第3話

 水曜日。

 通販で届いた段ボールを開けて、中身を取り出していた。

 それらを浴室に持ち込み湯船に浮かべる。

 たった一人の市民だったアヒルにも仲間ができて、計五人になった。ぷかぷかと浮いている市民達のお尻をつついて湯船の上を移動させる。

 入水式を終えて、今日も頭を湯船の下に沈める。

 浴槽の縁に置かれたベルのついた目覚まし時計を見て、今日は早々に上がることにした。

 部屋に戻って髪を乾かす。今日もいつものようにハハが部屋に入ってきて、ベッドの上に乗った。

「じゃあまたね」

 ハハを撫でて、昨日と同じ時間に私は家を出た。

 父は仕事に集中しているのか声をかけてこなかった。いい加減に注意するのも諦めたのかもしれない。

 若干の罪悪感があったが、これに何に対する罪悪なのかはわからなかった。

 今日は昨日よりはやや暖かく、季節が進んでいくのを一瞬感じたが、それはさすがに気のせいだろう。

 いつもの橋を通りコンビニに行く道を行かず、そのまま横にある公園の中に入っていった。

 ヨルは公園のベンチに座っていた。身体を丸めてうなだれているようにも見えた。こちらの気配に気が付いたのか、ヨルが私を見て小さく手を振る。その手には缶が握られていた。

 近づくと、ヨルはお尻を移動して私の座るスペースを作ってくれる。

 そこに座り、お互い公園の端に置かれている明かりに目をやる。

「いると思いました」

「もしいなかったら?」

「そのままいつも通り散歩して帰ります。でも、いると思いました」

 繰り返した私にヨルが苦笑したかのように口の端を曲げた。

「そう」

 ヨルが手に持った缶を口につける。何かのアルコールのようだった。

「でも、私も来ると思っていた」

 そう言われて、胸がざわついたのを感じる。

「もし来なかったら?」

 意地悪で同じ質問をする。

「何も変わらないよ。このまま時間を潰して、時間が経ったら帰るだけ」

「同じですね」

「そうかな、そうかもしれない」

 ヨルが星がわずかに見えるだけの空を見上げる。

「でも、来ない方がよかったと思う」

「どうしてですか?」

「私なんかと会わない方がいいし、何より昨日の今日で危機感がないんじゃない?」

「別に会わない方がいいとは思わないですけど」

 危機感がないのは確かに言われてみればそうだ。犯人は逃がしたままだし、警察にも言っていない。何も反省していなければ、犯人が同じようなことをする可能性はあるし、怖がって自重するのが当たり前かもしれない。全くそう思わなかったかというとそれもまた違うけど、私は彼女に会えるのではないかという好奇心の方が勝っただけだった。

「そうかもしれない、私は私のことそう自己評価しているだけ」

「そんなことないですよ」

「ハルは私のこと何も知らないじゃないか」

「ヨルさんだって、私のこと何も知らないです」

「そうだな、それは、そうだ」

 うんうんとヨルが頷いた。

「中学生? いや、高校生か」

「はい、中学生に見えましたか?」

「いやいやごめん、この歳になると違いがわからなくなるからね」

 自分の頭をさすりながらヨルが謝る。

「ヨルさんは、そんな年なんですか?」

「そうさ。ああ、そうだ、いくつに見える? これ、いつか言ってみたかったんだ」

 悪戯っぽい顔で笑ってヨルが聞く。

「ええと」

 年上であることは間違いないけど、それほど離れていないように見えた。どことなく、子供っぽさを感じたからだ。

「二十歳くらい、ですか?」

「ああ、やっぱりそんな風に見えるのか」

「違いますか?」

「うん、そうだね、もっと上だよ。二十六、アラサー」

「誤差ですね」

「そうかな、まあ、高校生が思う年上ってそんなものか」

「はい」

 十は違うヨルとの年の差もあまり気にならなかった。彼女が本当のことを言っていればだけど。

「暗いと人は見た目がわからなくなるからなあ」

 ヨルが呟いた。

「高校生かあ、毎日学校で勉強して、それでこんな時間に出歩いて大変だな。私ならこんな時間にはもう寝ていたけど」

 ヨルが左手を身体の内側に持ってきて、手首にしているだろう時計を見た。手首に傷があるのが見えた。

「大変じゃないですよ、ただの気分転換の散歩です」

 それには触れず、私は返す。

「ヨルさんは何をしているんですか?」

「何って?」

「いえ、お仕事とか……」

「私?」

「そうです、他にいますか?」

 ヨルが夜空を見上げて沈黙した。

「秘密、と言いたいところだけど、本当のところ、何もしていない」

「ああ、ニートなんですね」

「いやいや、うん、そうかな、正確にはそういうことでもないんだけど、似たようなもので、なんか、うーん、なんて言えばいいのか」

 言い方を考えあぐねているようだった。

 そのうち、ヨルは右手の人差し指を立てた。

「不動産会社の社員?」

「どうして疑問形なんですか」

「私にもよくわからない。何もしていないけど、こう、お金が振り込まれてくるというか」

「それ、合法なやつですか?」

「合法だと思うけど」

「思うけど、なんですか?」

「詳しいことはわからない。とにかく、そういうところに働いていることになっている。それで、私の口座のお金が増えている」

「本当にそうなら羨ましいですね」

「ああ、うん、親がそういうのをたくさん持っていて、いくつかが私のものということになっているんだ。節税とかいうやつなのかな、説明を聞いたことはないけど、だから、働いているけど、働いてはいない」

 私からすればものすごい身分だ。

「不労所得ってやつですか?」

「ああ、そう、そういうやつ」

「いいですね、働かなくていいなんて」

「いいかどうかはわからないけどね」

 ヨルがどことなく子供っぽいというか、ふわふわしたようなイメージがあったのは、彼女が労働から離れて浮世離れしているのかもしれないと勝手ながら思ってしまった。

「だから、昼は何もしていないよ。だいたい家にいるし、ネットして終わるかな。それで体力不足になるから散歩をしているんだ。準備をしたら夜になっているってわけ。今は家の空気を吸いたくないってのもあるけど」

 意味深なことをヨルが言う。

「ハルはさ、気分転換って言ったけど、家にいたくないとかあるの?」

「そういうわけでもないです。別に空気が悪いとかなくて、外が好きなだけです」

「そっか、それがいいね。でもお風呂上がりにわざわざ来なくてもいいんじゃないかな、散歩するなら順番逆じゃないかな」

「わかります?」

「髪の匂いでね」

「ヨルさんも良い匂いがします」

「これは髪の匂いじゃないよ」

 自身の長い髪をさらりと右手で揺らした。

「そうなんですか」

「それに」

 ヨルが顔を私の胸に沈めてくる。

「猫がいる。服から猫の匂いがする」

「あ、はい」

「どんな猫?」

 そのまま両腕で抱えられそうな位置のヨルに返す。

「黒猫です」

「名前は?」

「ハハです」

「ハハ? 変な名前」

 顔を私の太ももに乗せたままヨルが笑った。

「よく言われます」

「まあいいか。もういい時間じゃない?」

 身体を起こしたヨルが自分の腕時計を指した。

「ああ、そうですね」

 私もスマホを見る。

「帰ります。ヨルさんは?」

 立ち上がってヨルに向かい直す。

「もう少しぼんやりしているよ」

「それじゃ、おやすみなさい」

「今日も一日に感謝を」

 ヨルが缶チューハイを空に掲げた。

「なんですかそれ」

「私のモットーさ、一日が終わるときに言うようにしているんだ」

「いいですね」

「いいだろ、次は何か持ってきなよ、一緒に乾杯しよう」

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