第5話

 修之輔が残雪を駆けさせて弘紀の下に着く前、波笠という出雲の御師は浜から上がり、その姿は街へ向かう人の流れの中に紛れた。


 弘紀の無事な姿が確認できれば敢えてその傍を離れて波笠を追う必要は無い。ただ後ほど矢根八幡宮に使いを出し、波笠を城に近づけないよう釘を刺す必要はあった。


 修之輔は残雪から下りて弘紀の側に寄った。

 傍らに立って見下ろす弘紀の頬は日に灼けて紅潮していた。どのぐらいここにいたのか。

 修之輔は強く降り注ぐ夏の日差しを少しでも遮ろうと、小柄な弘紀の首の後ろに自分の袖を軽く被せた。そのまま弘紀の背中軽く押して大手門に戻るよう促した。だが、弘紀は動こうとしない。

「弘紀?」

 修之輔の動作にも反応が鈍い弘紀の顔を覗き込む前に、砂浜に二人の騎馬姿がやってきた。


「秋生様、どうされましたか」

 それは先ほどまで共に行動してた馬廻り組の部下の時谷と坂口だった。船番所で検番と話をしている途中、修之輔が急にその場を離れたので、その後を追ってきたのだ。時谷と坂口はお仕着せを身に纏った弘紀の正体に気づいていない。


 それでも修之輔は弘紀の躰を自分の背に半ば隠すように引き寄せた。


「これは奥勤めの者だ。御殿に詰めていなければならないのに城の外に出て仕事を放棄しているので、中に戻るように注意していたところだ」

 弘紀がちら、と修之輔を見上げた。修之輔は何も嘘はついていない。

「仕事の放棄はいかんな」

「弘紀様もずっと御殿で執務されておられる。下々の者達も弘紀様を見習い、己の勤めを怠ってはならないぞ」

 時谷と坂口にそれぞれ小言を貰った弘紀は、居心地悪そうに自分の袖を軽く掴んだ。修之輔は時谷と坂口に顔を向け、指示を与えた。

「馬廻り組の我らの今日の勤めはここまでとする。今夜は時谷も坂口も当直が入っている。一度自宅に戻り、充分休んでから定時にまた登城するように」

 時谷と坂口は、はい、と歯切れよい返事を返し、それぞれの自宅のある城下武家屋敷の方へ去った。修之輔はそれを見送ってから改めて弘紀に向き直った。


「弘紀、一人で城の外に出るなと前に言ったはずだ」

 弘紀が修之輔から目線を外した。小言が全く効いていない。それどころか、

「秋生、それは何ですか」

 弘紀は残雪の背に置かれた一尺四方の箱を目ざとく見つけた。

「弘紀」

 話を逸らそうとする弘紀の名を呼んで注意を戻そうとするが、弘紀は残雪の背から箱を下そうと手を伸ばしている。

「それは船番所で預かった荷物だ。奥の滝川様あての荷物だから城に戻る俺が預かった」

「これは私のです。滝川に頼んで、江戸の兄から送ってもらったのです」

 修之輔は弘紀の手を掴んで箱から外した。弘紀は気を悪くする様子も見せず、修之輔のなすがままに手を下した。

「ここでは開けるな。滝川様を介して奥で受け取れ」

「そういうものでもないんですよ」

 ついてきてください、弘紀はそう言った後、有無を言わさず、すたすたと大手門の方へ歩き始めた。

 

 修之輔が残雪を牽いて弘紀の後を付いて行くと、二の丸にある厩の前で弘紀は立ち止まった。箱を寄こせ、という目線だけの無言の命令に従って、修之輔は残雪の背から先ほどの箱を下して弘紀の前に置いた。


 修之輔が残雪を厩番に預けているうちに、弘紀はさっさと箱を開けて中身を取り出した。そして側に戻ってきた修之輔に、鉄でできた何かの道具のようなものを手に持って見せてきた。それは大人の掌ほどの大きさで幅の狭い鋼の板が半円を描くように曲げられている。


「これは蹄鉄と言って馬の蹄に装着するものです。西洋の馬は皆、これを付けているのだそうです」

「馬の蹄に付けるのか」

 修之輔が使う残雪のように、武士が使う馬の蹄には何も付けられていない。だが荷を運ぶ駄馬はその四つの蹄に草鞋が履かされているのが常だ。ぬかるむことの多い土の道で、馬の草鞋はその歩様を助ける。だが鉄は。

「松風に付けようと思っているのです」

 弘紀は自分の愛馬の名を口にした。松風は当主の馬でありながら、世話をする誰の手にも余る悍馬だ。誰が松風の蹄の先にこの鉄の塊を付けることができるのだろうか。

 黙り込む修之輔の様子に、弘紀は何か察したようだ。

「先に残雪に付けて様子を見てみましょうか。箱の中に説明書きが同封されていました。一度私が目を通してから厩番に渡します」

 弘紀は手にしていた蹄鉄を懐にしまい込み、箱を修之輔に寄越した。


 いつもの明瞭な口調でてきぱきと判断を口にする弘紀の様子に、先ほどの砂浜での呆然とした様子はもう見られなかった。ただそれだけで安心して、修之輔は弘紀から蹄鉄の入った箱を受け取った。重さからすると箱の中には蹄鉄がまだあと何個か入っているようだった。


 御殿は厩と同じ二の丸にある。修之輔は御殿の裏、当主だけが使える裏口のある目立たない一画まで弘紀を送り届けた。弘紀は御殿の中に戻る前、辺りに誰もいないのに心持ち声を低めて修之輔に話しかけた。

「……さっき、私が波笠から聞いたことを貴方に伝える必要があります。夜になったら私の部屋に来て下さい」


 夜になって御殿の弘紀の部屋に向かった修之輔は、滝川に話を通して表から弘紀の部屋に行くべきか、これまでのように隠し通路を使うべきか、少し迷ってから隠し通路の入り口を潜った。滝川を通すと御当主お話し相手という役目が付いてその度に俸給が支払われることになっている。少なくはないその俸給は、だが、修之輔にとっては必要のないものだった。


 隠し通路の出口から弘紀の部屋の中に出ると、弘紀は畳の上に寝転がって書付けと思しき紙を広げて読んでいた。遠目に見てもそれには蹄鉄の絵が描かれている。先ほど言っていた説明書きだろう。それとは別にもう一通、上質な紙に品の良い筆跡で書かれた手紙が広げられていた。


「船荷とは別に兄からの文が届いていました。江戸の蹄鉄職人を羽代に寄こすそうです。今、東海道をこちらに向かっているそうなので五日後ぐらいには着くだろうとのことです。その者が来たら城下の鍛冶職人を呼び出して、蹄鉄の作り方や蹄への装着方法を習わせます」

 修之輔は弘紀が差し出してくる蹄鉄の説明書きを受け取りながら、その傍らに腰を下ろした。

「馬にこの蹄鉄が必要なのか」

 土の道を駆け、砂浜を歩ませるだけなら必要のない装備のように思えた。だが畳から起き上がって修之輔の正面に座り直した弘紀の顔は思った以上に真剣だった。

「軍備の一環です。瓦礫や武器の散らばる地を馬が駆けることができるようにしなければなりません」

「……そんな戦闘が起きるのか」

「武器の配備も軍事訓練も、戦闘が起きることを前提に行っています」

 弘紀の声に迷いはなかった。


 そうして瀟洒な飾りの灯明の灯りの中で、修之輔は昼間の波笠の話を弘紀から聞いた。だが、

「伊勢の御師と出雲の御師の其々にたくらみがあると分かったし、羽代内の騒乱が伊勢の御師の扇動によるものであるという証拠にはなると思うが」

 だからと言って本気で取り合うべき内容ではないように思えた。

 伊勢も出雲もどちらも昔話の域を出ておらず、実際のところ幕府の持つ権力や薩摩の持つ強大な軍事力の前にして古の信仰がどれほど影響を持っているのか。

 修之輔の困惑を弘紀は敏く読み取った。


「そうなんです。伊勢が薩摩に協力していると云っても、実行しているのは御陰詣りの再興で、確かに煩わしくはあるのですが今のところそれだけなのです。母の出自についても記録がない以上、波笠が話したことが事実かどうか確かめる術はありません」

 そこで一度溜息をついてから、弘紀が口にしたのは愚痴じみた言葉だった。どこか修之輔に甘えるところがあったのかもしれない。

「それよりも政の場に唐突に記紀神への信仰を持ち出されても対応が難しいし、伊勢であろうが出雲であろうがわざわざ羽代で争うことではないと思うのです」

「弘紀にとってそれらの者たちは、必要のない者なのか」

「そうですね」


 灯明の灯りがふと暗くなった気がした。


 直ぐに炎は揺らめいて、室内に明るさを取り戻した。弘紀が少しだけ首を傾げるいつもの仕草で修之輔を見上げて云う。

「そういえば貴方の周りは近頃どうですか。山崎や外田達の周囲に変わったことは無いでしょうか」

「このところずっと緊張が続いていて体よりも気分が塞ぎがちになる者が増えてきたと聞く」

 軍事訓練だけならまだしも、最近は実戦に近い出動が日常的になっている。外田はずっと休む日がなく、疲れが嵩んで苛立つ兵士をまとめる山崎も疲労が隠せない。

 弘紀はその形良い顎に指を掛けて考えこんだが、直ぐにまた顔を上げた。その目は面白いことを思いついた高揚が煌めいていた。


「では、ちょっと変わった訓練をしてみましょう」

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