5

 最後に向かったのは七瀬瞳の自宅だった。

 七瀬は動機の点で犯人の条件を満たしているが、蓑田殺害の時間帯の彼女にはアリバイがあった。アリバイ工作の可能性もあるため裏取り捜査をしたが、七瀬の自宅マンションの廊下に設置された防犯カメラには、蓑田の死亡推定の時刻少し前に、来訪した松嶋を出迎える七瀬の姿が記録に残っていた。その後、松嶋がマンションを出る姿が翌朝の映像に残っていたが、その間二人が廊下に出た映像は残っていないため、七瀬の蓑田死亡時のアリバイは完全に成立していた。

 無論、松嶋と共謀してベランダから外に出たという可能性もあるが、これから殺人を行う人間がそんな目立つ真似をするとは思えないし、付近の住民でそれを見かけた人間もいなかった。

 つまり、彼女の犯行を断定できる厳然たる証拠は何もないため、捜索令状は発行されなかった。家宅捜索ができない以上、任意でどこまで情報を引き出せるかが鍵になる。

 気合を入れてマンションに入ろうとした矢先、ちょうど松嶋がエントランスから出てくるところと鉢合わせてしまった。私服姿の彼は、爽やかな笑顔を浮かべてこちらに歩み寄ってくる。

「いつぞやの刑事さんたちじゃないですか。またお会いするなんて思いませんでした。やっぱり瞳の捜査をしていたんですね」

「松嶋さん、でしたね。今日は平日ですが、お仕事のほうは?」

 槇原が前に出て質問すると、松嶋は困ったように笑った。

「今日は私用で休みを取ってるんですよ。そのついでに、瞳が最近情緒不安定だったんで、ちょっと寄ってみたんです」

「ほお。七瀬さん、何かあったんですかね」

 槇原はとぼけているが、その原因は当然、速水たちのせいで松嶋に蓑田とのことがバレてしまったことと、須賀からの恐喝のメッセージだろう。せっかく掴みかけた幸福を失う不安と、今まで築き上げてきた実績を失う恐怖とで、彼女の情緒が不安定になるのも当然と言える。

 松嶋など放っておいて早く七瀬の様子を見たかったが、松嶋も七瀬の関係者という意味で立派な重要参考人だ。偶然とはいえ、彼と出会って聴取をせずにおくわけにもいかなかった。

 槇原の質問について少し考えたあげく、松嶋は困ったような笑顔のまま答えてくる。

「さあ? よくわかんないですけど、生理とかじゃないですかね」

「あれから、七瀬さんと結婚について話し合いましたか?」

「それがまだなんですよね。今日も結婚の話をしようとしたら、露骨に話題そらされるし……刑事さん、もしかして瞳にチクりました?」

「あなたの証言の裏取りはさせていただきました」

 松嶋の質問に婉曲的に答えると、槇原は更に質問をぶつける。

「それより松嶋さん、今日の午前二時から三時の間、どこで何をされてましたか?」

「またアリバイですか? その時間だと家で寝てましたよ。マンションの防犯カメラを調べてもらえば、すぐ裏は取れると思います」

「ご協力ありがとうございます」

「また殺人ですかね? ミステリは好きだけど、実際身近で立て続けに起きると物騒だなぁ」

 松嶋は愚痴るように言ってから、こちらの横を通り過ぎて駅のほうへ歩き出す。槇原もマンションのほうへ歩き出していたが、速水は思わず松嶋のほうへ駆け寄っていた。

「あの!」

 呼び止めると、松嶋は振り返って首を傾げた。

「あれ? 刑事さん、まだなにか質問でも?」

「七瀬さんとの結婚、どうするつもりなんですか?」

「……それ、刑事さんに言う義理あります?」

 そんなものは無論、ない。

 だが、彼女の人生を台無しにしたかもしれない人間として、聞かずにはいられなかった。

 しばらく松嶋を睨んでいると、彼は根負けしたようにため息を漏らした。

「正直に言うと、白紙に戻そうかと思ってますね。だって、結婚前にああいう重要なことを隠されてたんじゃ、今後もどんな隠し事をされるかわかったもんじゃないでしょ? 信用できない相手を傍に置いておけるほど、僕は不用心じゃないですよ」

「あなた、七瀬さんを愛していたんじゃないんですか?」

「青臭いこと言いますね」

 松嶋は面白がるように笑ってから、真剣な目で速水を見据える。

「そんなの、愛してたに決まってるじゃないですか」

 思わぬ言葉に、速水は固まってしまった。

 間抜けな顔をして硬直している速水から視線を外し、松嶋は苦笑を浮かべる。

「好きでもない女と結婚するほど酔狂な男に見えます? 愛してたから、仕事のために男と寝るような女だと知ってショックだったんじゃないですか」

「でも、それには事情が……」

「枕営業のことを隠す事情なんて、結婚するのに不利になるから以外ないでしょ。あなたは僕のこと、瞳をトロフィーワイフとしか見ていないクズ男だと思ってるかもしれませんが、僕からすれば瞳も似たようなもんですよ。男のことを物件か資産としか思ってなくて、少しでもいい物件と結婚したかっただけ。じゃなかったら、僕みたいに金持ってるだけで性格の悪い男を選ぶわけないでしょう? お互い様ですよ」

 松嶋の辛辣な指摘に、速水は何も言い返せなかった。

「ま、僕は結婚しないですけど……瞳がいつか、いい相手を見つけて結婚する日が来るといいなとは思いますよ。今回みたいに、隠し事せずにいられる相手とね」

 どこか寂しげな顔で言って、松嶋は今度こそ駅のほうへ去っていった。

 速水が呆然と立ち尽くしていると、いつの間にか近くに槇原が立っていた。彼は下手に慰めるようなことはせず、ただ短く尋ねてきた。

「気が済んだか?」

「……すみません。無駄な時間を使ってしまって」

「無駄じゃねえさ。確かに七瀬の自業自得な部分はあるが、元はと言えば俺の失態が招いたことだしな」

 七瀬の過去を松嶋に勘付かせたことに、槇原も責任を感じているらしい。だが速水と違って必要以上に引きずることなく、彼はすでに捜査のほうに焦点を合わせている。

「気が済んだんなら、さっさと七瀬の聴取に行くぞ」

「はい」

 引きずっていた思いを断ち切って、速水は槇原の背中を追ってマンションに入った。七瀬の居住階までエレベーターで上がり、部屋の呼び鈴を鳴らす。

 だが、少し待っても返事がない。

 速水は妙な胸騒ぎがして、槇原を見た。彼も同感だったらしく、もう一度呼び鈴を鳴らしてから強くドアをノックする。

「七瀬さん、いませんか?」

 声を張り上げるが、やはり返事はない。

 松嶋はついさっき、ここで七瀬と会話をしてから出ていったはずだ。その後に七瀬がマンションを出たのであれば、速水たちとすれ違っていたはずだ。状況的には、どう考えても彼女は部屋の中にいるはずなのに、どうして返事がない?

 嫌な予感が頭をよぎり、速水はとっさにドアノブに手を伸ばした。だが、槇原は速水の腕を掴んでそれを遮り、指紋がつかないようハンカチを握った手でそっとドアノブを回した。

 ドアノブはゆっくりと回り、手前に引くとそっと開いた。幸い、ドアにロックはかかっていなかったらしい。開いたドアのわずかな隙間に体をねじ込んで、速水は室内に入った。

 室内で、七瀬はこちらに背中を向けて座り込んでいた。長い髪はぼさぼさに乱れており、部屋着姿の背中は小刻みに震えている。速水はひとまず、彼女が無事であることに思わず安堵の息を漏らした。

「七瀬さん、いるなら返事を――」

「来ないでっ!」

 激しい声で拒絶され、速水は足を止めた。

 七瀬がゆっくりと振り返ると、彼女の手には包丁が握られていた。その切っ先は自分の首元に突きつけられていて、ほんの少し手元が狂えば先端が喉元に刺さって大量の血が流れ出すだろう。目の下にはクマがひどく、化粧のされていない顔には絶望と怒りが渾然となっている。

 速水を睨む七瀬の目から、涙が一筋こぼれ落ちた。

「もう何もかも終わりよ……男に騙されたってだけで、結婚も台無しになって、仕事もめちゃくちゃになるなんて……どうして私だけこんな目に合わなきゃいけないの? 私がそんなに悪いことした……?」

「落ち着いて、七瀬さん」

「来ないでって言ってるでしょ!」

 ゆっくり歩み寄ろうとするが、大声で牽制されて動きを止める。

 速水は七瀬から目を離さないまま、この状況を打開できる方法を必死に考える。七瀬との距離は約三メートル。こちらが走るより包丁が彼女の首筋を突き刺すほうが遥かに速い。彼女の自死を止めるなら、ここから説得する以外に方法はない。

 興奮状態の七瀬をなだめるように、速水はゆっくりと声をかける。

「七瀬さん、落ち着いてください。あなたは何も悪くありません」

「じゃあ、どうしてこんなひどい目に合わなきゃいけないのよ!」

「あなたに非がなかったとしても、どうしようもなく理不尽なことがたまに起きてしまうんです」

「そんなの、納得いかないわよ! なんで私たちがこんなに傷ついてるのに、傷つけた男のほうはのうのうと生きていられるのよ! そんなの絶対に許せない! 私はここで死んで、あいつらに自分がしたことの意味を思い知らせてやるんだ!」

「そんなことをしても、彼らの思うつぼですよ」

「そんなこと、どうしてあなたにわかるのよ!」

「冷静に考えてください。あなたをモノのように扱ってきた蓑田も、あなたを利用して金づるにしようとした須賀もすでに死んでいます。あなたが彼らを糾弾せずに死んでしまったら、彼らは『残酷な殺人犯に殺された哀れな被害者』のまま、死後も名誉が守られたままになるでしょう。今まさにあなたを切ろうとしている松嶋も、あなたが自殺すれば別れ話を切り出す面倒がなくなって、自由に次の漁色を始めるだけです。あなたがここで死ぬことは、彼らにとってメリットしかありません」

「じゃあどうしろって言うのよ!」

 七瀬は感情的に喚き散らすが、速水はあくまで落ち着いた声音で話を続ける。

「私は昔、父親にレイプされかけました」

「……え?」

 思わぬ話の流れに、七瀬は意表を突かれたようだった。今まで乱暴な言葉を投げつけていた相手が、自分より悲惨な目にあっていたと知り、彼女の瞳にわずかに同情の色がにじみ始める。

 速水はそれを見逃さず、七瀬に自身の過去を語りかける。

「父親と言っても、義理の父親です。母親が再婚して連れてきた男で、初日から私のことをべたべたと触ってきたり、私の着替えをのぞこうとしたり、最悪な男でした。何度も母親にそのことを訴えましたが、母は私の話になど聞く耳持ちませんでした。それも当然です。母と私の生活は困窮していて、その男の資金がなければまともに暮らせなくなりそうだったからです。そうやって問題を放置された結果、私は義父に押し倒されたんです」

「そんな、大丈夫だったの……?」

「はい。用心して、いつでも反撃する準備をしていましたから。結局私はそれからすぐ施設に引き取られて、親と縁を切って一人で生きていけるように、警察に入ることに決めました。ですが……その時期、私はずっと思っていたんです。私の何が悪かったんだろう、どこで間違ったんだろうって」

 七瀬はこちらの話に聞き入っているのか、徐々に包丁が首元から下がっていく。それを確認しながら、速水は話を続けた。

「私が義父を通報した時、義父と母は言いました。『家の中であんなに目が合うなんて、お前が俺を誘惑してきたんだろ』とか、『お前のせいで私の人生はめちゃくちゃだ』とか、『お前のような子どもを生むんじゃなかった。死んでしまえ』とか……正直、真に受けてたら頭がおかしくなりそうな言葉でしたが、それでも考えてしまったんです。私がもっとうまくやれれば、母との縁を切るようなことにはならなかったんじゃないか、母の人生をぶち壊すことにはならなかったんじゃないかって。今にして思うと、私にできることなんてあるわけなかったんですけど、それでも自分を責めて、自殺を考えたこともありました」

 苦笑まじりに言ってから、速水は七瀬に向かって手を差し伸べた。

「今のあなたも、きっと同じなんです。自分の何が悪かったのか、考えてしまう気持ちはわかります。でも、あなたが何も間違ってなくても、避けようのない落とし穴に落ちてしまうことはあるんです。だから、自分を責めないでください。きっとあなたも、いつか今を振り返って笑える日が来ます」

「そんなの……いつになるかわからないじゃない……」

「あなたならすぐにつかめますよ。だって、あなたは私の過去を気遣ってくれる優しい人ですから。きっとすぐに、あなたを支えたいと思う人が現れます」

 根拠のない言葉だったが、速水は祈るような気持ちでそう口にした。自殺を思いとどまらせるための説得の言葉ではなく、本当にそうなればいいと心から願った。

 七瀬は包丁を手にしたまま、顔をうつむけた。さきほど怒りに震えていた肩は、今は涙をこらえるように震えていた。

「……あーあ。刑事さんが男だったらよかったのにな」

「今は女性同士のカップルも普通ですよ?」

「いやよ。私、子ども欲しいもん」

 笑いまじりの言葉とともに、七瀬はようやく包丁を手放した。

 速水は素早く七瀬に駆け寄ると、床に転がった包丁を後ろの槇原に渡した。彼女の体を抱きしめながら、他に自殺のできる武器を持っていないか確認する。

 ――よかった。救えた。この事件に関わって以来、ひどい男たちに騙されてきた女性と何人も出会ってきたが、たった一人でも自分の手で助けることができた。

 武器がないことをチェックし終えてから、速水はようやく七瀬の顔を正面から確かめた。彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたが、その顔にはどこか吹っ切れたような笑顔が浮かんでいた。

「刑事さん」

「はい」

「私、幸せになれるかな?」

「少なくとも、私より苦労することはないと思いますよ」

「……本当かなあ。裏切らないでよね?」

「もちろんです」

 冗談めいた口調で言う七瀬に笑い返しながら、速水はもう一度彼女をそっと抱き締めた。

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