猫とあたしでカウンセラー

小日向佑介

こころの姿

第1話:わたしの記憶

 ベッドを覆い尽くすたくさんのぬいぐるみと、積み上げられた絵本の山脈。買い与えられた娯楽に囲まれるわたしは、さしずめ一国一城の主だったのだろう。

 ただ、玉座に座るわたしに笑顔はなかった。唇を固く結び、眉間に皺を寄せて、適当なぬいぐるみを抱いて両親の帰りを待っていた。


 両親が家に置いていった知らないお姉さんがわたしを抱き抱える。抵抗はしない。いい子にして待っていようね、と。困ったように笑っていた。

 彼女はお菓子作りが得意だった。クッキー、ケーキ、ときには東の国に伝わる和菓子だって作っていた。丁寧に可愛らしい形にくり抜いて出してくるのだ。そうやってたくさんの子供を笑顔にしてきたのだろう。


 違うの。それ・・じゃないの。


 一向に笑わないわたしは、きっと可愛くない子供だっただろう。それでも懸命に尽くしてくれていた。子供ながらにそれはわかる。

 ただ、彼女に笑顔を貰ったところで、それで喜ぶのは彼女だけだ。わたしが欲しいものはなにひとつ手に入っていない。

 機嫌が悪いときには出されたお菓子を床に叩きつけたこともあった。幼いながらに思いつく限りの罵詈雑言をかけたことだってあった。


 それでも彼女は嫌な顔をせずにわたしに寄り添っていた。わたしのことなどなに一つわかっていない、煩わしい。どこかに行って、ひとりにして。

 そんな想いを言葉にすれば、涙と一緒に流れて消える。わたしの言いたいことをどれだけ理解してくれたかなどわからない。彼女はただ優しく抱き締めてくれた。


 泣き疲れて、眠る。目覚めるとき、必ず甘い香りがした。わたしが泣いて眠った後、彼女はいつもお菓子を作っていた。


『一緒に食べましょう?』


 寝起きのわたしは大層可愛げのない顔をしていたことだろう。なのに、彼女はいつもと同じように。まるで母親であるかのように笑って言うのだ。

 そんな生活がどれだけ続いたのか、正確には覚えていない。ようやく彼女との生活に慣れ始め、穏やかに過ごせるようになった頃。


『……ごめんね。私、行かなくちゃ』


 彼女の顔に初めて雲がかかった。

 この家を、わたしの傍を離れなければならない。彼女には彼女の生活がある。わたしだけにかかっているわけにはいかない。元々両親に頼まれて住み込みで働いてくれていたのだ、事情が変わることだってある。

 いまはわかる。しかし当時のわたしは受け入れられなかった。


 わたしを置いていくの? わたしと一緒に待っててくれるんじゃないの? わたしをひとりにするの?


 どれだけ質問を投げかけても、彼女は謝るばかり。説明してくれない。どうしてわたしを置いていくのか、いなくなってしまうのか。一番欲しいものを、やはり彼女はくれないのだ。

 手を差し伸べてくれる。抱き締めてもくれる。だけどわたしの欲しいものはそれじゃないのだ。結局彼女は、わたしの欲しいものなんて理解していなかった。

 彼女の手を振り解き、叫ぶ。


『もうひとりぼっちでいい!』


 その言葉を吐いたと同時。わたしの中からなにかが抜けていくような感覚を覚えた。意識は遠退き、体の自由も利かない。音も消え、支えも失い、暗闇へ。


 ――その暗闇はとても心地良かった。


 温度を感じないのに温かく、音がないのに、なにも見えないのに安心する。重力もない不思議な暗闇に漂っている。

 ここはどこだろう、どうしてこんなところにいるんだろう?

 思考を巡らせようとすれば無音の世界が囁く。


 ここは心地良いだろう?

 なんでなんて関係ない。

 どこかだって関係ない。

 帰りたいなんて考えなくていい。

 今更帰るところもないだろう?


 そうだ。今更帰るところなんてない。ここから帰ったって、わたしの傍にあるのはご機嫌取りのぬいぐるみと読まれもしない絵本の山。誰もいない寂しい家に帰る理由なんてない。

 そう思っていたのに。


『“   ”!』


 わたしを呼ぶ声がする。胸を搔き乱す声。ひとりじゃない、ふたり分。体の内側で不規則に反響してひどく不愉快だった。

 わたしはその声を知っている。なのに顔は思い出せない。ただ、わたしの心を乱す声であることは確か。


 やめて、来ないで。近寄らないで。


 拒絶の意志は世界を歪める。風が吹き、荒び、何者かを寄せ付けまいと必死になる。つらいでしょう、苦しいでしょう。だから早くいなくなって――!

 その想いも虚しく、何者かがわたしの傍に駆け寄ってくるのを感じた。やはり顔は見えない。胸のざわめきの正体はわからないまま。


『……僕たちに出来ることなんて、これくらいだ』

『これからはずっと一緒だからね、“   ”』


 苛立つわたしを前にして、甘い声音。彼らの言葉の全てが煩わしい。砕けそうなほど歯を食い縛り、叫んだ。


『……なんでっ!』


 ――わたしの記憶は、ここで終わり。

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