第8話

 その日は昼過ぎまで、修之輔が指揮する馬廻り組の訓練があった。修之輔はその訓練が終わってから直ぐ、軍羽織を目立たぬ黒羽織に着替えただけで竜景寺に向かったのだが、着くころには辺りの草むらから虫の音が聞こえ、夕方の気配が立ち始めていた。


 加ヶ里の手引きによるものだからか竜景寺の山門での出迎えは無かった。残雪を牽いて境内に入り、寺男にその手綱を預ける。

 稲荷神社の社は正月に見た時の新たな佇まいのままで、それでも流石に木の香りは無くなっていた。神官の姿はない。別の寺男が箒を手に持ち境内を掃いている姿が目に留まったが、別段変わったところは無く、修之輔はすぐに寺男の姿から視線を外した。

 目に映る者の全てを疑っていてはきりがない


 加ヶ里から事前に知らされていた通りに修之輔が竜景寺境内の左手奥の庫裡に向かうと、玄関前に寅丸が立っていた。双方軽く頭を下げたが、ここで交わすべき言葉は無かった。玄関に上がる寅丸の後に付いていくと、庫裡の中の小さな座敷に通された。

 歩いてきた廊下の先に暗く続いているのは僧房だった。人の気配はないが、消しているのか、いないだけなのかは分からなかった。


「後ろ、閉めてくれ」

 聞き覚えのあるいつもの飄々とした寅丸の声に従い、修之輔は入って来た座敷の襖を閉めた。右手に床の間、左手は茶壁で正面は障子戸だった。修之輔の目線を見て取った寅丸が、障子戸を左右に開けた。外は笹薮が迫る小さな坪庭だった。寺院らしく手入れはしてあるが石灯篭の一つもない素っ気無さだ。

「久しぶりだな」

 茶壁を背に腰を下ろしながら寅丸が云う。床の間を背にして修之輔も座った。

「……浅井宿のあの夜以来だな」

「秋生も来ていたとは知らなかった」

 あの時、交わした剣が互いに本気だったことは二人とも分かっていた。寅丸の声は聞きなれた明るく乾いたものだったが、どこか空々しく、いつもの余裕を欠いていた。

 だが、くだけた話をする余裕が無いのはお互い様だった。修之輔はすぐに本題を持ち出した。


「今年に入ってから羽代の領地内で頻発した暴動には、薩摩浪士の手引きがあるようだ。薩摩の内情については寅丸、お前が一番詳しい。この企てはどのような体制で、島津家中の誰の指示で動いているのか」

 寅丸は修之輔を諫めることなく、事も無げに話題に乗ってきた。

「薩摩には西郷という者がいる。身分の低い下士の出だが、先代の島津斉彬公にその才を見出され藩の要職に登用された。今は薩摩の行動の全てを、とりわけ軍事行動を仕切っている」

「下士なのにそれほどまでの権限を持っているのか」

 ああ、と寅丸が頷く。


「その下士の出だからこそ、西郷は今の島津家当主に疎まれている。家中での扱いは酷いらしいな。その分、同じ身分の者達から崇敬を得て求心力が高い。薩摩のお偉方も西郷の戦略の才能を否定できない。それどころか、今、西郷を外せば倒幕も公武合体も瓦解するだろう」


 寅丸の言葉に修之輔は軽く眉を寄せた。

「やはり島津公の目的は倒幕なのか」

「攘夷の思想などとうに投げ捨てている。むしろ京都で薩摩を取り締まっている会津の松平公の方が攘夷を根強く信奉しているのではないか。……だが攘夷にこだわる者達に、先は無い」

「その根拠は何だ」

「長州が軍を率いて京に上った。薩摩が軍艦を率いて大阪に上れば戦が始まる。戦が始まれば薩摩長州の連合軍は幕府を打ち破るだろう。すべてが覆る。新政府がこの日本を統治することになるぞ」


 新政府、という聞き覚えのない言葉の響きに修之輔は戸惑いを覚えた。

「新政府とは徳川公の参入を想定していないのか。朝廷と徳川公がともに統治する公武合体には、島津公も賛同しているという話だったが」

「島津公は賛同していても土佐や長州が承知していない。内裏も一枚岩ではないし、なんなら倒幕の密勅の存在も囁かれているのが現実だ」


 倒幕の密勅。


 朝廷がその勅命を発令すれば、徳川将軍とそれに門する大名は皆、朝敵となる。もちろん弘紀もだ。それは血の気が引くほど重大な情報だった。

 流石に強張る修之輔の様子を見ていた虎丸が、不意に修之輔の正面、膝が付くほどの距離に詰め寄った。


「……誰にも言えなかった。儂は、羽代の誰も巻き込みたくなかったんだ」


 修之輔の両袖は寅丸の手に強く掴まれた。だがそれは拘束の力ではなかった。

 溺れる者が助けを求めて縋りつく手だった。

「わしは山崎や外田、それに秋生と一緒に羽代を守るために働きたかった。なのに儂の家に繋がる者達がそれを許さないのだ。皆が羨ましい。どうして、どうして儂は、儂だけが、羽代を守るために戦えないのだ」

 寅丸の声は感情の昂ぶりそのままの大きさで、修之輔が初めて聞くその声音は、ほとんど悲鳴のような響きだった。


「苗字を捨てても、名を捨てても、儂は儂の家を振り切ることができなかった。竜景寺の者達は弘紀様が正当な朝永の後継者ではないという。だから民衆を焚きつけて直訴を起こすのだと、頑なにその考えを変えようとしないのだ」

 日は山の尾根に落ちて、部屋の明かりは空を赤く染める残照のみ。黄昏時の暗さに互いの顔は朧となっても寅丸の表情は明らかだった。


「血縁による踏襲ではなく、民衆が自らの意志で領主を選ぶようになる新たな国を建てるための国造り、身分に捉われない新しい世の在り方だと、そう云う者達こそ儂に家の役目を強要してくる」

 既に寅丸の声は慟哭に近く、修之輔はただ寅丸の奮える肩を見下ろしていた。

「薩摩の者達は羽代の民に攘夷を煽れという。だが儂は西洋の力をみている。攘夷など到底無理だ。儂が目指すのは攘夷ではなく、羽代の茶を世界中に売りに行くことだ。儂がやりたいのはそういうことだ。木村とも話したい。商売について語りたい……!」


 どうして、どうしてと声にならぬ声を幾度か発した寅丸は、やがて顔を上げた。


「秋生、儂は羽代を抜ける。この土地から、家から逃げるのだ。臆病者だ、裏切り者だ。それでも、それでも……!」


 ——寅丸が脱藩しても、私はそれを咎めるつもりはありません。

 修之輔の脳裡にいつかの弘紀の言葉が思い出された。


「……分かった」

 修之輔が発したその一言を聞き、寅丸は修之輔の顔を食い入るように見た。そして、お許し頂けていたのか、と呟き、修之輔の袖を掴んでいた両手の指から力を抜いた。

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