第四章 爆裂夜

第24話 呪霊

 どこまでも落ちていく。彼にとどめる術はない。世界の底が抜けていた。

 永遠にも等しい瞬間を落下し続けながら、しかし彼は未だ絶望してはいなかった。

 しくじったのは確かだ。相手を格下と侮り、足を掬われた。


 あの小わっぱ、シュライン・クライシュとか言ったか。姑息な技を使いおって。

 もしも正面からぶつかり合うなら、クライシュごとき彼の敵ではなかった。圧倒し吹っ飛ばし粉砕する。簡単なことのはずだった。そしてそれは相手も十分承知していた。


 彼の攻撃に対し、クライシュは己の力で抗うことをしなかった。奸計を用いて、彼の元へそのまま返るように仕組んだのだ。


 逆流する波動は彼の蔵する霊気を震わせ、更なる波を呼び起こした。自らを乗じるように急激に重ね合わされていく振幅は、ついに空間の保持できる限界を超えて、次元の壁を突き破った。彼は天の礎を踏み外した。


 いつ終わるとも知れない垂直移動は、だがいつしか果てていた。そして行き着いたのは未知の場所だ。しかし何処だろうと知ったことではない。

 肝心なのは一刻も早く元の世界へと還ることだ。そしてクライシュに卑劣な策略の報いをくれ、魂のかけらとなさしめる。

 だがそれは困難だった。


 時空の一隅を破壊するほどの奔出を強いられたことにより、彼の霊力はほとんど底をついていた。この状態では天に昇ることはおろか肉体の損耗を回復することさえままならない。


 さらに大きな問題があった。

 この世界の霊格の低さだ。

 どれだけ鉄を集めようと決して金には変じないように、質の悪い霊力を徒に積み増しても、上位層へと跳躍するための門は開かない。


 高純度にして高密度の霊気が必要だった。つまり、彼自身と同じ種類の存在が。

 そして彼は待ち続けた。低位の者どもの魂を呪縛し、霊力を吸い取りながら、いつか贄となる者が現れる時を。


 だけどそんなの勝手過ぎるわ。

 ぼんやりとした意識の中で彼女は思った。


 本来の自分のものとは別の世界に落ちてしまったことには同情する。それでも戦って反撃された結果なら自業自得のようなものだろう。こちらの世界の人達を文字通り食い物にしていい理由になんかならない。


 シャルロッテの方がまだましだ。陽虎の意思と存在を認めているのだから。

 あれ? でもそれなら今のは誰の夢だったんだろう。


 シャボン玉を吹いたように次から次と疑問が浮かぶ。

 そもそも夢だったの? それならわたしは寝てるってこと? まだ夢の中にいるの?


 分らなかった。眠る前にしていたことを上手く思い出せない。

 とにかく、いったん起きよう。


 眉間の裏側に力を込めて、櫻子は目を覚ました。少なくとも本人的には目を覚ましたつもりだった。


“……真っ暗。なんにも見えない。まだ夜なのかな?”

 などとひとりごちてはみたものの。


 本当は泣きそうなぐらい焦っていた。なんだか知らないが状況はかなりまずそうだ。

 体だって動かない。むしろ体があるのかさえ自信がない。心だけが宙にぽっかりと浮いてるみたいな感じだった。


“じょ、冗談じゃないわ。これじゃまるでわたしが幽霊にでもなったみたいじゃない”

“うん、そうだよー。話が早くて助かるなー”


“え”

 誰。ていうか、何?

 櫻子は闇の中を見回した。だがやはり誰の姿もありはしない、と思いきや。


“わっ、びっくりした!”

 引っ繰り返りそうになる。顔が触れ合いそうな間近に突然、高校の制服を着た女の子が出現していた。櫻子へ向けて妙に明るい笑みを浮かべる。


“わたしはヒカゲ。ヴラド様の呪霊じゅれいだよ。あなたの魂は呪縛したから、これからずっと一緒にいるの。仲良くしよーね”


     #


 カーテンが閉め切られた薄暗い部屋で、陽虎ようこはきつく拳を握り締めた。霊体だ。生身ではない。そのせいで感覚は些か鈍いものの、異性の中にいるよりは、自分の体の方が馴染みはある。

 だが心安らかな気分からはほど遠い。


「櫻子……」

 少し前まで誰より身近にいた少女の名を呟く。だが今ははるか彼方にいるように虚ろに響く。


 シャルロッテはさっきから目を閉じたまま動かない。眠ってはいなそうだが、およそ気力というものが抜けた風情だ。

 櫻子は自宅の部屋のベッドで寝ているはずだ。完全な意識不明状態だが、晴日が付き添っているから、家族の相手など諸々は任せておいて心配ない。


 ──矢部邸への偵察へ向かったあと、焦燥もあらわに帰還した陽虎を一目見るなり、シャルロッテは異常を察した。

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