第19話 バローネの館(四)

 バローネの娼館の三階にはひときわ豪華な造りの書斎があった。書斎の主はジャン・バローネ。バローネ商会の創始者であったが、ジャンが故人となってからはその未亡人であるオドレイ夫人の執務室となっていた。


 オドレイは四十をとうに過ぎていたが、均整の取れた体つきと化粧映えのする顔立ちで、妖艶という言葉の非常に似合う女であった。彼女は生前のジャンの第三夫人であり、現バローネ商会の総主の座に着いた女でもあった。


 オドレイはネビアの下町出の女で、元々はフェルナンドが当時営んでいた安宿で客取りをしていた商売女であった。それが初老に差し掛かったジャンの目に留まると妾から第三夫人、そして総主へと僅か十年足らずで上り詰めた。


 当然その裏では何かとよからぬ噂の立つのが世の常で、耳聡い街衆の間ではジャンの死もあるいは云々、という類の風評すらまことしやかに囁かれていた。


 そして今、書斎の中ではこの館の差配役であるフェルナンドが顔を青ざめさせながら釈明に追われていた。勿論、釈明の相手はオドレイ夫人その人である。


「……ですから、商いに浮き沈みはつきものと申しますか、いずれこの挽回はいたしますので、はい………」フェルナンドは額に脂汗をにじませながら、かつての雇い人を前にひたすら頭をたれつづけた。


 時折上目遣いに相手の機嫌を伺ってみても、返されるのは強烈な侮蔑の眼差しばかりであり、まったく取りすがる余地も無いままそれでも何とかこの場をやり過ごせはしまいかとひたすら頭を働かせていた。


 彼の叱責される理由はこのところ続いている商いの上での失態であった。娼館の客の入りは上々で、商売女達の管理にも余念は無かった。こちらの方は並ならぬ年季の入りようで抜かりなしと言ったところであったが、問題はバローネのもう一つの金看板である奴隷商売の方であった。


 奴隷商売に関してはさして詳しくもなかったフェルナンドは、その道を生業とするならず者を何人か抱え込んで彼の補佐役に付けていたのだが、繰り出した商隊の遭難や失踪、同業者による強奪が相次ぎ、ついこの間は奴隷市の為に集めた奴隷達の間で流行り病を出したばかりである。


 当初はたかだか数人の軽患いと放置していたのだが、どうやら遠方から持ち込まれた性質の良くない病であったようで、市の当日には集めた奴隷の半数近くが売り物に成らなくなり、手の施し様の無い者――つまりは奴隷としての商品価値の無くなった者達――の数は二十を下らなかった。


 フェルナンドはこれまで出した損失の具体的な額についてはなるたけ言及せぬ様に勤めると、娼館の方の売り上げで十分な補填は出来ていると何度も繰り返した。するとそれを遮るかのようにオドレイの手元の扇子がわざとらしく打ち鳴らされた。


「お前にはこれほど目を掛けてやっているにも関わらず、それをこうも失態続きで応えてくれようとはな」オドレイは応接用の瀟洒な長椅子に腰掛けると意味有り気な笑みを浮かべ、彼女の真向かいに立ち尽くしてただ言い訳を続ける男を見据えた。


 フェルナンドは静かに下唇をかみ締めた。彼がこの館の差配役になれたのは全てオドレイの後押しがあればこそであったが、逆に彼女が今の地位につけたのはある意味でフェルナンドの協力があったからだと言えた。


 だが、二人の間の関係がある種の絆であったのはジャン・バローネの生きていた頃の話であった。念願かなってジャンの後釜に着いたオドレイはもはやフェルナンドの助力を必要としておらず、フェルナンド自身も彼女がいつ何時己を切り捨てても不思議でない事を十分に承知していた。


「ところで差配役殿」オドレイの背後に控えていた黒尽くめの男が口を開いた。裏街に住み着く外法士の一人で、名をジベールと言う。調薬や呪術に関する知識を金次第で如何なる事にでも振るう輩であった。


「先程から何やら廊下の様子が騒がしいようですが何かありましたかな?」ジベールが慇懃(いんぎん)な口ぶりで訪ねた。フェルナンドは口ごもりながら額の汗を袖で拭い去った。彼は思わず心の中で舌打ちし、この男の言葉遣いとは裏腹な、邪念のこもった眼差しを睨み返した。


「フェルナンド!」オドレイが苛立ちを露わにした。彼女が再び手元の扇子を大仰に打ち鳴らすと、フェルナンドはその音に打たれたかのように背筋を伸ばし、そして口を開いた。


「実は商隊から逃げた娘の一人が館に紛れ込んでいた様子で……」オドレイはその報告に片眉を微かにあげて見せると、手振りで話の続きを促した。


 フェルナンドはアマディオから聞かされていた墓所での一件をそのまま伝えると、その少女が先日弔いに出した奴隷の子供達と同じ馬車に乗っていた者ではないかと付け加えた。


「それでその逃げた娘とやらを、そなたは今まで放置しておいたのだな」オドレイの目元が妖しく揺らめいた。


 フェルナンドは慌てて弁明しようと口を開き、娘が墓所の塚守達によって匿われているようであると告げた。その言葉をオドレイはつまらなさそうに聞いていたが、背後に控えていたジベールが「ほう」と興味ありげに呟いた。


「……ですので、たかが小娘一人の為に塚の者と事荒立てるのもなんだと思いまして」フェルナンドはそう言うと、あるいは穏便に済ませる事も一つの手ではないかと進言した。


「墓守風情に口を出される云われなど無いわ!」オドレイは割れんばかりの声で怒鳴りつけると、手にした扇子を目の前の相手の額めがけて叩きつけた。 彼女は立ち上がると、少女の件に関して早々に決着をつけるようフェルナンドに言い渡した。


「事と次第によっては文字通りその首飛ばしてくれようぞ」オドレイは目の前の小男に対して妖しげに微笑みかけると書斎を出ていった。




 同じ頃、娼館の二回の廊下をみすぼらしい姿をした少年が通り抜けていった。洗いざらしのシャツに麻ズボンといった出で立ちで、真夜中の娼館にふさわしくないなりをしていた。


 それは館の使用人にまぎれこんだ宵星のテオであったのだが、テオは洗濯物を詰め込んだ籠を抱え、娼婦や客達の使う大廊下から裏方用の通用路へと入っていった。


 薄暗い廊下をそのまま進むと突き当たりの扉を空けて部屋の中へ入る。部屋の片側には洗濯待ちの衣類や寝具の覆いが山済みにされており、反対側には綺麗に折りたたまれた物が棚や籠に仕分けて置かれていた。


「どうだった?」何処からともなくセラナの声がした。テオはシッとその声を遮ると後ろ足で扉をしめた。それから手にしていた籠を無造作に傍の台の上に放り出し、台の下に押し込んでいた己の外套を引っ張り出して手早く身にまとった。


「ねぇ、それで外の様子は?」汚れ物の山からセラナが顔をのぞかせた。

「多分、まだ僕達の事を探しているよ」テオは大まかに館の中の様子を説明すると、この部屋のすぐ下にあたる隠し玄関から出られるかも知れないと付け加えた。


 隠し玄関とは文字通り表の通りからは目立たない場所に設けられた、隠された玄関の事だ。娼館には裏門や正門の他にも複数の出入り口が用意され、客を迎える為のものから使用人や出入りの業者の為のものと用途分けが為されており、隠し玄関は御忍びでやってくる客達の為の出入り口であった。


 そのため出入り口の周りは他より照明の数が少なく、客を迎え入れる男も一人しか配されていなかった。問題はその一人をどうするかであったが、テオには考えがあった。


「僕が騒ぎを起こすから、その隙に急いで表へ出るんだ」セラナは不安そうにテオの顔を見ると、彼自身はどうする心算なのかと尋ねた。テオは大丈夫だと請け合い、館を出た後は街の西門の傍で隠れて待つよう彼女に言った。


「もし、明け方まで待って僕が戻らなかったら、別の大門が開くのをまってそこから街を出るんだ、良いね?」テオの指示にセラナはなおも不安そうな顔をすると、やはりテオ一人で騒ぎをおこすのは無謀過ぎると言った。


 セラナはテオの出した案の代わりに、例の物置部屋で身を隠して親方達がまたこの館を訪れるのを待とうと提案した。だが少年は首を横に振ると、それではいずれ見つかってしまうだろうと納得しなかった。


「明け方になったら客達が皆帰ってしまう。そしたら門は閉ざされて、多分もう外には出られない」テオが言った。二人は館からの脱出に一度失敗し、その現場をアマディオに見咎められているのだ。あの時の彼の表情からして、セラナが脱走した奴隷である事は既に知られていると考えるべきであった。


「誰かさんが無茶するからだ」テオはからかうような口調で言うと、しょげたセラナの頭を軽く小突いた。そして驚いた表情で見返すセラナを立たせ、二人で部屋を出た。


 そこからなるべく人気の少ない通路を選んで下の階に出ると、薄暗い照明の廊下に出た。専用の部屋を与えられていない女達が客待ちをする為の通路であった。


 廊下の片側ははめ殺しの大窓が幾つも並んでおり、その殆どが分厚い暗幕に閉ざされて外の景色は遮られていた。反対側の壁には丈の高い衝立に隔てられた長椅子が幾つも用意され、個々の部屋では商売女達が今夜の主の到来をてぐすね引いて待っていた。そして客を得た女達のある者はそそくさと上の階の個室へと移り、また別の者は衝立の向こうからじゃれ付くような甘い声を響かせていた。


「こっちだ」テオはセラナの手を引くと階段から離れて、通路の反対側の暗幕の裏に忍び込んだ。


「この先に扉がある。僕が合図したらセラナはそこから外へ出るんだ」テオはそういうと、懐の内から護符を一枚取り出した。少年がその護符を窓の硝子にはるとセラナがそれは何かと尋ねた。


「忌諱の護符。本当はこんな風に使っちゃいけないんだけどね」テオはそういうと何やら呪い(まじない)の言葉を唱え始めた。


「私……なんだか、怖い」セラナは急に肌寒さを覚えるとテオの袖を掴んだ。テオの口から言葉が紡ぎだされるたび、護符を通して硝子戸の外の冷気が流れ込んでくるようであった。

 そしてその冷気は――それは錯覚であったのだが――まるで黒い霧みたいに暗幕の裾から零れ出て、廊下を這うようにひろがって行く。


 テオが文言を唱え終えても闇の流入は暫く続いた。時折、廊下のあちらこちらから小さなざわめきが起こった。


「何か、良くない事が起こるの?」セラナが不安そうに尋ねた。テオは少し疲れた顔で被りを振ると、今彼女が抱いている不安や不快さはただの錯覚に過ぎないと教えた。


「人の不安や恐れをあおる呪い(まじない)なんだ」テオは暗幕から顔を出して廊下を見た。薄暗い通路に並ぶ個室のあちこちからざわめきが立ち上る。そのざわめきは着実に廊下の向う側へと拡散していたが、それは少年が期待したような混乱にはならなかった。


 時折並んだ衝立の向こうから女達が不安そうな顔を覗かせる程度で、肝心の扉の見張り番をしていた男も一度廊下の様子を覗いただけですぐにまた自分の持ち場へと戻ってしまった。


 テオは己の未熟さに舌を巻きながらも次の行動に移ることにした。こうなる事もあらかじめ想定していたようで、彼はふらりと暗幕の影から出ると手近にあった足長の飾り燭台に歩み寄った。


 円筒状のすりガラスの風防を僅かに傾かせ、隙間に息を吹き入れ、灯りを吹き消す。同じ要領でテオは衝立の傍に立ててあった燭台の灯りを手際よく次々と消して行った。


 突然廊下が暗転し、衝立の至る所から女達の不安がる声やら何に向けられたか分らぬ罵声が飛び交い始めた。護符の真価がようやく発揮され始めたのだ。その騒ぎに通路の向こう側から見張りの男が再び顔を覗かせると、何事かと叫んだ。


 テオはすぐに手近な暗幕の裏に隠れると成り行きを見守った。男は動揺しつつも持ち場から離れようとする女達に戻るよう声をまくし立て、何とかその場を沈めようとやっきになっていた。


 あと一押し。テオは咄嗟に拳を握め、それを力強くはめ殺しの窓へたたき付けた。窓硝子は割れず、ただ大きな鈍い音が一度だけ暗闇に木霊した。


 効果はそれで十分であった。衝立の中にいた女や客達は言い様のない不安に駆られて我先にと席を抜け出した。


 階上へ逃れようとする者、出口に向う者、別の者の背に阻まれて向きを変えようとする者とそれに押し倒されて悲鳴を上げる者。廊下はちょっとした騒乱状態となった。騒ぎを鎮めようとしていた扉番の男も逃げ惑う女達の流れに衝立の内へと押しやられ、今では彼が混乱の最中に取り残されていた。


「今だ、走れ!」テオは振り返るとセラナの潜む方へ向けて大声で叫んだ。

 階段近くの暗幕の裏に隠れていたセラナは、少年が何を言ったかまでは聞き取れなかったが、彼の叫び声を耳にすると同時に隠れていた場所から脱兎の如く飛び出した。


 セラナは廊下を逃げ惑う女達の中に割って入ると、通路の向こう側に垣間見えた明かりを目指して走り抜け、途中でテオを追い抜いた事にもきづかぬまま館の外へと転がり出た。


 セラナはすぐさま目の前の路地に駆け込むと、脇目も振らずに走り続けた。夜の明ける気配のない暗い路地の中を闇雲に駆け抜け、やがて見覚えのある通りにでた。埋葬の折に何度か通った事のある裏道であった。


 この道を辿れば街の西門まで辿りつけるはずだ。セラナは狭い路地から少し開けた場所へ出ると、肩で息をし、そこで初めて背後を振り返った。

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