなっていた。

 男子ばかりの学校生活だったからという理由ではない。ただ、自分に心当たりがないわけじゃなかった。それでも、迷いに迷い、中学時代に高校受験へ向けた勉強がスムーズに運ばなかった時の苦しみさえあっけなく感じるほど、栗原への想いをどうにかして断ち切るべく、憲介は頭を悩ませた。

 けれど。

 アイボリーに淡いピンクを溶かした薔薇の花を思わせる頬と唇、切りそろえられた黒髪。不意に自分を見上げる時のまるで少女のような穢れのない表情。栗原修一郎という後輩を構成するそれらを想うだけで、身体中を恋慕の情が焼き尽くしてしまうかと思うほどだった。こんな己の姿を誰にも見せられない。一人部屋で良かったと心底思う夜は少なくなかった。

 栗原との出会いから一年が過ぎ、憲介が三年に進級してまもなく、思い切って打ち明けることにした。中等部二年になった栗原は友人も増え、寮の中で孤立することもなくなっていた。それでも寮生活で栗原がもっとも信頼を寄せていたのは憲介で、それは憲介自身も分かっていた。

 ある日の夕食時、それほど混雑していない食堂で、「隣に座ってもいいですか?」とトレイを持ち微笑む栗原を見た時、憲介はこれ以上自分の中に焦がれる想いを秘めておくのは難し過ぎることを悟った。その夜のうちに自室へ栗原を誘い、持てる勇気のすべてを振り絞って言葉にした。


「おれ、栗原くんを好きになってしまったんだ。きみのことを考えていると胸がいっぱいで、幸せなようで、でも哀しくて辛い夜もいっぱいあって。でも大好きなことには変わりなくて……ごめん。男同士なのにこんな……」


 まっすぐに憲介を見つめる栗原から視線をはずし、言い淀んでいた憲介のだらりと垂れたほうの手を、不意に栗原が取った。


「先輩。最後まで、ぼくの目を見て話してください」


 その瞳は憲介がよく知っている、くっきりとした輝きのある瞳だった。ぐっと音が聞こえるほど大きく唾を飲み込んだ憲介がやっと口にできたのは、「栗原くんが、好きです」の一言だった。それが先週のこと。


**


 寮では十七時から二十時の間に各自入浴や夕食を済ませ、その後は二十三時の点呼、在室確認までは自由時間になっている。高等部から学園にやってきた憲介は、北側の古い寮で実際に生活をすることはなかったが、管理者でもある教頭先生とともに寮の運営メンバーで自主的に清掃や棟内の見回りを引き受けている関係で、内部の構造は熟知している。昼間と違い、夜の時間帯であることがそう思わせるのか。めったに立ち入る者がないにもかかわらず、侘しさとは無縁で、むしろ建物全体に厳かな気配が漂っているように感じる。

 栗原から手紙をもらうことも、こんなふうに呼び出されることも初めてだった。はやる気持ちを抑えながら三階の一番奥にある談話室の前に立ちドアを二回、ノックした。

 扉の向こうからどうぞという栗原の声がしてドアを開けた瞬間、見知ったはずの室内が、見たこともない異様な空気で満たされていることに一瞬、声を失った。

 一歩踏み出した足が絨毯敷きの床に貼りついたように身体が固まった。電気は通じているはずなのに室内は暗く、ランプの頼りない灯りだけがゆれている。フッという笑い声に続いて「先輩」と呼びかけたのは間違いなく栗原の声だった。いつも寮や、たまに出会う校内で憲介に呼びかける声音とはなにかが違ったけれど。

 目を凝らすと、ひとり掛けのソファに脚を組んで座る栗原がいた。憲介の立つ場所から二メートルほど前方。脇には小さなガラステーブル。もう片方の脇には大きなソファ。背後にはベッド……だろうか。


「先輩を待っていました。よく来てくれましたね」

「あ、あぁ。栗原くん、あの、──」


 単に室内が暗いという理由だけではない。のどの下あたりがぞわりとする感覚に、言葉が追い付かない。そんな憲介に呼びかける栗原の声は、いつもと何ら変わらないどころか、妙に落ち着いてさえいる。


「ねぇ、先輩。先輩はこの前、ぼくを好きだと言ってくれたでしょう。あれは先輩の本当のお気持ちですか?」

「も、もちろん。本気だよ」


 何度も、何度も自分に確かめた、嘘偽りない恋愛感情だ。


「そう。神に誓って?」

「え……、あ、もちろん」


 栗原がなにを言おうとしているのかが分からない。憲介は、自分の声が震えているのが分かった。が、この部屋の異様な空気にどうにも抗うことができない。ほのかな明かりの中で栗原の唇の両端が上向きにカーブし、


「疑っているわけじゃないんです。けど、それが真実なのか確かめたくて」

「確かめる……って、どうやって?」


 栗原の唇がさっきのようにカーブを描き、指をパチンと鳴らす。それまで彼にばかり気を取られていて、栗原の背後に誰か──見るからに大人の男性である誰か――が立っていることに気づかなかった。その男の手が栗原に伸び、シャツのボタンをひとつずつはずしていく。


「え、あ、あの……ちょ、ちょっと待って」


 憲介の頭は混乱していた。目の前にいるのは栗原本人であることは間違いない。ただ、自分がわずか数分前にこの部屋へ足を踏み入れてから、目の前で起こっていることが何なのか、栗原がなにをしようとしているのかがまったく分からない。こんな栗原を見たことはこれまで一度もなかった。

 嘘だ、とようやく動いた両手で髪をかきむしるその間に栗原のシャツのボタンはすべてはずされ、ランプの灯のもと真っ白な上半身があらわになった。そこに誰のものか分からない男の手が、下劣な思惑を持って這いまわる。

 思わず叫び出しそうになるのを必死でこらえる憲介の目に映る栗原の表情は、さっきまでと変わらない。それどころか、男の行為を愉しむように甘い柔らかな声で、「どうしたの? 先輩」。

 そして、ハァッと息をついて背後の男にこう呼びかけた。


「ねぇ、先生? もっと、いつもみたいに強く」


 そうして男の手を取りみずからの下半身へ導いた。なにかを口走りながら前かがみの体勢になり、栗原の左肩に手を乗せ薄笑いを浮かべた男の顔は憲介のよく見知った顔だった。


「きょ、とうせんせ……」


 毛足の長い絨毯を敷いた床に、膝をつくように憲介は崩れ落ちた。栗原に「先生」と呼ばれた男が憲介を一瞥し、


「ああ。きみだったんだね。修一郎さんの言う先輩って」


 栗原は端正な顔立ちをゆがませることなく、こちらの様子をうかがうような表情で男の行為を受け入れている。受け入れるというよりも……。憲介はたまらず立ち上がり、さっき閉めたばかりのドアに向き直った。その背中に栗原が一言、放った。


「こんなぼくでも、好き? ……せんぱい」


 憲介は振り向かず、叩きつけるようにドアを閉じ、廊下を駆けた。

 息が苦しい。呼吸が乱れているのが憲介自身にも分かった。溢れそうになっているのは嗚咽なのか、それとも嘔吐してしまいそうになっているのか。見間違いでも、聞き間違いでもない。つい今しがた自分が目にしたもの、耳にしたものは……。

 栗原と、彼の背後に教頭先生がいた。二人があんなことを……。なぜ。信じられない。けれど、部屋を出る時に一瞬耳に飛び込んできた、うっとりするような、それでいてなにかをやんわりと拒むような甘い声。あの声は、間違いなく栗原の唇から零れ落ちたものだ。大人の男の手によって乱され、陥落させられる寸前の、あやふやに開いて濡れたような唇から漏れ落ちた声だった。


**



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