第32話 あいつら

 錠は、渋谷から電車に乗り、車両の隅にもたれ、サングラスの向こうに流れていく灯りを眺めながら突然の出来事を整理した。

 ずっと、玲子が東大大蔵の名の前に落ちたのだと思っていた。完敗だと思い込んでいた。だが、向こうが錠への対抗心を口にした。

 錠は部屋に着くとすぐにエアコンを入れ、腕を組んで寝転がった。先ほどの玲子の言葉が思い浮かぶ。そのときの彼女の表情はどんなだったか、一瞬さえも見ていないことが悔やまれた。

 そこへ電話が鳴った。錠は体を起こし、静かに受話器を取った。

「あ、錠か?」

 男の声だ。聞き覚えがあるような気はするが、出てこない。もしや、と思った矢先だ。

「俺、河野だけど」

 思った相手ではなかったことに、当てが外れたやら、ほっとするやらで、錠はかすかに息を吐いた。

「あのさ……。ごめん、すまなかった……」

 河野はいつもと違うテンションで、ばつが悪そうに謝罪を口にした。またしても意外な展開だ。

「そ、それじゃあ」

 そう言って河野が切ろうとしたと同時に、錠も言葉を発した。

「それだけか」

 ふと突いて出た言葉だったが、それをその程度ですむかと解釈した河野は慌てた。

「だってよ、あんときお前、冷たかったじゃん。久々に会ったのによ」

「あ、いや……、そういう意味で言ったんじゃ……」

「俺、お前に何したってんだよ」

 そう言ったあと、さすがに河野は逆ギレになっていることに気付き、テンションを落ち着けた。

「いや、実はあいつらによ、謝れって言われてよ」

「あいつら?」

 そう言いつつ、察しのほうはすぐついた。

「そりゃ俺が悪かったわ。だからごめん」

 河野は先ほどよりも普段に近い口調で言った。

『怒ってないから』

 玲子の言葉を片隅に、錠はもはやその件はどうでもよく思えた。

「もう、いいよ」

「マジでごめん」

 しゃべり方はいつもどおりに戻ったが、河野はこのあとも彼らしくない言葉を続けた。

「あのさ、前田は悪くないから責めないでやってくれ」

 錠のなかで声に出せない思いが膨らむ。ここのところ、人に頭を下げられるたびに自責にかられてばかりだ。

「前田さ、高校時代、干されてたらしいんだ。だから、すごく友人関係に敏感みたいでさ」

 錠は知らなかった。おそらく酔って自分から河野にしゃべったのだろう。

「でもさ、俺が言うのもなんだけどさ、あいつらいいとこあるよな」

 錠に三人の顔が思い浮かぶ。

「そういや、謝れって俺んちに来たとき、大木の妹がさ、すごいおっかなくてさ」

「大木の妹?」

「ああ。俺も最初おとなげなくキレて、なんだこのガキってなっちまった」

「あの子、まだこっちにいたんだ」

「大木は用あって、その代理だって。多分あれだな。大木、弁護士目指してるからだろ」

「え?」

 これまた錠には初耳だった。

「たぶん、その関係でいなかったんだろう。でも、うちから弁護士なんてな。まあ、あいつならわかんないけど」

 いくら優秀だといってもうちの大学でのことだ。最難関といわれる国家資格に挑むなんて無謀だ。錠はそう思った。

 そのあと、錠は河野から大木が弁護士を目指すことになった経緯を聞いた。河野も竹内や前田から聞いたようだ。話を総合すると、こういうことらしい。

 大木の家庭は共働きだったが、バブル崩壊を受け、経済的な余裕はなかった。大木は高校でも優秀だったが、家計の負担を考えて大学へ行くことはあきらめ、卒業後はすぐに働くつもりでいた。が、なんとか大木を進学させてやりたいと思う両親との話し合いの結果、私立大は受けず、経済的負担のより少ない国立大に絞って受験に挑むことになった。そこから本格的に勉強を始め、大木は本番のセンター試験でも好成績を挙げた。

 だが、志望大の二次試験が目前に迫った時期のことだ。

 妹の優はこのとき中学生だったが、インフルエンザにかかり寝込んでしまった。優は病院で薬をもらい自宅で安静にしていたが、共働きの両親の代わりに大木が勉強と並行して看病にあたった。

 その甲斐もあって優は比較的早めに回復したが、今度は大木にインフルエンザの症状が表れた。それに加え、もともと抱えていた気管支の障害が悪化し、大木は入院となった。

 それが原因で大木は二次試験を受けられず、唯一の進路を失ってしまった。浪人という選択肢はないため、これから就職先を見つけねばならないという、最悪の事態に陥った。

「でもさ、誰か調べたんだろうな。うちの学校、追加募集で特待生制度やってるじゃん。学費免除になるやつ。大木、あれで入ったらしいんだ」

 錠も制度自体は聞いたことがあるが、大木がそれを利用して入ったことは知らなかった。

「でも、それで済むわけないよな」

 河野の言うとおり、優は私のせいだと自分を責め、大木の親も自分たちが受験前の息子に任せてしまったからだと後悔を抱えた。

 大木本人も、何も満足のできる結果ではない。むしろ三流と言われるくらいなら行かないほうがよいとさえ思えた。

 だが、責任を抱え込む家族を見て、大木は自分がうしろ向きではいけないと思うようになった。だから今は胸を張って進学し、卒業するときには納得のいく結果を出すと誓った。

 そのために始めたのが司法試験への挑戦だ。己のため、大木家のため、在学中になんとしてもという思いで励んできた。

 だが、そんなに甘いものではなかった。在学中の合格など、一流大の学生とて至難の業だ。やはり大木も現実に直面した。保険として一般企業への就活も行ってきたが、そこには学歴の壁が立ちはだかった。

「うちの大学、大手からはレッテル張られちゃってるからな。俺は実力なくても、コネあったから入れたけど」

 河野はあっけらかんと本音を口にしたが、錠にはそれが意外に思えた。

「あいつはそのレッテルとも戦ってるんだな。力はあるのにな」

 大木はもう一年挑戦するらしい。本人は持っている内定のなかからベストなものを選んで就職すると決心したが、家族との話し合いでもう一度夢を追うことになったようだ。

「大木の妹、バイトして金貯めてさ、それ使えって持ってきたんだって。夏休み中はこっちで働いてるみたいだな」

 河野は胸を打たれたように、しみじみと話した。

「大木が俺に謝らせようって言い出したらしい」

 錠は銀縁メガネの顔を思い浮かべた。思えば、河野相手にそんなことを言い出せるのも大木ぐらいだ。

 しかし竹内らも河野にここまで大木の事情を話して大丈夫なのか、錠は気をまわした。

「でもさ、俺もいい機会だったかも……。謝んなきゃ、いつかもっと後悔したかも」

 気付けば結構な時間、河野と話していた。錠に前回のような嫌悪感はない。昔はこんなだったのだろうか。

「なんかさ、頑張ってほしいよな。他人のことなんだけどさあ」

 電話を終えたあと、錠はまた横になった。

 意外だらけだ、誰も彼も。

 ゲンとの会話。東大大蔵、玲子の言葉。河野、前田。そして大木の事情。何もわかっていなかった。

『あいつら、いいとこあるよな』

 先ほどの河野との会話から、錠は彼らとの時間を顧みた。

 あいつら、何で俺みたいなやつと。

 錠は殊勝にもそう思った。

 そもそも俺に友達なんて――。

 錠は入学当時を思い返した。

 そりゃまあ、大学入ったら友達ぐらいつくるだろ。履修科目やらサークルやら情報ほしいからな。

 一年次のクラスの席がたまたま近くだったことから、社交的な前田を中心に、河野を含めた五人は行動をともにするようになった。ただ初めは皆当たり障りのないキャラだったが、河野が離れていったあたりから次第に本性を現しはじめた。前田は快活に、大木はクールに、おのおのが辛口になっていった。竹内はどちらかというと無理に尖っていたのが、角が取れていった感じだ。

 竹内はうちの大学のわりにまめで細かい。大木はうちのレベルをはるかに超えて優秀だ。前田はうちらしく落ち着きがないが、行動力が抜群だ。

 自分はどうだったのか? 錠は自分だけ役回りがない気がしていた。

 初めての前期試験のときだ。基本的に講義はさぼりがち、出てもただ座っているだけの錠は、ノートやプリントなどは手元にないも同然だった。根っからの怠け者だけに、試験前になってから友人たちに見せてもらえばいいと、はなから思っていたのだろう。

 いや、初めのうちは自分も何か役に立たなければと思っていたが、怠け癖は直らない。直らない以上、役に立てることは何もなかった。

 試験の数日前になっても、彼らがまとめたり集めてくる試験情報を錠はただ傍観するだけだった。さすがに無償でくれとは言いがたく、彼らにすがったのは、前日になり、あとがなくなってからだった。

「あのさあ、俺なにも持ってなくてさ、悪いんだけどノート見せてもらえないかな?」

 この言葉に、その場の時が止まった。錠の表情も凍りつく。が、彼らは次の瞬間には笑顔を見せていた。

「ああ、なら、もっと早く言えばよかったのに」

「怖い顔してるから、何かと思ったぜ」

「いっつも話に入ってこないから余裕なのかと思ってた。この人すごいなって思ってた」

「いや俺はさ、テストの話になると無言になるから、ノート見せ合うの不真面目だって怒ってるのかと思ってたわ」

 竹内と前田は楽しそうだ。錠はまだ顔をこわばらせている。

「じゃあ、俺の法学入門見てみ。完璧だぜ」

「ほら、憲法Ⅰのやつ、しょっぱなだからもう始めないと間に合わないぞ」

「え? いいの。これみんなでまとめたやつだろ」

 錠はうれしさをにじませながら、遠慮がちにそう言った。大木はひとり無表情を保っていたが、黙ってノートを取り出すと、目の前にそっと置いてくれた。

 それ以来、四人のなかでこの関係は当たり前のようになっていった。皆あきれながらも、嫌とは言わない。竹内は友達だからなって言う。前田は得意になって情報を持ってくる。

 大木は見せてもらうことに対しては何も言わないが、何か尋ねると必ずノートの取り方や講義の心構えまで説いてきた。錠は、聞いたことだけ答えてくれたらいいのにと、彼のおせっかいをうとましく思った。思えば、大木は自分の手を休めてまでも教えてくれていた。当然のように。

 自分はどんな顔で彼らの前にいたのだろうか? 今は彼らと絶縁状態だ。

 玲子のことで前田を責めた日。あの日の自分を錠は思い出した。彼らの一言一言が、錠とのつながりを保とうとしていたはずだ。それを自ら踏みにじって出ていった。

 あの瞬間まで、なぜ彼らは自分を受け入れてくれていたのだろうか。いや、今だってまだ――。

 不意に熱いものが込み上げる。錠はそれを押し込めた。予防線を失ってからというもの涙腺がもろい。もし彼らの前で涙をこぼそうものなら、なんて言うだろうか。

「どうしたんだ錠。大丈夫か?」

 竹内はそう言ってきっとハンカチを出すだろう。前田は茶化すことで笑いに変えるに決まっている。大木は見て見ないふりをするはずだ。

 出してくれて、変えてくれて、ふりをしてくれるんだ。わかってんだよ、あいつらのことなんて。わかってんだよ、俺だって。わかってんじゃん――。

 一人暮らしを始めた当初、当てにしていた姉はOLになったばかりで多忙をきわめ、電話で話すこともままならなかった。

 部屋に一人でいる間、錠は味わったことのない感覚にさいなまれていた。受け入れ難いことではあるが、きっと孤独を感じていたのだろう。それを埋めてくれたのが彼らだったと今になって気付く。

 初めはきっと錠なりに、素直に彼らと接していたに違いない。遠慮があったのも相手を軽んじていなかったからだ。

 前田に辛い過去があり、大木も大きな事情を抱えて入学してきた。思えば竹内だって当初からキャラクターに悩んでいたように思う。

 皆それぞれ何かを抱えて新たな場所にやってきた。暗闇の中で得た光はそう簡単に手放せるもんじゃない。

 それを俺は――。

 錠はまた目を潤ませた。

 玲子に対してもそうだったのではないか? 

 最初は高嶺の花を前に無理をしてまで気を配った。しかし時がたつにつれ、次第に愛情表現はおろそかになっていった。玲子が自分のファッションや行動にいちいち口を出すこともわずらわしく感じた。そのくせ玲子の態度がつれなく変わっていったのは許せなかった。苛立ちを抑えられず、冷たく当たることしかできなくなってしまった。

 皆、どんな思いで自分を見ていたのか。

 これまで、相手の側から自分を見たことがなかった。いつも自分を守ることだけを考えていたに違いない。ましてや、他人の事情など考えたこともない。意外だらけなのも当然だ。

 前田の件も、大木の件も、思いもよらなかった。特に大木がそんな大きなものを抱えているとは驚きだった。

 錠は大木の境遇に友近を重ねた。スターでありながらも苦難を背負い、母のために笑って前を向く友近。そして単なる優等生ではなく、家族のために戦う大木の姿。

 日本代表と等身大の友人たち。皆、何かを抱えている。

 思えば、大木は一文字とも似ている。あれこれと説教くさい。前田と岡屋は別の意味でうるさい。竹内とカルロスは同じようにお人よしの世話好きだ。

 改めて彼らを思い描きながら、錠は己を省みた。

 俺は大事なもののために、いったい何をしてこれただろう。いや、それどころかすべきことから逃げ続け、そのあげく傷つけていた。

 今は遠く離れている。自分ばかり不幸だと思っていた。きっと自分よりもつらかったはず。なぜわかってあげられなかったのか。溝ができたのは自分の甘えのせいだ。

 それは友人たちや玲子に対しても同じだったろう。

 これからどうすべきか、それはわかっている。わかっているが、今はその資格がない。その前にすべきことがあるような気がした。

 錠はカルロスの手紙に手を伸ばした。そしてジャージに着替えてシューズを履いた。

 ドアノブを握った手が止まる。ドアのその先は夜の闇だ。

 反対の手が、ポケットからはみだしたカルロスの思いに触れた。

 錠はドアを開けた。

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