カルチャーセンター

 三年前、夏──


 扉の脇の木札には、小学生が書いたような文字で「応接室」とあった。


 鎌田カルチャーセンターで事務のバイトを始めて三ヶ月ほど経つが、この部屋には数回、それもほんの短時間しか入ったことはない。「応接」するような客が来ることもほとんどないし、あっても入口そばの事務スペースで済ませてしまうからだ。


 先ほど出勤してきた私に、典子さんが「応接室に来てって所長が」と言った。典子さんも要件は知らないらしい。


 何の用だろう? 特に思い当たる節はない。あの温和な所長がまさか説教ということでもないだろう。かといって、いつもの世間話をするために応接室に呼び出すとも思えない。


 まあいいか、と思いながら形ばかりのノックをし、扉を開けた。


「所長? どこですか? 来ましたよ〜」


 そう声をかけると、部屋中央にどんと置かれた大型キャビネットの向こうから、黒縁メガネに白髪の葛城所長がひょこっと顔を出した。ここからは顔しか見えないが、キャビネットの向こうに隠れたソファセットに座っているらしい。


「ああ小夜ちゃん、こっちこっち」


 そう手招きするので、「もう、なんですか、わざわざこんなとこ呼び出して」とキャビネットの向こう側に回った。


「あっ」


 思わず声を上げた。


 所長の向かい側のソファに、一人の男が座っていた。てっきり所長一人だと思っていたから、随分と呑気な口調になってしまった。


 私は今更のように咳払いをすると、あらためてその男を見た。二十代後半の私と同年代くらいだろうか。そして私は、男の顔に見覚えがあることに気付いた。


 この人、どこかで──


 答えが出る前に男はすっと立ち上がり、丁寧な会釈をしながら名刺を差し出した。


「お忙しいところすみません。わたくし、こういう者です」


 フクロウのロゴマークと、そこに添えられた「心身障害者福祉作業所オウル」という文字を見て、ああそうかと思う。


「オウルって、あの、福祉施設の──」


 私が言うと、その男──名刺には事務長 小駒彰とあった──は嬉しそうに微笑んで、頷いた。


「ああ、知ってくださっていたんですね。戸田さんには以前配達で来た際にご対応いただきまして」


 そうだ、確かにそんなことがあった。ここ鎌田カルチャーセンターでは、障害者や高齢者が施設で作った製品を、入口脇のスペースで販売している。いくつかの障害者施設や老人ホームと契約しており、オウルもその中の一つだった。


 その納品にこの男が来たことが確かにあった。


「ええ、覚えています。確か、クッキーか何かを」


 小駒はソファに腰を下ろしつつ、「そうですそうです。憶えていてくださったんですね」と嬉しそうに笑った。


「さあ、座って座って」


 所長が言うのに従い隣の席に腰を下ろす。私はあらためて、向かい側に座る小駒を見た。


 シワのよった白いカッターシャツに、地味な灰色のスラックス。あの時も今日も服装はさえないが、顔はなかなか整っているし、素朴な雰囲気だけに堅実に見える。


 そして私は思い出す。


 私が小駒を覚えていたのは、あの日たまたまやってきた小駒を、交際相手として値踏みしていたからだった。三十歳を目前に控え、婚約者どころか恋人もいない私は、こういう目立たない男で我慢するべきなのかもしれないと。


「それで、今日は?」


 なんとなく気まずさを覚えつつ、所長と小駒を見比べるように聞いた。


「ええ、実は、戸田さんにお願いしたいことがありまして。それで葛城所長に相談を」


「小夜ちゃんにとっても、きっと嬉しい話だよ」と所長が笑顔で付け加える。


「お願いしたいことって……私にですか?」


「ええ。ぜひお手伝いいただきたい話があって」



 鎌田カルチャーセンターは、公民館のような雰囲気の施設で、地域の寄り合いや趣味の教室、小さなコンサートなどに利用されている。「鎌田公園」という公園の敷地内にあり、開所して実に四十年以上も経っているらしい。


 バイトを終えた私は、なんとなくまっすぐ家に戻る気にならなくて、公園内を少し歩いた。ベンチに腰を下ろすと、バッグから財布を取り出し、カードホルダーに入れてあった名刺を取り出す。


「小駒さん、か」


 オウルでパソコン教室を開いてほしい。それが小駒の言う「ぜひお手伝いいただきたい話」だった。


 オウル、つまり小駒が事務長を務める障害者施設で、パソコン教室の講師をしてくれというのだ。それも、施設に入居している障害者を相手に。


 小駒がそんな話を持ちかけてきたのは、私が鎌田カルチャーセンターで開催していた、高齢者向けのパソコン教室のことを知ったかららしい。


 以前名古屋の広告代理店でデザイナーとして勤務していたことのある私は、パソコン操作には多少の自信がある。それを知った葛城所長に、簡単なことだけでいいから仲間の爺婆に教えてやってくれないか、と頼まれたのがキッカケだった。


 以来、月に二回ほどだが、空き教室を使って実際に講義を開いていた。既にプログラムは終了していたが、小駒は配達に来た際、講師をする私の姿を教室の外から偶然見かけたらしい。


「堂々としてらして、すごいなと思いました。生徒さんたちもとっても楽しそうで」


 そう言われれば悪い気はしないが、あまり期待されても困る。


 専門的な経験のない私でも講師が務まったのは、生徒がパソコンに慣れていない高齢者だったからだ。


 ダブルクリックを習得しただけで大喜びするような人たちだ。一般のパソコン教室が提供するレベルには程遠いし、まして、障害者向けのプログラムなど見当もつかない。


「障害者のこれからの社会参加には、パソコンスキルが不可欠だと思っています」


 返事に困る私に小駒は熱弁した。


「これは、障害者の未来を変える大きな試みなんです。パソコンやインターネットの知識を習得できれば、利用者さんも施設にいながら仕事ができるようになるかもしれない」


 話を聞いている所長も、小駒の意見に賛成のようだった。というより、その話に共感したからこそ、こうして私と小駒を引き合わせたのだ。


「もちろん、相応の報酬は払います」


 そう言って小駒は、カバンの中からプリントを取り出し、私に見せた。給与は時給制ではなく日給制で、午前二時間、休憩一時間を挟んで午後三時間、計五時間で一万五千円という設定だった。「相応の報酬」どころか、時給換算で三千円の超高給バイトだ。


「とはいえ、あまり長時間の授業だと利用者さんたちの負担になってしまうので、ひとまず午前中の二時間をパソコンの授業に充てていただきたいなと」


「となると……午後の三時間は何を?」


 私が聞くと、小駒は身体を乗り出すようにして続ける。


「そこなんですが、葛城所長から、戸田さんはデザイナーだったと聞きました。実はオウルの広報物がどれも古くて、いい加減作り変えたいと思っていたんです。ですから、午前は講師として、午後はデザイナーとして勤務いただくような形をお願いできないかと考えています──」


 私は小駒の名刺から、まだ暗くなり始めていない空へと視線を移した。


 名古屋で一人暮らししていた部屋を引き払い、田舎に戻ってきてそろそろ半年。葛城所長も先輩パートの典子さんも大好きだが、カルチャーセンターで担当する簡単な事務仕事には、正直物足りなさを感じていた。


「よろしければ、施設に一度遊びに来て下さい。決めるのはその後で構いませんから」


 小駒は去り際、そんなことを言っていた。葛城所長も、きっと小夜ちゃんにぴったりの仕事だよ、と言っていた。カルチャーセンターの勤務シフトを減らしてでもそちらに挑戦すべきだ、とまで言ってくれた。


 確かに、魅力的な申し出のような気がした。小駒個人に対する興味もある。だが私が今回の話を運命的だと感じたもう一つの理由は、オウルが他でもない障害者施設であるということだった。


「ついに来た……ってことか」


 空に向かって呟くと、歪んだ母の顔が思い浮かんだ。

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