6 理由

 真剣にメイクさんの道を進むことにして、友人たちにはプロの知り合いに教えてもらうのだと言っておいた。週に一度か二度、旺汰さんのところに通う大義名分を作ったのだ。不思議なことに、あのお店に入るところを誰にも見られたことはない。これも、レッテさんの不思議な力……ということなのだろうか。(偶然たまたま、ということもないことはなさそうだけど)

 旺汰さんが街にいるのも時々見かけた。相変わらずベタ塗りの化粧で、遠巻きに笑いものにされている。私はまともな旺汰さんを知っているので、いたたまれなくなってその場を離れてしまうのだけど。

 だから、誰も私が旺汰さんと交流があるとは気付いていなかった。


「最近楽しそう。彼氏でもできたんじゃない?」


 そういって勘ぐられても、上がるのは的外れな名前ばかり。

 私はそんな状況を楽しんでいた。ひとつだけ小さな不満も抱えながら。


「おーちゃーん、運転できるんでしょ? ね、行こうよー」

「おーちゃんって言うな。ごめんだね。友達を誘え」


 小さな丸椅子に座る旺汰さんを背中でぐいぐい押して、少しずつ椅子を奪いながらおねだりする。


「レッテさぁん」

「ワタシは行きたいのよぉ。でも、おーちゃんの気の向かないことを無理にさせて関係がこじれても、ね?」

「もぅ。いつもは好き勝手に旺汰さんの身体を使ってるのに」

「人聞き悪いわぁ。本当に好き勝手をするなら、もっと楽しんでるわよ?」

「え。楽しんでないと?」


 一瞬力を抜いた瞬間に、レッテさんはひょいと立ち上がって、倒れそうになった私の腰に手を回して軽々と持ち上げた。そのまま椅子に座り直して、私はその膝の上に横抱きに抱えられる。一瞬の出来事で、私はニヤニヤするレッテさんの――旺汰さんの顔を見上げる羽目になってしまった。


「あ、あれ?」

「かわいいよ、ゆめ」


 頬に手など添えられて、下手なウィンクと共にそんな言葉を囁かれる。でも、赤くなったのは旺汰さんの方だった。彼はもう一度勢いよく立ち上がって、私は膝から転げ落とされる。


「いったぁ」


 打ったお尻をさすれども、旺汰さんは向こうを向いたまま黙ってこぶしを震わせていた。


「……女子高生はもう帰れ」


 落とされた言葉が、思っていたよりずっと低くて冷やりとしたので、私は週末に二つ隣の町で開かれる美術館の小さなイベントに旺汰さんを誘うのを諦めざるを得なかった。

 次の週に会った時には、旺汰さんもレッテさんもそんなことなかったかのように普通だった。

 いつものようにクレンジングシートでベタ塗りの化粧を落とすところから始めて、無防備な旺汰さんの顔をしばし眺める。フルメイクはできないので、ベースだけとか、目元だけとか、日によって変えていたのだけど。

 今日は……

 手にした下地リップを、ふとケースに戻した。別の、小さな缶を開ける。人差し指で掬い取って、そっと彼の唇に当てた。

 ピクリと彼が反応して、少し身を引き、うっすらと目を開ける。


「女子高生……?」

「リップですよ。動かないでください」


 指先で柔らかい感触を確かめながらゆっくりとなぞっていく。旺汰さんの頬がチークを入れたように淡く色づいて、何かをこらえるように眉が少し潜められる。

 ぞくりと、背筋が震えた。とくん、と心臓が少し強く打つ。

 いつもは持つ紅筆を持たずに、口紅をひねり出し、それも指先に色を取った。

 真っ赤なルージュを指の先で伸ばしていく。


「じょっ……」

「黙って」


 艶やかな赤に濡れる唇に、どきどきする。

 旺汰さんを好きにできるこの瞬間がたまらない。それが、旺汰さんにだけ感じるのか、他の人にも感じるのか、メイクしてあげたことのある人数が少なすぎてわからない。

 綺麗に赤の乗った唇をもう一度指でなぞって、吸い寄せられるように顔を寄せた。

 触れる直前、がつっ、と肩を掴まれて引き離される。

 せっかく塗った口紅を手の甲でこすりつけ、旺汰さんは赤い顔で睨みつけてきた。


「何しようとした! 女子高生! 俺を犯罪者にするつもりか?!」


 私はわかりやすく頬を膨らませて抗議する。


「減るもんじゃなし。美味しそうだったんだもん」

「おま……っ、どこの、エロオヤジだ!!」

「だいたい、旺汰さんが言いふらさなきゃ、誰も知ることはないんですよ? 外で遊んでくれない分、中で遊んでくれたっていいじゃないですか」

「あそ……遊ぶのは、友達とにしろ!!」

「旺汰さんは友達じゃないんですか? じゃあ、なんですか?」


 ひどく静かな間が流れて、旺汰さんの瞳から光が薄れる。初めて会った時の、彩度の低い表情に戻っていく。


「客と、店員」


 冷たく逸らされる視線に、そう言われると判っていたのに傷つく自分を自覚した。

 悲しくなるかなと思っていたのに、沸いてきたのは怒りだった。

 レッテさんとは出掛けるのに。レッテさんとは一緒なのに。、私とは歩いてくれない。

 とても、理不尽な怒りだった。自分は、ベタ塗りオネエの旺汰さんを避けるくせに。

 鞄を漁って財布を取り出し、中身を全部ぶちまける。そのままショーウィンドウに飾ってあったモザイクガラスのランプを引っ掴んで出口へと向かった。他の荷物も全部置いたまま。


「おい! こら、女子高生!」


 焦って旺汰さんが追いかけてくるけれど、彼は外へは出てこない。こんなことをしてもきっと。

 乱暴にドアを開けて外へ飛び出す。

 うつむいていた視界の端に自転車のタイヤが飛び込んできて、耳障りなブレーキ音が辺りにこだました。みるみる自転車が近づいてくる。

 死んだな。

 そんな軽いことを思っていた。




 いつまでもやってこない衝撃に、あれ? と我に返る。目をつぶったりしていたわけではないんだけど。


「おーちゃんはね」


 いつの間にか隣に立っていたレッテさんが、私の持っていたランプをそっと取り上げた。

 ウェーブのかかった長い黒髪をかき上げて、お店を振り返る。旺汰さんに最初にメイクをした時に見た、美人のお姉さんの姿で、つられて私も振り返った。

 お店の開け放たれたドアの向こうで、旺汰さんが青い顔をしている。パントマイムしているみたいに、透明な壁に手をついて。

 あれ? と、レッテさんを仰ぎ見る。


「おーちゃんは、おーちゃんとしてお店から出られないのよ。許してあげて」


 手を引かれ、入り口まで誘導される。レッテさんの手の中で、ランプがサラサラと崩れていった。レッテさんが店の中へ――旺汰さんの中へ戻ると、私の背後でけたたましいブレーキ音と派手な転倒音がした。




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