第16話 喜代、大阪へ行く

 

 五・一五事件から三か月が経ち、世の中は表面上落ち着きを取り戻して来ていた。


 首相暗殺というセンセーショナルな事件であったため、発生直後こそ新聞が様々に報じたが、軍部が敷いた報道管制によって具体的な話は国民に伏せられ、詳細が今一つ分からない為に新聞の記事もこの頃には尻すぼみになっている。


 また、輸出の好調が全国に波及し始めており、国内の景気は急速に回復の度を強めていることも影響していた。

 恐慌時の倒産は多くの熟練工を整理する役目を果たし、輸出の好調化に伴って輸出企業の求人は増えたものの、その給与水準は以前よりも低く抑えられている。

 つまり、国民の側にも恐慌前より余裕が無くなり、日々の生活に追われる者が多くなった。


 一方で、日本企業の人件費が安く抑えられていることを不当なダンピングだと断定した英米仏の西洋諸国は、自国の植民地を抱え込んで日本製品を締め出す『ブロック経済』へと舵を切り始めた。

 当然日本も黙っているはずは無く、日本側も満州・朝鮮・台湾などを抱え込んだ『日本円ブロック』の構築を意識し始めている。


 皮肉なことに、開発余地の大きい満州国を抱えたことで日本円ブロックは順調に景気を回復させた一方、米ドルや英ポンド、仏フランのブロックは安い日本産綿の輸入が途切れたことで立ち直りに時間がかかった。今まで下級綿として廉売品を供給してきたインド綿が凶作になったことも追い打ちをかけた。


 日本国内には英米仏の言いがかりとも取れる言い分に怒りが集中し、満州の開発を加速させる一方で欧米と距離を取るべきとする声が大きくなり始めていた。

 それまで国際分業によって経済的な結びつきを強めていた世界各国は、それぞれのブロックで独自の経済圏を作る方向に転換し始め、政治的・経済的な分断が少しづつ世界全体を蝕み始めている。


 そんな中にあって、もはや三か月前の騒動の事はほとんどの国民が忘れかけていた。


 秋川家にとってももはや五・一五事件は過去の話になりつつある。それよりも今は、長女の喜代のことが秋川家の目下の関心事だった。


「大阪?」


 父の新次郎が間の抜けた声を上げた。

 父の正面には志保叔母が座っていたが、肝心の喜代の姿はそこには無い。


「志保。喜代は大阪に行きたいと言うとるんか?」

「喜代が言うてるというよりは、行かせたらどうかってウチの人が言うてるんや」

「ふぅむ……」


 父が考え込む。

 五か月前の帰郷以来、父は様々な伝手で喜代の嫁入り先を探していた。だが、駆け落ちした上の出戻りということがネックになり、なかなか良縁に恵まれないでいる。

 狭い田舎のことであり、そうした噂は瞬く間に広まる。今や村中はおろか、堅田の町でも喜代のことは噂の種になっていた。

 相手の家としても、そうした醜聞のある嫁を迎えることに難色を示すのは無理からぬことと言える。嫁入りした後にもう一度やらかさない保証はない、というわけだ。


「しかし、今更また遠くへやるのもなぁ……」

「今度は、行方をくらませるようなことはさせへんって。

 ウチの人の会社が大阪にも支店を出してるのは知ってるやろ? 近頃業績が好調で、人手が足りんで困ってるそうなんよ。

 喜代さえいいなら、そこで働いたらどうやって」


 千佳から見ても良い話に思えた。

 大阪なら姉のことを知っている人もほとんど居ないだろうし、心機一転やり直せるなら姉の為にもなるだろうと思う。


 姉妹喧嘩のしこりはまだ残っているが、だからと言って姉に不幸になって欲しいとは千佳も思っていない。何と言っても、たった一人の姉なのだ。


「ほんで、肝心の喜代は? お前に任せきりか?」

「まだここには来たくないって。自分が惨めになるからって……」

「そうか……」


 父と叔母がしんみりとした顔になる。

 千佳も以前に本堅田駅で絡んで来た男達を思い出していた。ああした好奇の目に晒されるのは、確かに辛いだろうと思う。


「お父ちゃん。お姉ちゃんにとってもその方がええんちゃう?」


 千佳にもそう言われ、眉間に皺を寄せた父も決心した。


「そうやな。そしたら、ワシからも友宏君にお願いしにいこうか」


 友宏とは志保叔母の夫の名前だ。

 商業学校を出て商社に勤める真面目な男で、父も気に入っている義弟だ。仲の良い義弟とはいえ、娘のことを頼むのならばきちんと頭を下げておかねばならない。昔気質の父にはそうした頑固さがあった。


 目下頭を悩ませていた喜代のことがとりあえず決まったことで、父と叔母も少し砕けた雰囲気になった。

 千佳はお茶を淹れなおすために台所に向かおうとしたが、立った瞬間に軽いめまいを覚えた。

 そんな千佳を志保はじっと見ている。


 不意に志保が口を開いた。


「千佳。アンタ、もしかしてできたんやない?」

「できたって、何がや?」


 父が訳の分からないという顔をする。

 志保はやれやれといった顔ではっきりと言った。


「赤ちゃん」


 その瞬間、父は光の速さで千佳を振り返った。

 その目は「ホンマか!? できたんか!? 男の子か!?」と雄弁に語っていた。


 千佳自身、心当たりがないわけではない。

 もう二か月近くも月のモノが止まっているし、家事をしていても不意に眠気に襲われる瞬間がある。だが、精神的に不安定な時はそうしたこともたまにあった。

 ここの所色々あったし、その影響かもしれないと思って誰にも言わなかった。


 志保自身は子供が居ないが、千佳の母を始め何人もの妊婦を見て来ている。そうした経験から直観したのかもしれない。


「こ、こりゃいかん! ワシ、ちょっくら産婆さん呼びに行ってくるわ」

「わ、私急いでお湯沸かします」

「待った待った! 兄さんも義姉さんも落ち着いて!」

「そやけど志保ぉ……そや! 隆君にも報せんと!」

「それも待つ! いつ頃出来たか、心当たりはあるんか?」


 志保の言葉の後半は千佳に当てた物だ。


 千佳はためらいながらコクンと頷いた。

 自分の性交渉を両親に披露することはいささか気まずかったが、本当に妊娠しているとしたら両親の協力は欠かせない。


「多分……五月の時に……」

「ほな、まだ油断はできひんな。兄さん、義姉さん。しばらく千佳は家でゆっくりさせてやって」

「おお、おお。大事な体や。安静にせなあかん」


 慌てる両親と冷静な叔母の対比が面白く、千佳は思わず笑った。

 それよりも何よりも、嬉しかった。


 ――隆さんの子を授かったかもしれない


 そう思うと、自分でも訳が分からないほどの幸福感がこみ上げてくる。


 ――丈夫な子を産みたい。できれば、隆さんに似た男の子を


 千佳は今、心から幸せだと思った。

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