惨憺 04

 「死ぬならすっからかんになってから死ね。誰にも迷惑をかけずに死ね。この世から消えるように死ね。何も残すな、髪の毛1本から、戸籍まで何もかもこの世に置いていかずに死ね。全ての人間の記憶からも消えてから死ね。貰ったものも返せ、買ったものも捨てろ、そして死ね」


 彼女は息を切らさず淡々と、それでいてこの世のものとは思えないような声量で僕に怒鳴りつける。


 迷いなんて一切ない。戸惑いも後悔もその口調からは感じ取ることが出来ない。


 僕は一体何度死ねといわれたんだろう。

 

 1度破壊された鼓膜は彼女が話し始める頃には回復し、むしろ今までよりもクリアに物事を聞き取れるような感触があった。


 辺りに吹く凍てつくような風も、主婦たちの井戸端会議も、少し遠くの中学のチャイムの音まで聞こえるほどに。


 もちろん彼女の言っていることもすべて聞き取れているのに、どうしてか理解が追い付かない。


 目の前が真っ白に、頭の中にはもやがかかったように何も考えられなくなる。


 死ねという言葉だけが僕の頭の中をぐるぐると、永遠に回り続けるコマのように頭の大事な部分を削りながらその場に滞在し続ける。


 強烈な正解が、苛烈な正義が僕の前に佇んでいるこの現実に目を反らしたくても反らせなかった。


 そして僕の目にはまたしても皺の見えない、いや、今回は手を固く握られていたがゆえに見えないその拳が僕の頭上に落ちた。


 ゆっくりとしたスピードだったと思う。


 だけどゴンと音が鳴り、僕はその場にうずくまった。


 痛い。今度は明確に痛みを感じた。


 すると僕の頭は明瞭になり、もやが少し薄くなる。


 彼女の薄ら笑いを浮かべる表情も、振り上げた拳をもう1度僕に振り下ろそうとしていることも、少々の人だかりが僕の家の周りに僕たちを囲んで出来ていることも視認できた。


 街談巷説、道聴塗説。


 安心安全なこの地に異質な空気があふれ出ている。


 普段から静かなこの町にはふさわしくないような怒号が飛ぶ。


 閑静な住宅街に突如として現れたその火種は僕の方へだけ向き、なんだ?なんだ?と好奇な視線と、なんとかしろと圧力のかかった視線が行き交う。


 まさにカオス。


 これ以上有名人になるのはごめんだ。


 「す、すいません!」


 僕の怯え切った声は彼女の振り上げた拳を一時停止させることはできた。


 「なんだ?」


 「そのぉ・・・・外は寒いので、中でしませんか?」


 僕は彼女をうずくまった状態で見上げながら、お話の部分を強めに告げる。


 決してスカートの中を覗こうなんて思っていない。


 こんな暴力女にそもそも性欲なんて沸かなかった。


 ・・・・貧乳だし。


 彼女は少し考えた後、ふむと頷いた。


 「それもそうだな。是非ともそうさせていただこう。私の辞書には、来客には温かいお茶を出すべきと記されている。ちょうど体も冷えてきたから僥倖と言えよう」


 「ははは・・・・そうですね。それではご案内しますね」


 こちらですと僕は立ち上がり、玄関の扉を開ける。


 これ以上痛いのはごめんだ。


 しかし、僕は1つ重要なことを忘れていた。


 彼女の振り上げられた拳はただ止まっていただけで、スカートという鞘には納められていないという事を。


 ・・・・・・・・僕の後頭部からまたしても火花が散った。





 温かいお茶とお茶請け、いつもより少し強めに入れた暖房は僕たちの体をすぐに温めた。


 普段静かなリビングに、僕以外の呼吸音が聞こえる。


 けれどどうだろう。


 今、この家はあまり音を響かせない。


 「いやぁ、それにしてもいい家だ。広くて清潔感もある。まるで新築みたいだな」


 「ははは。建ってから結構経つと思うんですけどね」


 なんてことない雑談に、僕は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。


 そりゃあ広くも感じるし、清潔にも見えるだろう。


 だって・・・・・・・・


 「それに防音性も高そうだ。これでようやく全力を出せる」


 ・・・・は?


 僕のシリアスな雰囲気をガン無視で不気味なことをのたまう彼女。


 相変わらずうっすらと笑みを浮かべたその表情には、どこか使命感のようなものがうかがえる。


 背筋が凍る。冷や汗が背中を伝う。


 体が硬直し、手足に痺れが迸る。

 

 一歩一歩迫る彼女の表情は変わらず、陶然しているような表情に怯えを感じる。


 逃げなきゃ、それが無理なら何か言わなきゃ。


 せめて猶予を、モラトリアムを要求せねば。


 ぐるぐると最善の術を思考するが、どれも不完全で、この追い詰められた状況を一撃打破するようなアイデアは一向に思い浮かばなかった。


 迫る彼女に後退するしかない僕は、あんなにも広いと感じていたリビングの壁に後頭部をぶつける。


 逃げられるところまで逃げたと表現するのか、それとも追い詰められたと表現するのか。


 この状況を第三者が見ているのなら間違いなく後者であろう。


 まぁ、第三者は僕を置いてどこかに消えてしまったんだけれど。


 「家の中に誰もいないのは僥倖だったよ」


 僕を追い詰めた彼女は、腰が抜けてへたり込んでしまった僕に、文字通り上から目線で語り掛ける。


 「君と私しかいないのならここは治外法権だ。私が全てで、日本の憲法やらなんやらは何の意味も持たない」


 いやいや、そんなわけないだろ。お前はどこの独裁者だ。


 ・・・・と強がるのはあくまで頭の中だけで声には出さない。


 あぁ、また強がっている。出さないんじゃなくて出せないんだった。


 「私の辞書には、君のような軟弱弱弱者は古来から伝わる暴力教育が1番適していると記されている。事実、私は教育の現場には時として暴力が必要であると考えているしね」


 そんなわけないだろ!暴力なんて頭の弱い教育者の逃げ道じゃないか!


 「それに暴力に則った恐怖教育は手っ取り早い。なんせあまり時間がない。この後にも予約があるんでね」


 僕は胸ぐらをつかまれ、強制的に彼女と同じ目線まで上げられる。


 彼女の瞳を見ればこれから始まる事象が情状酌量の余地もないことは僕のような鈍感な人間にも理解できた。


 揣摩臆測するつもりは毛頭ないと言わんばかりに、薄ら笑いを浮かべていた口元は改めて真一文字に閉じられていた。


 僕から見える彼女は悪鬼羅刹で、彼女が見る自分自身は正義の執行人なんだろう。


 悪を裁き、悪を恨み、悪を根絶する。


 彼女にとって僕は1つの悪で、紛れもなく道を外した人間の1人で、彼女の正義の対象で。


 他の誰かが『同情』しても、『運命』的じゃないかとうらやましがられても、私に比べれば『無聊』な日常だよと比べられても、彼女にとってはただの悪で、滅ぼすべき人非人であることには何ら変わらないんだろう。


 そう、彼女は僕やあいつと違って本物なんだ。




 

 

 その後は早かった。


 「・・・・これでようやく分かったんじゃないか?いや、これで分からないのならまた改めて同じことをするまでだがな」


 悪人のようなセリフを息一つ切らすことなく告げる彼女は正義の執行人らしい。


 リビングに広がる『惨憺』な状況を見る限り、どちらかというと悪人は彼女としか思えないんだけど。


 清潔感を保っていたリビングは崩壊していた。


 テーブルの位置はずれるどころか、もはや大々的に模様替えしたと言わんばかりに乱雑に移動し、観葉植物は倒れ、壁には無数の傷が出来ていた。


 リビングに隣接するキッチンには割れたコップや皿が散在しており、素足で歩くことを考えるだけで身震いが生じる。


 まるで強盗にでも入られたのかと勘違いするほどに乱れたリビング、そしてキッチンだったが、入ってきたのは正義のヒーローのようなもので、教育者のようなものだったらしい。


 ・・・・あぁ、でも正義は必ず勝つというし、最後に立っている彼女こそがこの状況下では本当に正義なのかもしれない。


 正義を掲げる人間が強いのではなく、強い人間こそが正義そのものなんだという理論はあながち間違っていないのかもなと思う。


 意図せず、またしても彼女のスカートの中身を覗くような態勢をとってしまっているが、彼女の乱れた制服は下から覗き込むより、同じ目線から見えるはだけた胸元をじっくりくまなく観察する方がよっぽどいい。


 美乳だった。着やせするタイプらしい。


 「どうだい。これで君も初めて死の恐怖ってやつを体験できたんじゃないか?」


 彼女は拳をさすりながら僕に問いかける。


 表情から察するにどうやら達成感に満たされているようだった。


 僕はその瞬間安堵したのと同時に、この女の怖さを再確認した。


 唾を飲み込むのと同時に唾に付随する血液も一緒に飲み込む。


 異質で歪で粘っこい鉄味が喉を通り体に流れる。


 口の至るところに傷が出来、体にも切り傷や擦り傷、打撲に至るまで僕の体はこっぴどくやられた。


 もちろん一方的にやられるほど僕も優しいわけではないが、抵抗することしか出来なかった。


 彼女の制服がはだけているのはそのせいである。


 ・・・・・・・・意図して胸元をはだけさせたわけではない。


 まぁ、そんな誤解は僕の傷だらけの体を見れば一目瞭然で、そのような余裕はまるでなかったと言える。


 「ここまでしてもなお、君はまだこんなことが出来るのかな」


 彼女は僕にを手渡す。


 僕はそれを受け取り、俯く。


 「・・・・・・・・ふむ、そうか。どうやらやり方を少し間違えたみたいだ」


 彼女は呵々大笑をし、僕に慈愛の視線を向け始めた。

 

 「どうやら私は少しの誤解と早とちりをしてしまったみたいだな。今日はもう時間がない


 「そうだな、今回は私の怒りが爆発したと思ってくれ。君に対して私は殺意が芽生えたんだ。だがもう落ち着いた


 「また明日来るよ」


 「えっ?」


 僕は思わず驚きを隠せずにいた。


 「なぁに、心配しないでくれ。明日はもう少し長いこといられるように努力するさ」


 「いや、そうじゃなくって・・・・」


 「安心したまえ」


 そう言って彼女は「ふふん」と自慢げに鼻息を深く吐く。


 胸を広げ、大げさな仕草をした。


 「急にはいなくならないさ」


 それじゃあと続けた彼女はくるりと僕に背を向け、『惨憺』なリビングを『惨憺』なこの家を、『惨憺』な僕の前を後にした。


 あまりに静かなこのリビングは、あまりに静かなこの家は、あまりに静かな場所に居続けた僕にはやはり、彼女の音はよく響く。


 


 


 


 


 


 



 


 


 

 


 


 


 


 


 

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