第2話

 徳川慶喜公の大政奉還からほぼ二か月たった十二月九日、王政復古の大号令が発令された。この号令により徳川幕府は消滅し、新政府が朝廷の中に立ち上がった。幕府と朝廷の合意では公武合体を推し進めた公議政体が成立するはずで、慶喜公が諸藩の大名の代表としての役職に就くはずだった。


 だがその新政府を構成する人名の中に慶喜公の名は無かった。どころか、同日に行われた小御所会議で、新政府は慶喜に辞官と所領の返還を命じた。これは徳川氏どころか諸藩の大名の新政府への参加を拒否し、薩長土肥の限られた数藩のみで政治を行うという意志を強く表明するものだった。


 王政復古の情報は、上方に詰める各藩邸から全国各々の領地に伝えられ、大政奉還よりも強い動揺を各地にもたらした。


「外様はともかく、譜代の家臣は新政府とやらに名を連ねるという話はどこにいったのか」

「薩長土肥が朝廷に上がるなど、身の程を弁えぬ無礼だ」

「一介の藩士、しかも下士上りが帝に拝謁するとは」

「薩長は京に五千人の兵を置いているというが、将軍様が大阪に留め置かれている軍は一万五千。これは思い切って打って出て薩長を打ち負かす一手があるのではないか」


 羽代二の丸御殿の表では、廊下や小部屋のあちらこちらで世間話、というよりも切実に意見を交わす人の輪ができていた。一触即発の気勢は上方でも江戸でも明らかで、江戸と上方の中間にある羽代が余計な動きをすれば、それが雪崩となって大局を動かす契機になりかねない。

 羽代はこれまでよりもいっそう物事に慎重になり、何は無くても息をひそめて周囲の様子を窺わなければならなくなった。


 弘紀は二の丸御殿の執務部屋で、加納から渡された書簡の束を受け取り、中を一つずつ確認していた。この書簡は全て周辺の諸藩から寄せられた状況の説明と確認である。

「紀伊藩が新政府側に着くかもしれないとある」

 弘紀は一通を広げて加納に示した。加納は眉根を寄せて書面を確認した後、当惑した声音を隠さずに弘紀に応えた。

「尾州公は既に勤皇の意志を表して新政府の議定に叙せられております。紀伊様が新政府に就くとなると、水戸公以外、徳川御三家は慶喜公ではなく朝廷に恭順したことになります」

「どうしても慶喜公を朝敵にして滅ぼしたいと思っているのだろう」

 だが二百余年続いた徳川幕府は、その枠組みがまだ形を保っていた。未だ高い戦闘力を持つ幕府の歩兵隊や海軍は、京で、大阪で、そして江戸で、薩長の藩士が引き起こす小競り合いを抑え込んでいた。

 全国の諸侯は、そんな慶喜公と新政府のしのぎを削る争いを横目に、態度保留のままのところが多かった。


 身動きは取れず、けれど全国の動きからは目を離すことができない。

 そんな緊張を強いてくる師走も晦日が差し迫ってきた頃、竜景寺接収の後に一旦身を潜めていた加ヶ里が弘紀に暇乞いを願い出た。

「先日お話いたしました小菊という娘が、どうも国の様子が不安に思えてきたので国に戻りたいと言い出したのです」

 小菊とは加ヶ里が浅井宿に潜伏していた時に出会った娘で、今も加ヶ里と交流が続いているという。聞いた弘紀は、加ヶ里にもそんな一面があったのかと改めて思った。

「小菊の国は伊勢とのこと。とはいえ女の一人旅は危のうございましょう。私が小菊と一緒に伊勢に行き、ついでといっては何ですが、お体の具合が悪い田崎様の親類を探そうかと思うのです。弘紀様のお母上である環姫様が伊勢に嫁せられた時のご様子も調べて参りましょう」

 暇乞いとまごいという割に、加ヶ里は役目を自ら申し出てくる。

「分かった。暇とはいっても、その期間にそれなりの功労があれば手当を支払うから申し出るように。伊勢に行くための適当な手形も用意しておこう」

 弘紀はそう言って加ヶ里の暇乞いを許可した。


 その数日後、羽代城下の町から外れた砂浜で、ともに旅立つ加ヶ里を待つ旅装の小菊の姿があった。白い肌に淡い色の小袖。菅笠を細い肩に背負うその立ち姿は、いつか加ヶ里がいっていたように、優美な白狐が化身したかのような雰囲気を漂わせていた。


 切れ長な小菊の目に強い意志の光はなく、淡い色の虹彩が硝子のように澄んでいる。


 古老に命じられて、浅井宿を通り過ぎる薩摩浪士や伊勢の御師に伊勢神宮の札を渡してきた小菊の役目はもう終わった。

 もう戻って良い、と古老に云われて伊勢に戻るその道中、加ヶ里というあの人が自分を守ってくれるのだという。断り方を知らなかったし、いてもいなくてもどっちでもいいとしか思えなかった。

 自分とあの人はきっと同じような立場の女なのだろう。だからといって小菊がそれ以上何か思うわけでもなかった。


 どこか虚ろな表情で砂浜を見回す小菊の視界に、まろびながら、よろけながら、波打ち際を這うように進む人影が映った。上等の生地で誂たであろう着物は、裾も袖もボロボロに裂けて海風に今にも千切られそうだ。

 それは既に人としての在り方を放棄して変わり果てた田崎の姿だった。


 口の端からは、あぁ、うぅ、と呻き声しか呟かない田崎だが、何かの拍子に意味を成す言葉が零れ落ちる。

「ひめさま……、たまきひめさま……どこにおわしますか……ひめさま……、たまきひめさま……」

 けれどよくよく聞けばその言葉もいくつかの単語の繰り返しで、それ以外の言葉は田崎にとってどうでもいいもののようだった。

 何も聞こえず、何も見えず。

 田崎はただ己の中の闇に呑み込まれてしまったのだろう。余人が踏み込むことのできない薄明の世界を永遠に彷徨っているのだ。


 海風に押されるように、目の前を過ぎていく田崎の前に立ってみたのは、ただの小菊の気まぐれだった。


 目の前に不意に現れた白い人影に、田崎は思考ではなく生き物の本能で立ち止まった。その目が見る間に大きく見開かれた。

「さや……、お前は沙那……ではないか。お前に再び会うとは……!」

 田崎の目は往時の力が戻ったように光を帯びた。だがその光は不安定ですぐにまた虚ろへと揺り戻されていく。それは命の灯が燃え尽きる直前、勢いよく燃え上がる様子にも似ていた。

「環姫様、あなたさまの月狼を見殺しにした我が罪を、どうぞお許しください」

 田崎から失われた言葉が甦り、田崎が小菊の手を押し頂くように握りしめ、そして田崎の体は膝から崩れ落ちるように地に伏した。


 小菊は首を傾げて田崎を見下ろした後、身をひるがえして砂浜を駆けだした。視線の遠い先、自分と同じく旅装の加ヶ里の姿が小菊の目に映っていた。


 しばらく砂浜に伏して動かない田崎の体に、やがてカモメが一羽、二羽と浜に降り立ち近づいてくる。

「おう、カモメども、やめろ。人を襲うんじゃない」

 気づいた漁師が走り寄ってカモメを追い払った。そうしてその漁師が足元を見下ろすと、腕や足にすでにカモメに食いちぎられた形跡のある田崎の死体が砂に塗れて転がっていた


 田崎はすでに、息を引き取っていた。

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