澱み

涼野京子

第1話 予兆

 バシッ。バシッ。バシッ。

 この音が聞こえるときだけ、目を瞑る。早く終われと心の中でお経のごとく、唱える。


 これが始まったのはちょうど1年前。柾は人が変わったみたいに暴力的になった。きっかけは甲子園で負けたことだ。誰よりも懸命に練習に励んでいた彼は、あまりのショックに耐え切れず、私に暴力を向けるようになった。初めてぶたれた時は、一瞬何が起きたか分からなかったけれどただ恐怖の気持ちに支配され、叫ぶこともできなかった。少しの間、我慢すればすぐに気が済んでしまう。ごめんね、ごめんねと、浮気の許しを請う女みたいな喋り方で、すがってくるものだから私も強く言えない。一度だけ母におなかにできた赤黒いあざをみられたが、ちょっと、階段から落っこっちゃってと誤魔化した。

あら、そうと母はあっさり引き下がったが、今では本当に誤魔化せたのかどうかは分からない。いつばれるかどうかの不安が残ったので、母の前で着替えることはこれを機に辞めた。母にどの服がいいかなとか、これ似合うかなとか、他愛もない話を着替えの時にするのが楽しい時間だったけれど、暴力を誰かに振るわれているとばれることの方が怖かった。



そして夏も終わり秋風が涼しくなった頃、彼は急に「明日、お前に話があるから裏門の前で待ってて」と言ってきた。今まで自分から待ってってなんて頼んだことはなかったのに、一体どうしたのだろうかと脳みそを回転させるのもそこそこに、えっ、何の話と言いそうになった口を含んでいた飴玉でふさぐようにした。このころの彼はいつ機嫌をそこねてしまうか分からなくなっていた。最初は私の部屋で殴るだけだったのに日に日にエスカレートしていき、理科室に呼び出してまで暴力を振るうようになっていた。それもあっていちいちつまらない疑問は投げかけないようにしていた。それが発端でまた殴られたりでもしたら、傷付くだけだ。明日話してくれるのだから、いいじゃないと自分に言い聞かせその日は3時間もある外国の長編映画を観て帰ってもらった。俺の家は汚いから、あげられないといつも断られていたので、私の家で映画を観るのが定番のデートだった。彼は野球部で土日は練習ばかりだったので、まともにどこかへ出かけたことはなかったけれど、この3時間は穏やかに過ごせた。

 

 その夜、私はこんなことを考えていた。別れ話?いや、それとも進路の話かな、色々思い浮かべては否定することを繰り返した。意味なんてないのに、なぜか辞めることはできなかった。でも寝ないといけない。明日を待たないといけない。頭の中でぐるぐると考えているうちに、いつのまにか深い眠りに入っていた。


だから的外れなことを予想しているなんて知る由もなく、朝の陽ざしで目が覚めた。



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