第20話 掌返し

 

 休暇が終わって再び舞鶴に戻った隆は、先日堅田駅前で見た青年達の姿を思い出していた。

 今まで隆が見聞きしてきた『国民の怒りの声』は、あくまでも新聞紙上の人物や東京・大阪など大都市のはねっかえり者だけだ。内心では怒りを抱えている者も居たかもしれないが、それを堂々と口に出す者は、少なくとも隆の周囲には居なかった。


 だが、滋賀県の田舎町でも現実にああした『怒りの声』を上げる者が出始めている。

 米英に対し、国民の中に相当なうっぷんが溜まっていることの証拠だ。このまま怒りを爆発させれば、本当に米英を相手取った戦争を始めることにもなりかねない。


 隆自身、戦争そのものを忌避する気持ちは無い。米英は明確に日本の利益を阻害しにかかっている。軍人の使命は日本国の経済的利益を守ることにあるのだから、軍人なればこそ、これを黙って見過ごすことは出来ない。

 だが、だからと言って今すぐ米英を相手に戦争を始めるか、というと話は別だ。


 戦争に反対はしないが、勝てない戦争はするべきではない。今はまだ経済的利益の阻害だけで済んでいるが、戦争に負ければ賠償金を支払わねばならなくなる。いや、賠償金だけで済めばまだマシかもしれない。

 最悪の場合は、満州の権益そのものを失うことも覚悟せねばならない。


 仮に戦争を始めるのなら、それは勝つ算段がついてからでなければならない。

 果たして軍上層部にその算段があるかどうか、隆は疑問だった。


 春が過ぎ、夏も終わりに差し掛かった頃には、世間の空気が明確に変わってきていることを肌で感じた。


 隆が舞鶴に来るきっかけとなった五・一五事件の公判が始まり、海軍将校らの弁論が世の中に拡散されていくにつれ、徐々に彼ら海軍将校の思想に日本全体が共感を示し始めたのだ。無論、それらは軍拡へと突き進む日本の情勢と無関係ではない。

 だが、隆にしてみれば『勝手を言う』としか思えなかった。


 事件発生直後に尋問を受けた憲兵の顔が浮かんだ。隆をまるで罪人の如く扱い、こちらの話を端から聞こうともしない態度だった。


 当時の隆は、それもやむを得ないと納得していた。冷静に考えて将校たちがやったことは内乱罪であり、軍法会議の上で極刑になっていておかしくない。

 その一味と目されたのだから、蒲生に救われた自分はつくづく運が良かったのだと当時は思った物だ。


 だが、今になって世間は彼らの志を称賛し、海軍の上層部すらも寛大なコメントを発表している。

 掌を返すとは、まさにこのことだ。


 もっとも、それらは国民感情だけの問題ではない。実行犯の将校らが公判においてロンドン軍縮条約に反対する意見を述べていたため、艦隊派は彼らの意見を支持し、条約派に対する牽制を行っている。条約派が彼らの非を鳴らせば鳴らすほど、艦隊派が彼らの肩を持つという構図が見え隠れした。

 要するに、海軍内部の政争の具になっていただけだ。しかも、隆の見るところ情勢は艦隊派に有利と言える。


 そして、秋川隆は条約派の一人である百武源吾中将の懐刀、蒲生喜八郎中佐のお気に入りだ。

 隆自身も海軍の主流派から外れている自覚はある。むしろ、喜んで蒲生について来てすらいる。その隆にとって、現在の海軍内部の情勢は苦しいものと言わざるを得なかった。


「秋川中尉! 揚錨ようびょう(イカリを上げること)準備完了しました! いつでも出航できます!」


 隆は若い下士官の声にはっと我に返った。

 今日から二週間の哨戒任務だ。三隻で隊を組んで日本海を哨戒して回る。

 日本海には満州に物資を運ぶ貨物船や、人を運ぶ客船などが常時運航しているが、それら民間艦艇の安全を守るのが今のところ舞鶴要港部の役目だ。

 重要な任務ではあるが、海軍の表舞台からは外されているという実感もある。


「ご苦労。操舵室に通達しろ。出航準備よろし」

「ハッ!」


 敬礼をした後も下士官がモジモジしながらその場にとどまっているので、隆は不審を覚えた。


「どうした?」

「あの……今回の航海から秋川中尉が甲板士官を務められると聞きましたが、本当でしょうか?」

「その通りだ。俺が甲板士官では不満か?」

「いいえ! 秋川中尉は我々を無体に殴ることが無いので、喜んでおります!」


 満面の笑顔で堂々と言い放つ下士官に、隆も思わず苦笑した。


 甲板士官とは副艦長直属の風紀取締り役で、若い中尉が担当することが多い。もっとも、やっていることは船の便利屋だ。


 やれ下士官の喧嘩が起これば仲裁に走り、やれ排水が詰まったと言っては掃除道具を持って駆け付け、寄港して物品の買い出しをとなれば『だれに行かせるか』といった人選もする。

 他にも甲板掃除の監督もやるし、陸で下士官が問題を起こした時には女郎屋に頭を下げに行ったりもした。

 およそ船で起こる全ての雑用が甲板士官の任務だ。


 甲板士官の仕事の一つに下士官の教育がある。教育と言えば聞こえはいいが、要するに鉄拳制裁による綱紀粛正を行う役目だ。

 士官自身も海軍兵学校で上級生から散々に殴られて育っており、こうした鉄拳制裁をいけない物だと認識すらしない士官は多い。


 その為、時に行き過ぎた暴力が起こるのも日常であり、制裁役として下士官の怨嗟の的になるのも甲板士官の宿命だった。


「俺とて、貴様らを一切殴らんわけではないぞ。言って分からねば、殴って分からせるしかなくなる。精々、俺に甲板棒を使わせないようにしろ」

「ハッ!」

「……貴様、名前は何という?」

横井よこい俊明としあき二水(二等水兵)であります!」

「横井か。あまり俺にはなつかん方が、貴様の為だぞ」

「はあ……?」


 横井が訳の分からないという顔をする。

 ここで秋川の手下と目されれば、今後別の船に異動になった際に虐められないとも限らない。隆は横井の為にそれを危惧した。



 出航した月進は、予定通り哨戒任務を進めた。

 特に戦闘が起こるわけでもなく、航海は順調にすすんだ。そもそも制海権は日本にあり、しかも敵艦が出現しやすい場所は佐世保鎮守府の受け持ちだ。

 舞鶴要港部の管轄で敵艦を発見する可能性は最初から低い。


 だが、そんな航海でもトラブルは起こった。

 ある日、先任中尉(上席中尉)から排水の詰まりを直せと指令が下り、隆は慌てて現場に急行した。古い船のことであり、こうした水回りのトラブルは日常茶飯事だ。

 だが、今回は現場が現場だった。


 指示された現場はトイレだ。つまり、排せつ物を流す汚水管が詰まった。

 マンホールの奥から強烈な匂いが漂い、思わず胃の中の物がこみ上げてくる。月進乗員五百名の排せつ物を一手に引き受ける汚水管だから、詰まった物の量も甚大だった。


 これには隆も一瞬固まったが、だからと言ってそのままにしておくことはできない。


 おもむろに靴を脱ぎ、ズボンを膝までたくし上げて上はシャツ一枚になる。排せつ物にまみれることになるが、やむを得ない。もはや死は覚悟の上だ。

 手拭いを頭に巻き、いざ突入という所で後ろから若い声が聞こえた。


「秋川中尉!」


 振り向くと横井が立っていた。


「横井か。どうした?」

「自分もお供致します」


 そう言って横井が敬礼する。

 横井は既にズボンをまくり上げ、隆と同じく頭に手拭いを巻き、手には使い古されたデッキブラシを握っている。

 決死の装備を整えた横井に、隆も心からの頼もしさを覚えた。


「よし、横井二水! 只今より排水管に突入する! ついてこい!」

「ハッ!」


 お互いに敬礼を交わし、おもむろに詰まっている箇所の汚水管を外した。

 途端に詰まっていたモノがあふれだし、隆と横井の体中にこびりつく。だが、既に死を覚悟した二人は何の痛痒も感じない。


 管内の詰まった箇所を直した後、周囲にぶちまけられたモノの処理にかかる。床一面に広がった物をバケツに詰めて船外に放出し、空になったバケツを持って再び戦場に戻る。


 ある程度処理が終われば、次は水を撒いて船内の汚れをこすり落とした。

 水と混じると、強烈なニオイが辺りに漂う。だが、隆も横井も既に鼻が馬鹿になっており、特に苦情を言うことも無く黙々と清掃作業をこなした。


 一時間後、隆を駆り出した先任中尉が様子を見に来た時には、隆と横井が目を背けたくなるような名誉の負傷にまみれて床を掃除していた。

 既にほとんどの清掃作業は終わり、二人の衣服以外はピカピカになっている。


 先任中尉も感極まったように涙ぐんだ。


「……ご苦労! 諸君らは我が艦の誇りだ!」


 先任中尉が挙手の礼で二人を迎える。

 だが、決して握手はしてくれなかった。


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