第26話 キング=ユキヤ
八月中旬。世間が連休に入るなか、錠は地元に帰れるはずもなく、変わらず一人きりの日々を送っていた。
そんななか、ブラジル戦の数日前のことだ。昨晩から関東地方は結構な雨に見舞われ、錠も深夜にコンビニに行くのを控えて早めに床についた。
朝、目覚めると部屋には強い光が差し込み、錠はカーテンを閉めようと起き上がった。外を見ると、夜中の雨が嘘のように快晴だった。
この日が長い一日になるとは、このときは思いもよらなかった。
深夜に出かけなかったため夜食も食えず、食事の買い置きなどもない。やむをえず昼前から外出するはめになった。
手短に用を済ませて部屋に戻ると、ちょうどそのタイミングで電話が入った。ためらいながらも、またもや手が伸びる。
相手はやはり招かざる者だった。
「やあ、錠」
「なんだ、またカルロスか」
「ちょっと付き合ってくれよ」
「はん? 俺はそういう趣味はないんだよ。それにそっちは忙しいんじゃないのかよ」
「いいから、ちょっと外見てよ」
表でクラクションが鳴った。
「まさか」
錠はワイヤレスの受話器を手に、玄関を開けて表通りをのぞいた。路上の脇に、オープンカーが止めてあるのが目に入った。運転席には、携帯電話を片手にいたずらに笑うカルロス。そして、その横でふんぞり返るいかつい顔が見えた。
「うわ、おっさんもか……。どこ行くんだよ」
「ただのドライブだよ。代表に来てとは言わないよ」
カルロスはまたクラクションを叩いた。周囲の歩行者たちが、何気なく振り返る。錠は慌ててドアを閉め、ため息をついたあと、キャップを手に外に出た。
後部座席に錠を乗せ、クルマは街を駆け抜けた。そして都心を抜け、高速道路を降りたあと、次第に山深いところへ入っていった。
「なんだってこんなところに。いいかげん教えろよ」
「あるやつに会いに行くんだ」
「あるやつ?」
クルマはしばし、うねった坂道を進んだ。そしていくつめかの大きなカーブを曲がると、山頂付近に一つ、白い建造物が見えてきた。何かの施設のようだ。
「あれか」
やがてゲートをくぐった一行は、派手なクルマの横に駐車した。建物に入ると、受付が彼らを待ち構えていた。
「こちらです、ちょうどメニューの最中ですけど」
案内されたフロアのガラス張りになっているあちら側は、プールだった。
「お、いたいた。邪魔したら悪いからここで待ってるか」
カルロスたちが目を細めるその背後から、錠はトレーナーに導かれて水中を歩行している男の姿を見た。それは誰であろう、水浦行矢――、あのユキヤだった。
彼は海外の施設で治療を受けたのち、日本に戻ってリハビリを続けていた。
ユキヤは厳しい顔で水をかき分けていたが、一段落すると来客に気が付いた。
「やあ」
プールから上がり、手を振るユキヤの表情は、穏やかに変わっていた。
「着替えてくるから、リビングで待っててよ」
そう声を張りながらトレーナーからタオルを受け取ったユキヤの視線が、一瞬だが錠に止まった。錠は慌てて目をそらす。
あれがキング、ユキヤか。
水浦行矢、三十歳。十六歳で単身ブラジルに渡り、プロになる。その後日本に戻り、日本サッカー界をリードしてきた。ここぞというときに頼りになる、日本代表のエースストライカーだ。
やがてユキヤはガウンをまとって現れた。その傍らには、女優の森本海嘉がいる。ユキヤの奥さんだ。
ユキヤは一行に、にこやかに語りかけた。
「よく来たね。何ヶ月ぶり?」
「半年くらいか。あっちはどうだった?」
「やはり本場だよ、いい環境だった。ここもいいけどね」
トレーナーを見ながらユキヤは無邪気に笑った。そして錠に目を移し、笑顔のまま右手を出した。
「やあ、錠。テレビで見たよ。すごいの持ってるなあ」
錠は無言で応じた。聞きしにまさるユキヤの存在感が手からも伝わってくる。もう代表選手には十分慣れていたが、錠は手を離し、顔を硬直させてうつむいた。
「噂は聞いてるかも知れないが、こいつ、無愛想でな」
一文字の言葉に、錠は下を向いたまま眉をひそめた。ユキヤは表情を変えない。
「ところでどうなんだい、脚は」
カルロスが尋ねる。
「ああ、まずまずだ」
トレーナーの顔をうかがいながらユキヤは答えた。その表情から笑みが失せていく。
「そうですね、順調です。日常生活はほとんど問題はないでしょうが」
トレーナーも複雑な言葉を返した。
「連盟の決定でとんだことになっちまったが」
一文字が最終予選のスケジュールを指して言った。十月に予定されていたセントラル方式による開催が、九月から十一月までのホームアンドアウェイに変更になったのだ。
セントラル方式とは、一次予選を突破したチームが一同に会し、一回戦総当りでリーグ戦を戦う、いわば短期決戦だ。かたや、ホームアンドアウェイ方式は、自国と各国を回っての二回戦総当りの長期戦になる。同じ相手と二回ずつ戦うことになり、今回は約三ヵ月間に渡る予定だ。
「九月、いや十月は」
「……そうですね、プレーは今後次第というところです」
トレーナーの反応に、カルロスも一文字も表情を曇らせた。
「いや、なんとかする。開催は早まったけど、日程は十一月まで伸びた。それまでには間に合わせる。ワールドカップに行くんだ、必ず」
ユキヤが力を入れて言った。錠はそれに引き付けられるように思わず顔を上げた。
「まあ、ミラクルテツさんもいるし、錠もいるしな」
ユキヤは再び笑顔をつくってそう言った。
「頼んだよ、錠。あのレインボーは最終予選でも通用する。自信を持ってやれば必ず、な」
ユキヤに肩を叩かれた錠は、またも言葉が出なかった。
ユキヤ夫妻に見送られて三人は施設をあとにした。
帰る途中、クルマは山間のレストランへ立ち寄った。錠はとっとと帰りたかったが、東京まではかなりの距離がある。付き合うしかなかった。
「どうだ、ユキヤは。初めて会ってみて」
一文字がテーブルを挟んで錠に問いかけた。
「別に。普通の人間じゃん」
「ユキヤは錠に期待してるんだよ」
「へん」
カルロスの言葉にそっけない一言を返し、錠は水を飲んだ。
「ふむ。ユキヤも本当はお前の態度をよくは思わなかったかもしれない。けれど代表として力になってほしいと思っている。お前にな」
「……ふん、本心隠してまで他人頼みか。そうまでしてワールドカップに連れてってもらいたいかね。キングも落ちたもんだ」
それを耳にしたとたん、カルロスがテーブルを叩いた。
「そんな言い方するな!」
いつも穏やかなカルロスの激昂ぶりに、錠は一瞬言葉を失った。
「ユキヤはそんな小さい男じゃないぞ。自分だけのためじゃない、あいつは日本が強くなること、日本がワールドカップに出ることが夢なんだ」
「う、嘘だ……! 自分が勝って、自分が注目されなきゃ意味がない。ユキヤも同じだ」
錠はとっさに反論を口にした。
カルロスは一度、深く息を吐いてから話を続けた。
「ブラジルでプロになったユキヤはひとまず夢を果たした。だけどあるとき、日本のサッカーを馬鹿にされた。日本を侮辱されて黙っていられなかった。だから日本のために帰ってきた。そして日本を背負う男になったんだ」
「俺たちもユキヤを馬鹿にされては黙っていられないぞ」
一文字が野太い声を挟む。
錠はしばし沈黙したが、やがて言葉を見つけ、口を開いた。
「ユキヤは……、ユキヤは自分が一流だからだろう……。なにもかも持ってて、周りからちやほやされて、すべてが思いどおりに動いているから、そんな余裕があるんだ」
「どこまでガキなんだ。だったら、そう思うんなら、自分もそうなったらいい。ユキヤだって、最初から一流だったわけじゃない。それは段階を踏んできた結果なんだ」
一文字の言葉を受け、カルロスが続ける。
「ユキヤは高校に入ってすぐブラジルに渡った。日本では芽が出なかったから。だけどそれは逃げたんじゃない。自分を追い込むためだった。逃げずに戦い、そしてプロのスターにまでなった。そして今またあんなケガから立ち上がろうとしているんだ」
「お前も逃げてないで戦ってみたらどうだ」
錠は思わず、一文字に険しい顔を向けた。
「に、逃げる? 逃げてなんかねえよ。はなから興味ないんだよ、代表なんて」
むきになって反論した。
「そうやって自分の心をごまかし、壁を作って逃げている」
「はあっ? 俺が何をごまかしてるってんだ、言ってみろ!」
錠は感情を爆発させた。
「錠、テツさんの言いたいのは――」
カルロスの言葉を出だしで遮り、錠はさらにかみ付いた。
「どうせ、カルロスも俺のこと負け犬だと思ってるんだろ。どいつもこいつも勝手に決めつけやがって!」
一文字が語気を強めて言った。
「そう闇雲に人を攻撃するんじゃねえ。それじゃかわらないぞ」
「あ? 何だそれ。何とかわらないってんだ」
「一方的な世間とだ」
一文字と対峙したまま、錠は目を泳がせた。
「俺たちはみんなわかっている。世間は勝手なこと言うってな。お前だけじゃない。俺たちは皆いわれない中傷や批判を受けている。選手もメディアを通すと商品になっちまうんだ。俺たちを単に漫画の登場人物みたいに思ってるやつらもいっぱいいる。でもな、そんなやつばかりじゃないだろう」
「そう。どんなに世間から理不尽なこと言われても、僕たちのこと思って応援してくれる人がいるからやっていけるんだよ」
「世間から非難されたからってむやみやたらに敵視するな。まず耳を傾けろ。なかにはいるはずだ。お前のことを本気で思っている人間がな」
錠は宙に視線を止め、再び沈黙した。
「それを見極めるんだ。そしてその人たちのために何もできないのなら、本当のくずだ」
錠は逃げるように目線を落とした。が、やがて声を震わせた。
「あんたに……、あんたにそんなこと言う資格あんのかよ」
そのときだ。一文字の携帯電話が鳴った。一文字はテンションをリセットしてからそれに出た。しかし、
「おう、トモ――、なにっ」
その反応から、明らかに何かあったことがうかがえた。
「わかった、すぐ行く」
「どうしたんです?」
「姉さんが、トモのお袋が倒れた」
一文字の言葉に、錠はひとり混乱した。
「詳しい状況はわからんが、すぐ戻ってくれ」
「わかりました」
所在なさげな錠を見て一文字が声をかける。
「お前もとりあえず乗れ。歩いては帰れんだろう」
オープンカーはルーフをクローズして、都内へと向かった。
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