第28話 分霊のヨナス(四)

 バローネの訪問を知らせようとミアが寺院を抜けだした頃、テオ達はヨナスの天幕にいた。日が暮れるにはまだ時があったが、壁の北側に建ち並ぶ慈善施設の天幕はその多くが既に城壁の落とす長い影の中へと取り込まれていた。


 それぞれの天幕では小さく絞られたランプに灯がともされ、その中の営みをぼんやりと浮かびあがらせていた。静かでささやかな団らんがそこにはあった。


 テオとセラナはホルンベルが戻るまでこの区画の外を出歩かぬよう言われており、自然とヨナスの天幕にいる事が多くなった。中では時折香を焚いたり薬湯を入れたりする以外、特にする事も無かった。

 もてあました時間をテオとヨナスはお互いの言葉で片言の会話を繰り返して過ごし、セラナは訳も分らぬまま二人の会話する様子を見守るばかりであった。


 テオはヨナスと言葉を交わす事が日増しに大きな楽しみへと変わって行った。ヨナスから話し掛けてくる事は稀であったが、それでもテオが薬草や呪い(まじない)の事について話して聞かせると、ヨナスは彼なりの意見や新たな問いを返してくれるのだ。


 たとえ男の話す言葉を完全には理解できずとも、テオには彼のもつ優れた知性をつぶさに感じ取る事が出来た。それはまるでマルセンや兄弟子のヨアキムと交わす問答のようで、テオは時間を忘れてヨナスとの会話に没頭した。

 おかげで少年はヨナスの話す古い言葉を随分とよく理解できるようになり、ヨナスの方もまた子供達の話す言葉を少しずつ覚えてくれた。


「テオよ。彼女の事を、忘れてはいけない」ヨナスは片言にそう言うと、彼との会話に夢中になっているテオの事を嗜めた。それから古い言葉で何か口にするとセラナの事を気遣ってやるように促した。

 テオもその一言で我に返るとセラナの方を向いた。突然同時に二人から見詰められてセラナは戸惑いの表情を浮かべた。


 セラナは黙ったまま、ぎこちない笑みを返す。二人の会話を殆ど理解出来ないでいた彼女はヨナスの言う通り確かに退屈していたが、それでも自分達に宛がわれた天幕でテオと二人で篭っているよりは余程気が楽であった。


 理由は単純で、セラナはこの少年に対して決して拭い去る事の出来ない後ろめたさを抱えていたからだ。彼女が無茶をしなければテオと、そして彼女自身も平穏な暮らしを手放す必要は無かったはずであった。


 墓所での暮らしは華やかさなど欠片も無い慎ましやかなものであったが、そこには彼等の身内となってくれる者達がいた。それは頼る身寄りの無い二人にとっては掛け替えの無いものであった。


 もちろんどちらも好んで故郷を捨てた訳ではないが、飢えと貧困とそして理不尽な慣わしに従ってテオは自ら生家のある山を降り、セラナは人買いに連れられて故郷を出た身の上である。


 いうなれば彼女は同じ境遇のテオから再び故郷を奪った事になるのだ。しかしその事に関してテオは一度も本気で苦言を呈した事は無かった。


 親方から破門を言い渡され、自らの左手に残された失印と言うものが如何なるものなのかを思い知らされて、それでもなお何も言わなかった。その事は彼女にとって救いでもあり、心の内に出来たしこりのようなものでもあった。


「ほんとに大丈夫だから……」セラナはそう言いながら何故かしら無性に泣き出したくなった。少女のその様子にテオも心配そうな顔をすると、今日のところは自分達の天幕へ引き上げる事に決めた。


 ヨナスは傍らで控えていた少女の肩にそっと手を掛けた。

「そうなさい。私は、少し休ませて貰うよ」ヨナスは片言の言葉で少女にそう伝えると、テオに静かに頷いて見せた。




 子供達はヨナスの天幕を後にした。日暮れ時はとうに過ぎ、細く絞られたランプの灯りが二人の足元を心許無げに照らし出していた。


 セラナは無言のままテオの後ろを歩いていたが、これまでの事を一度きちんと彼に詫びておこうと意を決した。そして彼女が少年の名を呼ぼうとしたまさにその時である。

「ミア……さん?」テオが拍子抜けする様な声を上げた。

 セラナも彼の視線の先をたどる。遠くからでも一目でそれと分る、ひどく取り乱した様子のミアが駆けて来るのがみえた。


 ミアは区画の向かいにひろがる天幕の並びを抜け出してテオ達のいる隔離された一画に駆け込んで来ると、二人を有無も言わさず天幕の中へ押し込んだ。彼女は喘ぐように肩で息をしながら何かを伝えようとしたが、上手く言葉に出来ないでいた。

 普段で在れば子供相手にも物怖じしてしまう繊細な彼女の、何時に無い必死な形相にテオとセラナは只ならぬものを感じ取った。


「……離れて…………ここを、今すぐ……」ミアはそれだけを何とか伝えると、その場に膝から崩れ落ちてしまった。あとは大きく肩を上下させ、うなだれたままその場から動こうとはせず、時折苦しそうに咽せ込むばかりであった。


「セラナ!」テオが押し殺した声を発した。二人には今の一言で十分であった。事の詳細は分らずともミアは追っ手が掛かったと知らせに来たのである。


 二人は事前に申し合わせておいた通り、自分達の荷物を手早くまとめに掛かった。何時でもここを発てるように荷物の出し入れは最小限に留めておいたが、これまで馬で運んでいた物を今は二人で手分けして担がねばならなかった。


 二人は荷物を減らす必要に迫られ、以前に買い揃えた保存食の残りが入れられた袋を選ぶと、その隙間に最低限必要な物を選んで詰め込んでいく。


「これからどうするの?」セラナがテオに尋ねた。それは何処へ向かうかと言う問いであったが、二人にそのような宛てなどあろう筈も無かった。セラナはこの土地へ来たばかりで、テオにしてもネビアの近くを離れる事など滅多に無かったのだ。


「街の西に古い橋があるわ。そこを渡るの」ミアが再び顔を上げた。ひどくしゃがれた声で言葉を発するのも辛そうであったが、彼女はそんな事などお構いなしに話の先を続けた。


「一旦、向かいの人混みに紛れて明け方を待つの……明け方を待って西の街道まで出なさい」ミアは灯りを手に夜闇の中を移動するより、夜の明けきる前を狙って移動する方が良いだろうと説いた。

 そしてランプの薄明かりを頼りに簡単な地図を地面に描いて見せた。


 ミアはまず地図上で三人の今居る街の北側を指し示すと、そこから街の外郭をなぞるように指先を動かした。途中、城門の在る辺りに印をつけておき、門の辺りには見張りがいるかも知れぬと言って二人に注意を促した。


 それから街の北西に連なる街道を指で示して道沿いに這わせて行くと、街から幾らか離れた辺り、ちょうどセム川と街道がせり付く場所へ一本の横線を描き入れた。


 彼女はそれを橋だと言った。それからその橋の対岸がこの街に属する墓所の外れとなる事を教え、そこで暫く身を隠すように言った。


「後で必ず誰か人を遣るから、それまでの辛抱よ」ミアはいつになく強い口ぶりで言うと、二人の身支度を急がせた。




 テオとセラナは外套を着込むと詰めなおした荷物を背に担いだ。二人はミアにこれまで世話になった礼を述べると天幕を後にした。夕刻の炊き出しもとうに終わり、辺りはすっかり暗くなっていた。


 向かいの区画をみると天幕の並びの間で小さな焚火が幾つも焚かれていたが、日中では想像できないくらいの静けさが辺りに満ちていた。


 テオはランプの絞りを少し開放すると、その灯りを頼りにセラナの前を歩いた。そして今いる区画から出ようとしたちょうどその時、目の前の物陰でなにかがうごめいた。


 二人が身構える間もなしに、暗がりから人影が現れて、テオ達の前を塞ぐように立ちはだかった。その動作の意味するところは明白であった。


 テオは半ば無意識にセラナを自分の背後に庇うと、ランプを持つ腕を前に突き出した。


 人影はベルナールであった。五十絡みのこの男はどこか哀れむ様な眼差しで子供達の事を見ていた。彼は駆けてゆくミアを人混みの中に見失ってしまったのだが、この区画に目星を付けると何か動きがあるまで近くで身を潜めて様子を窺っていたのだ。


 テオとセラナは少しずつ後ずさりながら、今逃げ出したところでどちらか一人は捕まるであろうと考えていた。あるいは二人共である。この場に居るのが目の前の男一人とは限らないからだ。


 二人の子供はすぐに自分達のいた天幕の前まで押し戻されると、後ろにいたセラナが天幕の支柱から張られた紐の一本に足を取られてしまった。


 セラナは大きくよろめいて悲鳴を上げた。するとその声を聞きつけたミアが天幕の内から姿を現した。彼女はすぐにベルナールの存在に気付くと、男が寺院にやってきた者の一人である事に思い当たった。


「そんな……」ミアは消えりそうな声で喘いだ。彼女は震える脚をどうにか動かすとベルナールとテオ達の間に身体を割り込ませた。


「すまねぇが、後をつけさせてもらった」ベルナールのその言葉を耳にした途端、ミアの頭の中は真っ白になった。助けるはずの子供達を窮地に追いやったのは彼女自身であったのだ。

 そんな己の迂闊さを呪いながらも、ミアは何とか子供達を逃がさねばならぬと考えたが、もはや彼女の思考は上手く働かなくなっていた。




 ジベールがやって来たのはそれから少し後の事であった。彼はアマディオの他に二人の手下を従え、向かいの区画から足早に抜け出してきた。

「随分と手間を掛けさせてくれたものだ」ジベールの第一声はどこかしら楽しげに聞こえた。


 テオとセラナはこの男を見るのは始めてであったが、以前にホルンベルが話していたバローネの名代を名乗る男だと察しが付いた。濃紺色の頭巾の奥では、ランプに照らし出された皺深い顔が不吉な笑みを湛えながらテオ達の事を見据えていた。


 ジベールはミアを押しのけるとテオの前に立った。濃紺の袖が伸びてきてもテオは諦めた様子でそこから動こうとはしなかったが、背後にいたセラナが少年の身体を自らの手元に引き寄せた。


 セラナは少年と入れ替わるように自ら前に進み出ると、ジベールの顔を見返した。


「私が貴方達と一緒に行きます」セラナは低いが、はっきりとした声でそう告げた。「だから、この人達にはもう構わないで……お願いします」セラナは僅かに瞼を伏せると、最後の一言を消え入るように吐き出した。


 少女の咄嗟の振る舞いを、その場に居合わせた誰もが黙ったまま見守っていた。ただ一人、ジベールだけが喉奥にくくっと笑いを含ませると、少女に向かってこれ見よがしに無慈悲な眼差しを浴びせかけた。


「それでは困りますな、お嬢さん」ジベールは独特の抑揚でそう告げると、セラナの肩に手を掛けた。そのまま少女の身柄を背後で控えていた男達に引渡し、咄嗟に掴みかかろうとしたテオの左腕を捻り上げた。


「放せ、この野郎!」テオが罵りの声を上げながら手足を空しくばたつかせた。ジベールは掴んだ少年の手首を更に捻り上げ、左腕を完全に裏返しにさせた。弱々しく開かれたその掌には淡い色合いの失印が刻み込まれていた。


「用があるのは、むしろお前なのだよ、小僧」ジベールのその一言にベルナール達までもが目をむいた。ジベールはテオの片腕を捻りあげたまま、残された方の手で己の頭巾をゆっくりと後ろに引き下げた。


 ランプの灯りに照らし出されたのは小さく痩せこけた老人の頭部であった。その後退した額の左側には丸に三つ星のあしらわれた、朱風の塚を表す紋様の名残が刻まれており、すぐ下側にのぞく左の眼は白く膿んだように濁っていた。


 ジベールはテオの手を捻る角度を変えると、少年をさらに近くへ引き寄せた。そうしておいて、彼は頭を僅かに前傾させ、少年の耳にだけ聞こえるように呪い言葉を短く小さく口ずさんだ。


「う、あうぁ……」テオが苦悶の呻き声を上げた。その額にはみるまに珠粒のような汗が浮かび上がり、顔中が苦痛に歪んだ。ジベールも呻き声こそ上げないでいたが、同様に苦痛を感じた様子で僅かに眉間に皺を寄せると、額に血管を浮かび上がらせていた。


 ジベールが口を閉ざすと二人の苦痛はすぐに和らいだ。だがテオは顔面を蒼白にさせたまま、立っているのもやっとと言う有様であった。よく見るとジベールの左の額とテオの左掌にはそれぞれかつての塚を表す印が腫れ上がるようにくっきりと浮かび上がっていた。失印による戒めである。


「私は、この忌々しい呪のお陰で片目の視力をほぼ失った」ジベールは吐き捨てるように言った。彼は一瞬だけ狂気の相をその瞳に宿らせると、突き放すようにテオの腕を開放した。


 途端に崩れ落ちそうになる少年の身体を傍らにいたミアがあわてて支えてやる。

「お前もこの戒めから解き放たれる為とあらば、進んで私に頭の一つも垂れたくなるのでは無いのか、小僧よ」ジベールはその顔にまた元の不吉な笑みを湛えると、濃紺色の頭巾を目深に被りなおした。


「連れて行け」ジベールはその言葉を最後にテオに背を向けた。彼と入れ替わるように進み出た手下の一人が少年の肩に手を掛けても、テオも、そしてセラナもこれ以上の抗いを見せようとはしなかった。


 ただ一人、少年の身体を抱えるように支えていたミアが悲壮な面持ちで近寄る男を睨み返していたが、もとより彼女に抗う術などあろうはずも無かった。

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