第34話 レインボー改造

 次の日も、その次の夜も、錠はグラウンドへ出かけた。

 カルロスもできるかぎり顔を出した。相手の研究や他のメンバーの状態など、気にしなければならないことは山ほどあるだろう。錠はカルロスの思いを感じ取りながら、あちこち痛む体をさらに痛めつけ、ひたすら汗を流した。

 やがて、ボールを使ってのトレーニングも開始した。カルロスは初歩から徹底的に指導した。

「インサイドキックはこう、直角に」

 以前なら、そんなことわかってる、馬鹿にするなと言っただろう。だが、錠はただ黙々と反復をした。

 トレーニングの目的は、フリーキック以外の技術を身に着け、得点以外でも貢献することだ。とはいえ、レインボーあってこその錠だ。一度失敗しているものの、常時ピッチにいてフリーキックのたびに使えれば、チームにとってもこれほど頼りになるものはない。大きな得点源になる。

 ある日、カルロスは錠に提案をした。

「思い出すのは嫌だろうけど、レインボーについて話し合わないわけにはいかない」

「ああ、わかってる」

「百発百中だったレインボーもそもそも完壁じゃない。わかってるかもしれないけど、レインボーは軸足の向きで方向を判断されやすい」 

 レインボーはボールを越えて大きく軸足を踏み込む。その向きで蹴る方向がわかってしまう。

「それはすなわち助走から、いや、もっといえば、五歩下がるルーティーンのときからってことだ。モーションの大きいぶん、蹴り足の軌道も見定めやすい。加瀬さんが蹴る位置にこだわったのは、正面付近からのキックでは、ゴールの左右どちらに向かって踏み込むか、あからさまにわかるだからだ」

 ゴールの左に蹴るならピッチの右側から左に向かって助走し、右に蹴るなら左側からだ。

 サイドに寄った位置ならば、右サイドから蹴る場合、ゴールはピッチの向かって左にある。ゴールの左右どちらを狙うにせよ、当然右から左方向に向かって助走するのは変わらない。どちら側にボールが飛ぶかは微妙な角度の差になり、軸足を踏み込んだ時点では相手も判別するのは困難だ。

 しかし、サイドに寄れば寄るほど角度的にゴールは狭くなる。寄り過ぎた位置からでは、いくらレインボーでも狙いどころがない。その中間なら、適度にゴールの幅を確保しながら、左右だけでなくニアかファーか、奥行きも使える。加瀬はそこを計算して使った。

 錠はさほど気にしたことがなかった。優れたキーパーは軸足の向きで方向を判断する。もし、適当な位置からのフリーキックだったらオマーンラウンドでも決まっていなかったかもしれない。素人相手ならまだしも、代表レベルになると話は簡単ではなくなるのだ。錠は、加瀬の見極めあっての成功だったと思い知った。

「日本ラウンドのオマーン戦では、理想よりもやや正面に近かった。キーパーは、確信はないにせよ、軸足の向きにある程度の目安をつけて飛んだ可能性はある。あそこで使った、ある意味僕らの責任でもある。加瀬さんも言ってた。一度目は慎重に位置を見極めていったけど、二度目は攻められていたから見切りで出してしまったって」

 日本ラウンドでは防戦一方だったため、流れを変えるための起用でもあった。

「加瀬さんは自分を責めていたけど、でも僕はそうは思わない。それほどわかりやすい角度ではなかった。それに、あの変化と威力なら、読まれていてもそうそう取られるもんじゃない。そう思って僕たちは出したんだ。まさか錠がメンタルでああなるとはね」

 カルロスは苦笑まじりにそう言ったあと、

「経験不足なのさ」

 やや厳しい表現をした。錠は表情をこわばらせたが、内面は柔軟だ。

「ああ……。そうだな」

「おそらく、今のままでも取れるキーパーはほとんどいないだろう。野球でも豪速球に合わせるのは難しい。さらに高速のまま変化すれば、わかっていても空振りするだろう」

 ただ、レインボーにはもう一つ欠点があった。それは距離だ。それほど飛行距離は長くない。コースは自在でも落下のタイミングはほぼ一定だ。そうなると目標から離れ過ぎては、壁を越えられない。

「これから先、相手はできるだけ近い距離での反則を避けるだろう。そうなると遠くから今と同じくらいの時間でゴールに届くスピード、すなわちそれを蹴るパワーが必要になる。それに、トレーニングでパワーがつけばキックの感覚も違ってくる。その調整もやらきゃならないぞ」

 その日から、フィジカル、テクニカルのトレーニングに加えて、レインボーの改良が始まった。


 練習の後は、いつもコンビニに寄ってから部屋に戻った。深夜に行っていた買い出しの代わりに、一日分の食料を調達して帰った。夜間とはいえ、以前より早い時間はやはり人目が気になる。客の多いときは、無自覚にキャップを深くかぶり直していた。

 昼間に外を出歩くのは今でも抵抗があった。ミスした負い目からというよりも、まだ世間に顔向けできるほど進歩していない、そんな思いからだった。

 そんなある日、コンビニで週刊誌の表紙に目がとまった。しばらく気にせぬようにはしていたが、ふとした拍子に目に入った。

 表紙の隅にジョーの文字。慌ててその場から離れたが、しばらく意識はそこに引っ張られていた。またしても、自分ではどうしようもない不安が首をもたげる。

 なにより気になるのは家族のことだ。また自分のせいで傷つけてしまっていないだろうか、記事の内容を確認するのが怖かった。この日は落ち着かぬまま一夜を過ごした。

 翌晩、気丈に部屋を出た錠だが、練習中も絶えずあたりを見回しながらメニューをこなした。

 カルロスは錠の異常を感じ取った。

「錠、ひょっとして週刊セケン、見たのか?」

「い、いや、見てない。見てないけど」

 そう言って、錠は口を濁した。トレーニングの間、カルロスはそれ以上は聞かなかった。

 予定どおりメニューを終えると、カルロスは錠より先にトラックに腰を下ろした。

「錠もすわりなよ。週刊誌、トモのことも載ってたね」

 カルロスは唐突にその話題を始めた。錠は自分の名を見てすぐに逃げたため、友近の記事は知らなかった。友近が日々、見舞いに病院を訪ねていることが書かれているらしい。

 錠は友近の心境を推し量った。

「友近はなんて?」

「ああ、記事のことはそんなに気にしてないみたい。それどころじゃないだろう。事実、載ってるとおり、Jリーグの試合や練習の合間、ずっと病院でお袋さんに付きっきりだって。家に帰らない日もあるらしい。それでいてサッカーには一切の手抜きはないから逆に疲労がね……」

 友近は無理に明るくしているが、心身ともに疲弊しているようだ。

「トモはああ見えていろいろ抱えてる。それは同時にテツさんもってことだ」

 その名前を耳に、錠は反射的に口をつぐんだ。

「テツさんが錠に厳しいことを言うのは期待の裏返しなんだけど、それ以上に錠のことを気にかけている。きっと錠に後悔してほしくないんだ。自分のファンになったことを」

 錠は視線を揺らした。

「テツさんは言うなって言うだろうけど、錠にはわかってもらいたから」

 そう前置きしてカルロスはあの話を始めた。

「以前、テツさんのお袋さんも倒れてね」

 一文字の母は、友近から言えば祖母にあたる。

「テツさんのお袋さんはボランティア団体の役員で、積極的に奉仕活動をする人だった。けど、あるとき救援活動中に二次災害にあってね……。そのとき、テツさんはドーハにいた」

 ドーハ、すなわち、四年前のワールドカップ最終予選の地だ。前回大会の最終予選はセントラル方式で行われたため、日本代表は約二週間にわたってドーハに滞在し、各国と総当りで五試合をこなすハードスケジュールだった。

「大事な四戦目を翌日に控えていたテツさんは戻らなかった」

 日本は三試合を終え、すでに崖っぷちに立たされ、もうあとがない状態だった。四戦目を落とした時点で予選敗退が決まってしまう。

「テツさんのお袋さんは、薄れていく意識のなか、ベッドの上でずっとテツさんの写真を握りしめてたんだって」

 カルロスは一瞬、声を震わせた。

「翌日の試合中にテツさんはファウルで警告を受けて、次の最終戦は出場停止が決まった。それで試合後、すぐに日本に戻って駆けつけたけど……」

 錠は息をのんだ。

「ボランティア関係者や周りの人に責められてね。あのテツさんが相当落ち込んでいた。もうサッカーどころじゃない、何もする気にならない感じだった」

 そんな一文字を救ったのは、友近と姉の言葉だった。

「テツさんの試合のあるときはいつも、トモはおばあちゃんであるテツさんのお袋さんと一緒にテレビを見ていたらしい。そのとき、お袋さんは常にテツさんの写真を持っていたんだって」

 それを息子から聞かされた一文字の姉は、肩を落とす弟に伝えた。

「ベッドで写真を握りしめてたのは、会えなくて悲しいことよりも、きっとテツさんの夢が叶うことを祈ってたんだろうって」

 それを聞いた一文字は、その場にうずくまり涙した。友近はそのそばにずっと笑顔で立っていたという。

 夏の終わりが近いことを教える風が、目の下をひんやりなぞっていく。錠は小さな声を出した。

「ドーハの四戦目って……」

「テツさんのフリーキックで日本が最終戦に望みをつないだあの一戦だ」

 錠の脳裏にボールの軌道がよみがえる。

「あのゴールにはそんな……」

「それ以来、なおさらテツさんはワールドカップに出なきゃならない、そう思い続けてるんだ」

 錠はしばし言葉もなくたたずんだ。

 カルロスは一度立ち上がり、トラックの隅によけておいたバッグを手に取った。そして戻ると、錠のすぐ近くに座った。

「テツさんのことを責めた人たちも、今はわかってくれている。あのときは皆つらかったんだろう。テツさんにすまなかったって言ってくれたらしい。再始動したテツさんの体の状態やそれでも奮闘する姿見て、思いの大きさを知ったんだと思う」

 ここでカルロスは雑誌をバッグから取り出した。週刊セケンだ。

「錠は、読まないのか?」

「いや、読むわけないだろ」

 錠は首を振って言った。だが、

「見てみたらいい」

 そう言って、カルロスは表紙のタイトルを見ながら厳しい表情をした。

「どんなに自分は自由だ、何をしてもいいんだといっても、人の心までは自由にできない。人がどう思おうと自由だから。それを変えようと思ったら行動するしかないんだ。テツさんや、そしてユキヤがそうしたようにね」

 カルロスは一転、笑みを浮かべた。

「錠も同じようにそれを始めたんだ。自信を持っていいんだ」

 カルロスは錠に雑誌を差し出した。

 表紙をよく見ると〝ジョー 深夜の極秘特訓!〟とあった。

「なんだよこれ、まずいじゃん」

 またか、と不信感が心中をよぎるが、カルロスは中の記事を見るように言った。

 そこには、錠が代表復帰のために日々鍛錬を積んでいるという事実だけが記されていた。ひぼう中傷の類はどこにもない。練習内容や場所も伏せられていた。

「見てくれる人は、ちゃんと見てくれてるってことだよ」

 カルロスは笑って続けた。

「厳しいこと言う人こそ、そうかもな」

 錠の中にいくつかの顔が浮かぶ。

 そもそも世間は初めから敵だったのだろうか。そんな気さえした。

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