第14話 罪悪感


 五月に入り、隆から帰郷すると連絡があった。上海租界で起きた『上海事変シャンハイじへん』も決着の目途がついたことで、長期に上海に詰めていた兵員に休暇が与えられるそうだ。

 難しいことはどうでも良いが、とにかく隆が無事に帰って来る。それだけで千佳には充分だった。


 千佳が本堅田駅で汽車の到着を待っていると、いきなり見知らぬ男達に声を掛けられた。男達の顔には何やら千佳を揶揄するような笑いが浮かんでいる。


「よお。お前、秋川ンとこの喜代の妹だろ?」

「……そうですけど、それが何か?」


「お前のアバズレ姉貴、帰って来てるって本当かよ」

「今どこにいるか、妹のお前なら知ってるんじゃねぇの?」


 男達の下卑た笑いに嫌悪感を抱きながら、千佳は慎重に言葉を選んだ。いくらケンカ中とはいえ、こんな男達に姉の居場所を教える気にはなれない。


「……知って、どうするんですか?」

「俺達の相手もしてくれねぇかと思ってよ。お高く留まって気に入らねぇ女だったが、顔だけは良かったからなぁ。キズモノになった今なら、遠慮もいらねぇだろ」


 昼間にも拘わらず、男達からは強烈な酒の匂いが漂って来る。男達の下品な言葉と相まって、千佳は思わず吐き気がこみ上げて来た。


 高橋是清の金輸出禁止政策により円安に転じた日本は、輸出の伸びに引っ張られる形で昭和恐慌以来の不況を徐々に脱出し、好況へと転じつつある。とはいえ、それが地方に波及するまでには至っておらず、失業者は未だ町に溢れている。


 この男達もそうした失業者の一人なのだろう。


「私、知りません」

「とぼけるんじゃねぇよ! どいつもこいつも俺らを馬鹿にしやがって。なんなら、妹のお前が相手してくれてもいいんだぜ」


 男の手が千佳の腕を掴む。嫌悪感に駆られて、千佳は思わず男の手を振り払った。


「やめてください!」

「騒ぐんじゃねぇ。お前も亭主持ちらしいじゃねぇか。男を知らねぇってわけじゃねえんだろ? 今更初心うぶなふりしてんじゃねぇよ」


 男達の目には狂気の光が宿っている。このままでは、本当に無理矢理乱暴されてしまうかもしれない。

 千佳が恐怖で体を固くした瞬間、男達の腕を別の男が掴んだ。


「お客さん。暴れるなら、余所でお願いできませんか」


 本堅田駅の駅員さんが騒ぎを見て駆け付けてくれたようだ。その様子は周囲からも気付かれたようで、あちこちからヒソヒソとした声が聞こえて来る。

 チッと舌打ちをした男達は、駅員の手を振りほどいて行ってしまった。


 千佳は心底安堵して駅員さんに御礼を言った。


「あの、ありがとうございます」

「相変わらず、千佳ちゃんは絡まれやすいみたいやね」

「え……?」


 千佳は驚いて駅員さんの顔をまじまじと見た。その顔には確かに見覚えがある。


「もしかして、吉田さんとこのヒロちゃん?」


 吉田よしだ広明ひろあきは、千佳の幼馴染だ。

 同じ小学校の同級生で、よく川で一緒に魚を獲って遊んだ記憶がある。団子鼻は相変わらずだったが、下ぶくれの頬は随分とスッキリしており、制服を着た姿にはある種の頼もしさを感じた。

 小さい頃は、千佳が悪ガキにいじめられた時にこの広明がよく助けてくれたものだった。


「気付いてなかったんか。何回か千佳ちゃんが旦那さん見送るところ、見てたんやけどな」

「そうなんや! うわ~懐かしい。いつから駅員さんやってるん?」

「去年の春に中学校を卒業してから、すぐに」

「そっか。いつもご苦労様」


 広明としばらく話し込んでいると、やがて汽車が駅に入って来た。

 客車の中から待ち焦がれた隆の姿を見つけ、千佳が手を振る。隆も千佳に気付いたようで、ゆっくりとこちらに近付いて来た。


「ほな、俺は仕事に戻るわ」

「うん。またね」


 広明はそう言って千佳から離れて行ったが、入れ替わりに千佳の隣に来た隆は、広明の背中に視線を送った。


「お知り合いですか?」

「はい。小学校の同級生なんです」

「そうでしたか」


 そう言って隆は笑ったが、心なしかその顔には元気が無いように感じた。

 家に戻ってからもそれは同様で、風呂に入り、縁側に座ってビールを飲みながらもどこか上の空というか、ぼーっと考えごとをしていることが多かった。


「お疲れですか?」


 不意に千佳が聞くと、驚いた顔で「いえ、そんなことは」と答えるが、しばらくするとまたぼーっとしている。

 こうして側に居てくれるだけで千佳は幸せなのだが、反対に隆の方は幸せだと感じてくれているのだろうかと少し心配になった。


「そう言えば、留守中何か変わったことはありませんでしたか?」


 隆にそう聞かれて、千佳の頭に姉の喜代の事がよぎった。だが、姉の物言いをまだ許せないでいることもあり、隆に告げることは控えた。


「いいえ。何もありませんでしたよ」


 そういってニコリと笑うが、千佳の心は少し重くなる。

 初めて隆に嘘を吐いてしまった。その思いが、千佳の胸に棘のように刺さった。


「あ! そう言えば、冬に漬けたたくあんがいい塩梅に出来たんです」


 思い出したように千佳がいそいそと漬物皿を持ってくると、隆が皿のたくあんを一枚指でつまんで口の中に入れた。

 ポリポリと小気味良い歯ごたえのたくあんは、糠の塩梅も良く塩味の中に甘みも感じる自信作だ。


「うん。美味い」

「良かった」


 喜ぶ隆の顔を見て千佳も心底ほっとした。

 だが、またしばらくすると隆がぼーっと外を見始めた。


 再び喜代の言葉が頭をよぎる。


『どこかの港にオンナでも作ってるわよ』


 頭に響く喜代の声を心の中で否定したが、ならば今の隆の状態をどう説明するのだ、という声が再び聞こえる。

 あんなに優しい隆が、まさかそんなことをするはずない。そうは思ってみても、心ここにあらずと言った隆の様子は他に説明がつかない気もしてくる。


 夜になって布団に入ると、千佳は不安を打ち消すように積極的に隆を求めた。

 自分から隆に口づけをし、自分から隆の上に覆いかぶさる。だが、隆の目はまた遠くを見る目になっていた。

 千佳は思い切って隆に聞いてみた。


「航海で何か変わったことがあったのですか?」


 あえて『上海で』とは聞かなかった。以前に見た広告の美女が頭をよぎる。だが、千佳の方を振り返った隆は、千佳の目に並々ならぬ意志が込められていることを見て取ったか、ポツリポツリと重い口を開いた。


「上海で戦争が起きたことは、千佳さんも承知のことと思います」

「ええ。新聞で見ました。心臓が潰れるかと思った」

「……私にとっては初めての実戦でしたが、想像した以上の地獄でした」


 隆の口からその言葉を聞いた瞬間、千佳は己の不明を恥じた。

 浮気などを疑っていた自分が情けない。隆は戦場に身を置いていたのだ。その隆に対し、浮気なんかを疑ってしまった自分の情けなさが嫌になってくる。

 一方の隆は、眉間に皺を寄せて苦しそうな顔になっていた。千佳は今度こそしっかりと隆の話を聞こうと思い直した。


「昨日まで共に飯を食っていた仲間の死を見たことも衝撃でしたが、何よりも驚いたのは、上海に居留する日本人が支那人を攻撃し始めたことです。

 皆それまでとても大人しい人たちで、どちらかと言えば不穏になる政情に怯えていました。

 ですが、一旦戦争がはじまると彼らは自ら棒を持って手当たり次第に支那人を叩き殺した。敵国のスパイだと言って……」


 そこまで言って、隆はひと呼吸置いた。

 額にはうっすらと汗が浮かんでいる。


「軍も彼ら居留民の言葉を信じ、支那人の拠点を攻撃しました。私も上官の命令に従って何人もの支那人を撃ち殺しました。


 でも、今になって思うのです。


 あの支那人達は本当にスパイだったのだろうか。同じ日本人だからと言って、彼ら居留民の言葉を鵜呑みにして、本当に良かったのだろうか、と。

 そう思うと、今こうして安穏と過ごしている自分がひどく罪深い人間に思えてきたんです」


 隆の顔は、今にも泣き出しそうだった。

 たくましく、強い男だと思っていた夫は、今自分の目の前で罪の意識にさいなまれる弱い人間の顔を見せている。

 何故そうしようと思ったのかは不明だったが、千佳は隆の頬を両手でむにゅっと挟んだ。


 隆が突然のことに驚いた顔になる。千佳の顔に目をやると、頬を膨らませて怒った顔の千佳と目が合った。


「あなたは立派に務めを果たして来られました。そして、こうして無事に帰って来てくれた。

 それが罪というなら、私はあなた以上の罪人です」

「……え?」

「他の誰が死んでも、あなただけは帰して欲しいと神様にお願いしてしまいました。私は自分勝手で我がままな女です」

「そんなこと……千佳さんに罪などあるはずが……」

「だったら、隆さんも無事に帰って来られたと喜んでください。私は、隆さんがこうして帰って来てくれたことを喜んでいます。私と一緒に喜んでください」

「えと……」

「お勤めで辛いことがあるのなら、私にも一緒に辛いと思わせてください。一人で抱え込まないでください。

 私は、あなたの妻です。夫が苦しむのなら、私にも一緒に苦しませてください」

「その……すみません」

「いいですね? 隆さんが辛い時、嬉しい時、私も一緒に居させてくださいね?」


 隆は千佳の予想外の迫力に押され、つい頷いた。


「はい……心配させてしまったようですね」


その言葉を聞き、千佳は膨らませていた頬を引っ込めた。


「約束ですよ」


 そう言って千佳は心から笑った。

 こんなことで隆を元気づけられたかどうかは分からない。むしろ、隆に余計な重圧をかけているだけかもしれない。


 ――本当に、わがままで自分勝手な女。


 自分でもそう思ったが、隆が自分の元に帰って来てくれるのならば、それでもいいとも思った。

 千佳は両手で隆の頬を挟んだまま、もう一度自分の口を隆の顔に近付けた。

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