二章

それは、佐藤が男だと告白してきてから半月程経った頃に起きた。




「最近、さとちんがエロい」


「……は?」




鞠と緑と、三人で校内の文房具店に買い物しに向かっている時だった。


怪訝とした表情を向ける緑、そして何もないところでむせそうになる私。


何がどうなってその『エロい』ように、鞠の目から見えるようになったのか、ちょっとよくわからない。




「え、なに、佐藤に欲情してるって意味?」


「なんか違う! 雰囲気が変わった? というか、なんか……」


「いや、佐藤は派手だからと言ってそこまで露出してるわけでもないギャルじゃん。なんか変わったと思う? 和香」


「えぇ……いや、特には」


「えぇ!! 変わったよぉ! なんかのどと話してる時とか特に!!」




変わった、のか……???


鞠曰く、佐藤が私と話している時に特に『エロい』ように見えるらしく。




「……そういえば、和香とのスキンシップが増えたか?」




緑の言葉に、『それだぁ!!』とノリノリに応える鞠。




まぁ、確かにスキンシップは増えたかもしれない、けれど。




「だったら鞠との方が、スキンシップなら多いんじゃない?」




そう言うとまた鞠は頭を悩ませる。


どうやらまたそれとも違うらしい。




「いや、マリともだけどぉ……そうじゃなくて、なんか和香とだと、こう、むわむわぁって」


「む、むわむわ??」


「マリとは、きゃーきゃー! って感じだけど、のどとはむわむわぁって。みどりんとはさばさば?」


「そういえば佐藤って接し方を相手に合わせて来てるわね。それもあって今まではたいして和香ともスキンシップ激しい方ではなかったと思うけど」




緑の言いたいことはわかる。


鞠と違って、私は自分からスキンシップするようなキャラではないし、緑もそう。




私はそこまで気が回らないから積極的に触れたりはあまりしない方だけれど、緑は仲良くもない人相手だと近付かれるのを嫌ったりする所もある。


おかげで大学生活でフラれた男の子もまたたくさんいたりするんだ。




「のどが何か変わったとも思えないよねぇ」


「いや、和香も前より佐藤のこと視界に入れることが増えたんじゃない?」




緑がこちらを向いてそう言うから、私は「え……?」と緑を見返す。




「佐藤が変わった……というよりは、和香との距離感が少し縮んだんじゃない?」


「……え?」




それは、自分でも全く気付かなかった、変化と言えるかもわからない程の微妙な変化。




「ほら和香って基本めんどくさがりだけど。この前の――カラオケとかさ。自分から誘ってきたじゃない。アレ佐藤は嬉しかったんじゃない?」


「アレ、は、だって」


「マリモはともかく、私だって最初は気付いてなかったよ。佐藤が何かを気にして沈んでたことなんて」




――そう、あの日。


あの飲み会をするには中途半端なあの日、私は佐藤の違和感に気付いて、佐藤に尋ねていた。




『何かあった?』


『なにがぁ?』


『何か気にしてるでしょ』




その前日、佐藤はバイトだったはずだから、そこで何かあったんじゃないかと思って、私はそう聞いた。




『和香って、鋭いんだか鈍いんだか、ほんとわかんなぁい』




そうくすくす笑った佐藤がまた何かを思い出すかのように一瞬動きを止め、またいつものように笑う。




『佐藤の気にしてることは、どうにか出来ること? それともどうにもできないこと?』


『うーん……どうにもできないなぁ。時間が解決してくれるっしょ』




佐藤にしてはへたくそな笑みを作るから、どうしてあげられるのか、私にしてはいろいろと考えて、それから。




『今日バイトないなら、カラオケ、行こ』




珍しく、私から提案したんだ。


それからテンションの上がった鞠と佐藤に両腕を捕まれ、四人でカラオケに入り、そのまま飲み会と化した。


いつも通りの放課後だべりの会場が、カラオケになっただけだけれど、佐藤はいつもよりお酒を多く飲んでいたな。




「最初に佐藤の違和感に気付いたの、和香だったじゃない」




確かに最初に気付いたのは私だったかもしれないけれど、それほど大したことはできていない。


ただカラオケに誘うだけで、それしか私にはできなかったのだから。




けれど、その後佐藤はいつも通りに戻り……なぜか私の方が、佐藤に振り回されていた。


それがこの話の冒頭部分に繋がるのである。


あれから佐藤の変化は特になく、いつも通りのちゃらんぽらんのままだ。




「で、和香はその佐藤のこと、エロく見える?」




緑のその質問に、また変なところでむせてしまう。


なに言ってんの緑までっ!




「なんで、私までっ」


「だってマリモの言うむわむわの対象なんでしょう? アンタどう感じてんのよ」


「え、いやだってそれは、鞠がそう見えてるだけで……緑ちょっと楽しんでるでしょう?」


「いーから、佐藤変わったの? どうなの?」




矛先がまさか完全に私になるとは思っていなかった。


佐藤が変わったというか、そもそも佐藤そのものが性別を偽っていたことを知っただけなんだけど、その情報を隠さないといけないだろうから、どう答えるべきか……。




「変わった、というか、私の佐藤のイメージが……ちょっとだけ」




佐藤への見方が変わったことは、間違ってはいない。


まぁその、男だと暴露される前の変化は、自分には解らないままなのだけど。




「ということは、一番変化があったのは、結局変化の見えにくい和香の方だったという?」


「えー、さとちんが先にのどの変化に気付くなんてずるいいいい」


「マリモはいつもそれだな」




買い物を終えると佐藤からスマホに『図書館棟の前にいる』と連絡が来ていた。


私は『すぐ行く』と簡潔に返信を打つ。




「気にしたこともなかったけど、そういえば集合の時の連絡も和香の方に行くわね。いつからだったっけ」


「うぅん、メッセージアプリでグループ作ってるけど、電話するときはのどにするよねぇ? マリには来ないぃ」


「怠惰すぎて会話が簡潔に終わるから……?」


「え!! まさかそれでマリには電話くれないのぉ!?」


「マリモは余計なことしゃべりすぎて話が進まないんでしょう」




それなら緑に連絡するのでもいいと思うけれど……。


そうは思うも、今は少しだけ、私に連絡が来る理由がわかる気がする。




佐藤の言葉だし、本当にそうなのかは、わからないけれど……。


観覧車での言葉が本当なら……佐藤が、私を選んでいる可能性は……。




「和香」




ぽん、と頭に手を置かれて、顔を見上げる。


気付けば図書館棟の前にいた佐藤が私たちの方まで来ていたようだ。




「なーんの話してたのぉ? みどりん」


「佐藤がエロい話」


「はぁ?」


「言っとくけど、マリモが言い出したんだからね」




隠すこともなく暴露してしまう緑に、意味の解らなそうな顔をする佐藤。


まぁ、急に言われたらそうなるよね。




「はぁん、つまりあーしがちょーいけてるレディーだからってことね!!」


「佐藤、別にイケてないよ」


「酷くない和香ぁ!?」




フフッと私は笑みを漏らす。


やっぱり、この四人でいる時間が好き。




佐藤が本当にレディーを目指しているのかなんて、そんなことはわからないけれど、私はきっとどんな佐藤であろうが佐藤のなりたい姿を応援することだろう。


きっと、緑と鞠もそう思ってくれると思うよ、佐藤。


だってこのバラバラな性格のメンバーをかき集めたのは、佐藤自身だったんだから。




「なに佐藤、レディーになりたいの?」


「あーし、淑女だから。みどりんになんて負けないからね!」


「佐藤が淑女……はっ」


「鼻で笑わないでくれる!?」


「マリも淑女する!!」


「現実を見なさい。淑女っていうのはああいう…………まぁ、中身の怠惰は置いといて、和香みたいなおしとやかな振る舞いをする人のことを言うのよ」




急に自分に矛先が向けられて、ビクッと体が強張る。


緑は何を言ってるんだ、私なんておしとやかとは無縁なんだけど。




「いや、緑の方が淑女っぽいでしょう?」


「何言ってんの和香? 自分で言うのもなんだけど態度激悪だからね私?」




腰に手を当ててそう言う緑は、確かにおしとやかと言うよりはイケメンだ。


あれおかしいな、イケメンだ、心が。


でも淑女には近いと思ってたのは本当、黙っていればだけど。




「相手によって態度を変える私なんかより、もの静かーな和香の方が、みんな納得でしょうよ」


「静かっていうより……話すのも面倒なだけなんだけど」


「そこんとこは仲良い私らしか知らないから」




にっこりと緑が笑って、それから鞠を見る。


鞠もニッと笑って佐藤を見て、佐藤はなぜかドヤ顔で私の頭をぽんぽんと撫でた。




「どうする? 全員一致で和香が『淑女』ってことになったけど? ちょーいけてるレディーに認められたご感想は?」


「複雑……目が節穴なんじゃないの」


「ハイ辛辣」




ふっと笑う佐藤がまた私の頭を撫で、そのまま撫でるように滑らかな動きで肩へと手を置いた。


そんな私たちを見て、鞠は手を口に当ててバッと緑に顔を向ける。


小首を傾げていた緑は鞠に視線を向けてから、ひとつ頷く。




「これは確かに、納得だわ」


「ほらエロいじゃん!!」


「え、なに、なに、まさかあーしのこと!?」


「手つきとか、なんか、顔がなんか! なんか!!!」


「何も伝わらないけど言いたいことはわかるわマリモ」




そしてまた謎の、佐藤エロいエロくない論争に再び火が付いたのであった。









それから佐藤は今日はバイトに行ったはずだけれど、二十一時、なぜかその佐藤が部屋の前に立っていた。




「いーれーて」




もう夕飯もお風呂も済ませていた私は寝る気満々で、状況に付いて来れない。




「……え、なんで佐藤がいるの」


「バイト終わったからぁ?」




いろいろと突っ込みたいことはある。


なぜうちの部屋に来るのか、なんで上がる気満々なのか、なんで……また少し、沈んでるのか。


そしてその手に持つコンビニ袋の中になぜチューハイが見えるのか。




「人の部屋で飲む気満々か」


「だいじょーぶ、変なことしないからぁ」


「いや、そういう心配してな……いや、しないといけないのかもしれないけど、それはよくて」


「いいんだ?」


「私の睡眠時間を奪ったら容赦しないけど。入って」


「わぁーい」




いつの間にこんなに警戒出来なくなっていたんだろう……。


私が変わったと、緑は言っていたけれど、自分の事だと本当にわからない。




部屋に入った佐藤は、すぐにクッションの敷いてある上に座っていた。


ベッドに座る私を見上げて来るから、蹴りやすそうな位置に頭があるな……なんて思ってしまう。


もう体は冷やしたくないので、ベッドの上に座ってしまったけれど、佐藤は寒くないだろうか?


まぁ、そこに座ったのならそこでいいんだろう。




「佐藤から見て、私は変わった?」




昼間の緑の言葉を思い出して、何気なく佐藤に尋ねる。




「え? んー、だいぶ心開いて来たとは思うけどぉ」




ということは、佐藤から見た私にもなにか変化が見えているということで。




「心……閉じてたつもりは、別になかったんだけど」


「じゃー無意識? 和香は一線引いててなかなか馴染んでくれなかったから、マリリンと色々試してたんだよぉ?」


「色々?」


「とりま放課後飲み会とかー、だべり女子会とかー、ほんと和香、警戒心強いからぁ、片っ端から予定突っ込んで解していっちゃおー!! って」




……なるほど。


これまで放課後や休日まで振り回されてきた理由がなんとなく判明したみたいだ。




私のため、なるほど。


といいつつも自分たちが騒ぎたかったのも間違いないのだろう。




「和香ちゃんはぁ〜」


「ん?」


「本当は怖がりさん、なんだもーんね」




佐藤の言葉に、一瞬何を言われたのかと思考が止まる。


けれど、別に今更、隠すことでもないか、と酒の入った袋の中に手を伸ばす。




佐藤が買ってきたチューハイの中に桃サワーがあったので、タブを引いてプシュッと開ける。


佐藤は甘い果実酒を自ら進んで飲むことはない。


なのでこの缶は私の為に買って来てくれたんだろう、今度新発売のシェイクでも奢ろう。


佐藤はレモンサワーをごくごくと勢いよく飲んでいる。




「いただきます」


「どーぞ」




こくり、一口飲むと桃の香りと甘さがアルコールに乗ってふわりと嗅覚を包み込む。


しゅわっと弾ける炭酸を舌で味わってから、私は恐る恐る、尋ねた。




「佐藤に私は、どう見えてたの」




他人に、自分の印象を聞くことなんて、あまりしたことがない。


それは、自分が臆病だから、怖がりだから、本心を知るのが怖いから、なんて思いはするものの、こういう質問で本心なんて話して貰えないとも思っていたから。




矛盾した不安定な心の中は、顔や態度に現れることなく、誰にも気付かれることもなく、ただただ考えないように、先延ばししていくばかりで。


面倒くさい、そう言って考えることを放棄して、それでも不安で勝手に頭の中が色々考えていることは、止められなくて。


自分から人が離れていくんじゃないかってまた怖くなって。




でも、佐藤はそんな私の汚くてジメジメした部分に、気付いてくれていた、から。




「凛とした態度取っているくせに、すっごく臆病。石橋を余計なくらい叩いてから渡るタイプ」


「そこまで……してたかな」


「自分も他人も信用出来てないんだよ。でもまぁ、それも去年までの話かなぁ」




ふっと笑みを作り、指先で持っていた缶をまた煽る。


こくこくと上下する喉仏は……今まで気にしたことがなかったけれど、確かに女の人より出っ張っていた。




「いやぁ、たぶんあーしとマリリンに引っ張られてる所とかもあるだろうし、緑もガツガツ本心ぶっ放してくれるおかげもあるんだろうけどさぁ。和香、自分が話す時に考えすぎて黙ることとか無くなって来てんの、自分で気付いてる?」




大胆に酒を煽っていたかと思えば、今度は可愛らしく首を傾げてくる。


佐藤の言うことはなんとなくわかる、確かに考えすぎてだんまりを決め込んで、『面倒くさい』と逃げるのが私だったから。




うまく言葉に出来ないことを、そうやって逃げて逃げて、心を隠していたのが、私だから。


でも、今は?




『一生恨む』


『別に、絶対なんでも受け入れるわけじゃない』


『胡散臭い』


『その顔でそれ聞かれるのも違和感すごいな』


『酔っ払いに重要な話されたところでね』




思ったことをすぐ、返している気がする。


自信が付いた? いや、そういうわけじゃない。


人が信じられるようになった? それも違うだろう。




「三人とも、正直だから」




佐藤も鞠も緑も、ストレートだから。


話し合える間柄だから、話を押し付けないから、少し黙って考えてラグが出来ても、ちゃんと聞いてくれる安心感があるから。




「つまりぃ、あーしらの作戦勝ちなわぁけ。だけどぉ」




こつんと、空になった缶を机に置いた佐藤が、机に頬杖をついて上目遣いでこちらを見上げる。




「そぉんな可愛く素直になってっちゃった女の子を、いっちばん近くで見ててぇ」




じっと、その瞳に見つめられると、吸い込まれるように、目が離せなくなった。




「そぉれで満足する男がどこの世界にいるの? っていう?」




スッと目を細めて、伸ばされる手。


私の指先に触れる指は、今日も温かい。


アルコールの影響もあるだろうけれど、やけに熱く感じた。




「もっと欲しくなっちゃうに決まってんじゃん」




指先が、肌をゆるりと撫でる。




「もっと自分だけ見てほしいって思うじゃん」




指先がきゅっと引かれ、たいして幅のない机の向こう側にいる佐藤の元まで誘われて、そして、その手入れのされた頬に私の手が当てられる。




「友達の距離じゃ、満足できない体にされちゃったわぁけ」




頬擦りされる手の甲が、くすぐったい。


何とも言えない気持ちが胸の奥底から込み上げて来て、気まずい気持ちが膨れ上がる。




「ね?」




真っ直ぐと見つめる瞳に、射抜かれて。




「責任取って、早く好きになって」




もう、感じたことがないくらいに恥ずかしくて、どうすればいいかわからなくなって、余裕がなくなって、いっぱいいっぱいになる。


空いた片手で顔を隠そうとするも、手が足りなくて隠しきれない。




「のどか」




柔らかく、低く響くその声に、私の耳も慣れてきていて。


その声を聞くと、ダメだって思う。


身体中がなにかを求めてしまう。




佐藤のその声に呼び起こされて……何かを期待してしまう自分がいる。


それは……そう、あの観覧車の日から。





「俺の気持ち、さすがに気付いてるでしょう?」


「……き、急に、男に戻るのは……ずるい」


「なぁに? この声に反応してんの?」




クスッと笑われるけれど、こちらからしたら心臓に悪くてそれどころではない。


友達なのに、そこにはいつも通りの友達がいたはずなのに、急にモードを変えて男になる。


手のひらの上で転がされていることくらい、わかっているけれど、変に突っぱねることもできなくて。




つつ……っと手首の内側を撫でる指先の感覚に、ピクッと肩が反応する。


手首……手首なのに、なにも変なこと、されているわけでもないのに。




「和香、アルコール回ってきて赤くなってきてる? それとも俺のせい?」


「……アルコールだし」


「残念」




袖を捲られ、肘まで露出させられる。


その内側を親指できゅっと、血管の上を軽く締められる。


痛みなんてない、けれど、なんだか注射を打つ時のあの感じを思い出して、眉間に皺が寄る。




「和香の血管、いつもより開いてる」


「どこ見てんの気持ち悪い」


「ふふっ、俺酔ってるかも」




上体を起こして机に乗り上げる佐藤の頭がその肘裏に被さると、皮膚の弱いその部分をちゅ……っと、吸い上げた。


まさか吸い上げられるなんて思ってもいなかった私は腕から佐藤の頭を引き剥がそうとするけれど、今度はそこをペロリと舐められて力が抜けてしまう。




「なにしてんだ変態っ」


「やーばぁい、腕一本でヤバい」


「なに、が」




そう、腕一本しか触れられていない、のに、おかしい。


なんだこれ、なんでこんなので私の体、変な感じになってるの。




「のどかの全身を、のどかの隅々まで巡ってる血が、この下で流れてるんだなぁ……って」


「あんた今めちゃくちゃ危ない発言してると思うんだけど」


「いや、変な意味じゃなくて」


「変な意味以外のなにものにも聞こえないんだけど」




佐藤の言葉の意味を読み取ってなのか、それともその吐息が未だに皮膚の内側に刺激を送っているからなのか、こちらの呼吸まで乱れてきて。


いや、アルコールのせい、アルコールのせいなんだけど。


腕に落とされていた視線が、ゆっくりとこちらに向けられると、また楽しそうに笑う。




「耳まで、まっか」


「あ、アルコールのせい」


「言い訳、本当にそれでいいの?」




バクバクと忙しなく動く鼓動、熱くなっていく体、速くなる呼吸。


アルコールだけなわけない、低い度数の缶一本すらも飲み終えていないのだから。


佐藤に、飲み込まれてしまいそうだ。




髪を巻いて、メイクもキッチリきめていて、ほんのり柑橘系の香りを漂わせる佐藤に、酔わされて。




「のどか、今、すごくそそる顔してる」




負けてしまいそうだ。


佐藤が、変わった?


私が、変わったの……?


変わることは怖かったはずだ。




それなのに、それなのに今は……怖いどころか、期待をしてしまっている自分に嫌でも気付かされてしまう。


腕だけじゃ、足りな……いや違う、おかしい、でももっと。


もっと、佐藤に近付いてほしい私は……おかしい?




「怠惰だったはずの和香ちゃんの、欲との葛藤」


「……!」


「きっとこんな姿、誰も知らない、よな?」


「……うるさい」


「もっと欲しがって」




腕から上がってきた指先が、頬を撫でる。


目の端に溜まった涙を拭うと、満足気にまた笑う。


だめだ、流されてしまいそう。


けれど、だめ、なの? 本当に? なぜだめなの?


わからなくなってくる。


酔ってる、から、だ。




「素直になれない、そんな和香も可愛いよ」




唇に触れる親指に、きゅっと唇に力を入れて侵入を拒む。




「和香が堕ちてくれるなら、俺はこの先ずっと離さない」




口が、開けない。


その親指が侵入してこようとしているから。


言葉が、返せない。




上唇を、そのネイルを纏った指先で弾かれると、直後、鼻をきゅっとつままれた。


──呼吸、が。




「アルコールのせい、だもんね」




その手首を掴んで離そうとするも、すでに上がっていた息が苦しくなる方が先で、酸素を求めてしまう。


開いてしまうしかない唇を覆い込むように重ねられる唇、躊躇なんてなく侵入される舌先が、強引なのに、優しく絡まる。


溺れる、溺れてしまう。




ガタッと聴こえる机の音、佐藤の視線が一瞬下を見てから、小さな机が横に避けられる。


かろうじてあった距離を詰められると、首の後ろをその綺麗な指先が髪を絡めながら支えた。


ようやく離れたかと思ったその唇を、整わない呼吸のまま見つめる。




「のどか、まだ飲み足りないでしょう?」


「……は」




いつの間にか、その手に持っていた缶を佐藤が口に含む。


まって、それ、私が飲んでいた桃サワー──!!




そのピンク色の缶を認識した直後には、再び重ねられたそこから、シュワシュワとした液体が流れ込んで来ていた。


甘い香りを纏って弾ける、紛れもなく佐藤が口に含んでいた桃サワーが、私の喉を通っていく。




もう、やってることがめちゃくちゃだ、こいつ。


炭酸に反応してツンと痛む鼻のせいで涙まで出てくるし、目の端にキスを落としてからまた流し込まれる、桃サワー。




私も、もうめちゃくちゃだ。


溺れてしまう。


友達だと、思ってたはず、なのに、それなのに。


気持ちいい、やめてほしくない、一瞬でも離れる柔らかな唇が、寂しい。




良くないことだと、頭の端では思っているのに。


鞠と緑になんて言えないことをしている罪悪感の裏側で、優越感と幸福感が押し寄せてくる。


いやだ、苦しい、怖い、それなのに──このまま溺れてしまいたい。




「ねぇ、知ってる?」




柔らかな口調で囁かれる声。


ぼぅっと揺れる視界の先で、綺麗に手入れのされた唇が艶めかしく動く。




「酒は本来の自分を暴くの。自分の欲が暴かれてるの」



ぼぅっと、働かない頭の奥に響いてくる、声。


酒……あば、かれてる?




「だからこれは、のどかの本当の欲望、だね」


「……よく、ぼ……?」


「ん、和香は俺の事、どうしたいと思ってんの?」




酷く眠い頭の中、アルコールが変に回ってきて、眠気を誘われている事を理解する。


いつもなら、寝ないけどたぶん──あのキスのせい、だ。


変な酔い方、した、し。


気持ち、良くて……。




ふわりと浮かされた感覚に一瞬目が覚めるけれど、ふかふかとしたお布団の中に入れられる感覚で、迷いなく私の大好きな世界に誘われる。




「かわい。おやすみ和香、また宅飲み付き合ってね」




その言葉を最後に聴いて意識は深く深く落ちていった。

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